第十二話 心配と安堵

 ひとしきり苦しんだあと、陽一は父に向けて『元凶が偉そうなこと抜かすな』と送りつけた。無理矢理枕に頭を押しつけ瞼を閉じると、時間はかかったがどうにか寝つくことができた。

 それでも、目が覚めたのは六時前。眠気が残る頭は鉄のように重く、しかし二度寝をする気分にはなれなかった。軋む頭を手で支えながら、着替えて一階のリビングに降り、音量を絞ってテレビをつける。

『そこまで言わなくていいじゃない! お父さん傷ついた!』

 という、キャラがぶれまくった怪文書が届いたのが七時半頃。適当にメッセージを返しつつ、漫然とテレビを眺めていた。画面に映し出される情報が、まったく頭に入ってこない。

 そのまま八時近くになった。休日とはいえ、星奈にしては起きてくるのが遅い。流石に不安に感じてきた陽一は、テレビを切ってソファーを離れた。

「昨日のこともあるしな……」

 ぼそっと独り言ちた陽一は、足音を殺して階段を上る。星奈の部屋の前まで来た彼は、やはり音を立てないよう慎重に、ドアに耳を当てて中の音を確かめる。物音はしない。

 まだ寝ているなら、起こさない方がいいだろうか。そんな思いも過ったが、あまり生活リズムが崩れるのも良くないだろう。意を決して、陽一はドアをノックした。

「星奈、まだ寝てるのか? もう八時だぞ」

 少し強い声で呼びかけて、反応を待つ。しかししばらくしても、ドアが開くどころか物音が聞こえてくることすらなかった。

 嫌な予感が膨れ上がる。敢えて具体的に想起することを避けた無数の不吉な可能性が、脳裏を掠めていった。

「……星奈?」

 訝しんだ陽一は、それ以上待たずにドアを開けた。

 カーテンは開いていない。明かりもついていない。薄日が差し込む仄暗い部屋の中、それでも確かに星奈の気配はあった。ベッドの上、確かに横たわる人影が見えた。

「……よーいちぃ……」

「星奈っ!?」

 くぐもった声を聞いて、陽一は慌ててベッドに飛びついた。星奈の姿を確かめる。

 彼女は陽一の姿に気づくと、熱っぽく潤んだ瞳で彼を見上げた。上気した肌にうっすらと汗を浮かべた星奈は、今にも掠れて消えそうな声で言葉を紡ぐ。

「風邪、ひいたっぽい……」

 訴えを聞いた陽一は、無言で彼女の顔を眺めていた。二度、三度と瞬きをして、それから大きく肩で息をしながら、

「……なんだ風邪かぁ」

「いや心配してよ」

 鼻声の星奈が放ったツッコミは、陽一の意識を揺らすこともなく、虚しく部屋の空気に溶けていった。


「ほれ、今おかゆ用意して持ってくるから、これでも飲んどけ」

 そう告げて、陽一は水とスポーツ飲料のペットボトル、それにコップをベッド脇のサイドテーブルに置いた。への字に眉を曲げた星奈が頷くのを確認してからキッチンに向かった彼は、レトルトのおかゆのパックを温める。その傍ら、スマホの画面上に何度か指を走らせた。

 おかゆの買い置きは今の一食分だけ。スポーツ飲料も残っていない。買い出しに行くべきだとは分かっているのだが――特に昨晩のこともあって、星奈の元を離れることを多少なりとも不安に感じるところもあった。

 だからまぁ、ちょっとした裏技を使った。確実性はなかったが、果たして、おかゆを器に移している最中にスマホが震えた。すぐさま確認し、再度操作をしてから、おかゆの器とスプーンをトレイに乗せて星奈の部屋へ戻る。

「用意できたぞー」

「……ありがどぉ」

 辛そうな声で言いながら、星奈がのそりと上体を起こした。ペットボトルとコップを隅に寄せて、トレイをサイドテーブルに置いた陽一は、空いた手で星奈の背中を支えてやる。

「食えそうか?」

「たべる~……」

 やはり声は弱々しいが、それでもはっきりと頷いて、星奈はスプーンに手を伸ばす。きちんと自分で食べられそうな様子を見て、陽一が安堵の息を漏らす。

 おかゆを掬って、息を吹きかけ、口に運ぶ。ゆっくりと、だが着実に、胃に収めていく。

「無理すんなよ」

 つい念を押さずにはいられなかった。そんな彼の言葉に、星奈は小さく首を左右に振る。

 元気なときには折に触れて陽一に構って欲しがる割に、こんな風に体調を崩したときに限って、陽一に心配をかけまいと少しでも大丈夫そうに振舞う癖が、星奈にはある。だからかえって心配にはなるのだが、今日に関しては最初から「風邪をひいた」と助けを求めてきた。そのことを考えると、変に我慢を重ねることもないかもしれない。

 陽一はそれ以上は何も言わず、星奈が食事を終えるのを待つ。時折コップの水に手を付けながら、時間をかけて星奈はおかゆを完食した。

「ごちそうさま」

「ん、これくらい食えるなら、ひとまず安心だな。薬持ってくる」

 そう言って、足早に一度部屋を出た陽一は、すぐに風邪薬を持って戻ってきた。一包飲んで、星奈は溜息にも似た息を落とした。背中が一段と丸くなるのを支える手に感じ、陽一は彼女の顔を覗き込みながら、

「どうする? 横になるか?」

「……そうする。あ、でも先にトイレ」

 問いかけに、答えながら星奈は立ち上がる。自分の調子を確かめるような慎重な足取りだ。歩き始めようとしたところで、陽一は彼女の手を取った。

「ついてた方が良さそうだな」

「ごめんね、ありがと」

 自嘲とも苦笑ともとれる笑みとともに、星奈は礼を言って陽一の手に体重を預けた。彼女を連れて、陽一は歩き出す。

 少しゆっくりとしたペースではあるが、案外危なげのない歩みだ。最初に助けを求めてきたときの印象よりは平気そうで、少し安心した。

 星奈をトイレまで連れて行き、出てきたらまた彼女を支えて部屋に戻る。星奈はベッドに腰を下ろすと、身体をゆっくりと横たえた。

 陽一は枕の位置を調整し、掛布団を手繰り寄せて星奈の上に掛ける。そしてベッドからはみ出た手を優しく握った。

「他に何か欲しいものあるか?」

「いまはいい」

「そうか。何か思いついたら言えよ」

 星奈の返事に重ねて告げて、陽一は昨晩のように星奈の手を取ったまま、ベッドの脇に座り込んだ。星奈が困惑の息を漏らす。

「……よーいち?」

「どーした?」

感染うつっちゃうよ」

「ああ。気をつける」

 呼びかける星奈に、あっさりと答えて肩を揺らす陽一。星奈がますます狼狽えたのが分かる。彼女は布団の下で小さく咳き込んだあと、わずかに顔を傾けて陽一の方を見た。

「よーいち、ずっと一緒にいなくていいから」

「そうだな。そのうち離れるかもな。買い物とか行きたいし」

「ずっと見てなくてだいじょぶだから……けほっ、こほっ」

 喋っている途中で、顔を背けて咳き込んでしまう。そんな星奈の手を握る力を強めて、陽一は穏やかな声で言った。

「喋らない方が楽だろ。ちゃんと休めって」

 彼の指摘通り、口を開くのが辛いのだろう。星奈は言葉の代わりに低い唸り声を上げて、小さく身じろいだ。そんな彼女に、陽一はなおも一方的に話しかける。

「心配くらいさせろ。つーかこういうときこそちゃんと頼れよ。遠慮すんな。今までだってそうだっただろ」

 横目で星奈の顔を見て、また視線を正面に戻す。陽一の横顔を視界の端に捕らえながら、星奈は、茫洋とした瞳を潤ませた。

 彼女は陽一から視線を外し、天井を見上げながらぽつりと、

「なんかくやしい……」

 掠れ聞こえた言葉に、陽一が微かに笑い声を漏らした。もう一度星奈の唸り声が聞こえてきた。

「また、寝るまでこうしててくれる?」

「分かった。そうする」

「寝たら、離れてていいから……」

「分かった分かった」

 星奈が紡ぐ言葉に、軽い調子で相槌を打つ陽一を咎めるように、彼の手を星奈の手がきつく握りしめる。とはいえ、陽一に然程の痛みがあったわけでもなく、彼が反省の言葉を口にする様子はない。

 短く不機嫌な息を吐いて、星奈は目を閉じる。そして、数分後にはすっかり寝入っていた。

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