第十一話 どっちが大事?

 自然と肩が落ち、げんなりと息をつく。何も星奈の疑念が原因ではない。陽一自身が口にした通り、ベッドの下を仮に見られたところで――そこには――何もない。そうではなく、今星奈が陽一の部屋へやって来たこと自体に、穏やかならざるものを感じてしまう。

「んで、何か話のネタでもあるのか?」

 そんな心境は押し殺して、何気ない調子で陽一が話を振る。それに対し、星奈は真正面を向いたまま、「んー」と生返事するだけだ。

 そしてそのまま、隣に座る陽一の肩に頭を預けてきた。

「……星奈?」

 つい、名前を呼んでしまった。

 リビングのソファーに並んで座ったときなんかも、たまにこうしてくる。けれど、ここは陽一の部屋で、時間は夜で、着ているのは薄手のパジャマだ。決していつもと同じではない。

 間違っても妹相手に欲情したわけではない。ただ彼女の、ともすれば意図的な無防備さが、紛れもない不穏さを匂わせた。

 陽一の狼狽とは真逆に、彼に身体を預けた星奈は安らいだ吐息を漏らす。

「私は、こうしてるだけでも落ち着く」

 その声に嘘偽りは感じられない。息を吐きながら、一層身体から力を抜き、陽一にしなだれかかる。

 パジャマ越しに触れた柔らかさに、陽一の背筋が粟立った。

「こら、ここで寝ようとすんな」

 嫌そうな声でそう言って、陽一は星奈の肩をぐいっと押し返した。されるがままに上体を起こした星奈は、微かな苦笑で陽一を見る。

「別に寝ようとしたわけじゃないのに」

「嘘つけ。前にもそう言いながら熟睡したことあったろ」

 唇を尖らせる星奈に、突き放すような陽一の指摘。眉根を寄せた星奈は、さっきよりは控えめに身体を寄せてくる。再び背筋に走る悪寒を力づくで押さえ込み、陽一は聞えよがしに溜息をついた。

「ったく、何がそんなに落ち着くんだか」

 問えば、星奈はぼんやりとした口調で、

「陽一が、隣にいてくれるなぁって」

「……くっついてないと駄目なのか?」

「私が平気になるまでこうしてていいって言った」

「言ったけどさぁ……」

「嫌?」

「……嫌、ってんじゃなくて、兄妹とはいえもうちょっと節度をな?」

 立て続けに言葉を交わしながら、言い聞かせるように陽一は告げる。もう一度押し返すように、掌で軽く星奈の頭を押した。

 それに、彼女は自分から撫でられるように、頭を小さく揺らす。


「陽一だから、いいの」


 甘えるような声で、星奈が囁く。

 ぞくりと、脳が震えた。

 受け入れてはいけない。

 突き放してはいけない。

 そんな二つの直感が、肺腑を凍てつかせて思考を叩く。すぐに動けと急き立てる。

「……もー、やっぱお前さっさと寝ろ」

 陽一が、呆れの濃い声でぼやいた。同時に、星奈をほったらかして立ち上がる。突然のことにバランスを崩した彼女は、そのまま陽一のベッドに寝転がった。

 投げ出された星奈の手を、すぐさま陽一が掬い上げる。不満そうに膨れかけた星奈の顔が、きょとんとした表情に変わる。

「自分の部屋戻れ。代わりに、寝つくまで傍にいてやるから」

 起き上がった星奈の手を引き立ち上がらせる。相変わらず渋い声で言いながら、陽一は返事を待たず、その手を握ったまま歩き出した。

 彼の後ろに従いながら、星奈がクスリと笑ったのが聞こえる。

「私が寝たら戻っちゃうの? ずっと一緒って言ったのに」

「四六時中手の届くところにいるとは言ってねぇ。んなこと言い出したら風呂もトイレも一緒になっちまうだろーが」

「ふふ」

 投げやりな口調で言う陽一だったが、星奈が返してきたのは意味深な含み笑いだった。敢えてそれを意識せぬように、陽一は隣の星奈の部屋へ。無造作に扉を開け、星奈とともに中に入る。

 初めてではないものの、この部屋に入るのも随分久しぶりだ。けれど、部屋の様相は記憶にあるものとほとんど変わらない。箪笥の上にちょこんと置かれたぬいぐるみ、本棚の一画を占める小物。ベッド脇のサイドテーブルには、くたびれたルームランプが鎮座している。

「あんまりジロジロ見ないで。恥ずかしい」

「どの口が言う……」

 星奈の言葉にジト目を返しながら、陽一はベッドの傍で足を止めた。まだ手は繋いだまま、軽く引っ張って彼女を促す。

「一緒に寝ようよ」

「一人で寝なさい」

 なおもそんなことを言ってくる星奈を、頭痛を堪える表情で見下ろしながら陽一は告げた。肩を落としながらも、そこまで残念がる様子はなく、星奈はベッドに潜り込んだ。ただし、右手はなおも陽一と繋がったままだ。

 少しだけ迷った末、陽一は右手を繋いだまま、もう片方の手で横たわった星奈の額を撫でた。

「お休み」

「……お休みなさい、陽一」

 ようやく諦めたらしく、口惜しそうに星奈が返事をした。

 彼女の手を離さず、陽一はベッドの脇に胡坐をかいて座る。そんな彼にちらりと目をやった星奈は、消え入りそうな声で語りかけた。

「ねぇ、陽一……」

 声はなく、握った手を小さく引いて陽一は応える。微かな吐息の音とともに、星奈が続けた。

「ずっと一緒にいられる?」

 繰り返される念押しに、陽一は苛立ちや不安より、むしろ可笑しさを感じていた。鼻で笑い、手を握り返す指を揺らす。

「しつけぇなぁ。いるよ。いて欲しいってお前が言ってる限り、一緒にいる」

「……陽一は、ずっと私のお兄ちゃん?」

「そーだよ……っていうか、久々に聞いたな、お前の口から「お兄ちゃん」て」

 重ねられた問いに、小声ながらも陽一の声が楽しげに揺れた。

 そんな彼の手が、一際強く握られる。

「どっちが大事?」

「え?」

「私と一緒にいるのと、私のお兄ちゃんでいることと、どっちが大事?」

 それは、あまりに唐突な問いかけだった。謎かけのようですらあった。質問の意味を捉えることすらままならず、言葉に詰まってしまう。

 黙りこくった陽一の耳に、星奈の静かな呼気が届いた。

「冗談よ」

 鈴の音のように軽やかな声で、星奈が嘯く。陽一は反応できなかった。

「ごめんね。今度こそお休み」

「……ああ。ちゃんと寝ろよ」

 今度は辛うじてそう言葉を返す。星奈の手が小さく震えたような気がした。

 繋いだ手を掛け布団の下に潜り込ませて、星奈の呼吸に耳を澄ませた。十分くらいして、寝息のようなものが聞こえてくる。念のためもう十分くらい待って、完全に寝静まったのを確かめてから、陽一はゆっくりと指を外した。

 意識せずとも、緊張が解けて大きな息を吐く。彼は足音を殺して部屋を出ると、無音でドアを閉めた。自分の部屋まで戻り、そのまま飛び込むようにベッドに横たわる。

「……はぁぁぁ」

 もう一度、全身から抜け落ちた疲労が、声となって口から零れ出た。

「もぉぉぉ何だよアイツわけ分かんねぇ、何がしてぇんだよぉ……」

 綱渡りを終えたような感覚だ。今さらながらに、如何に自分の精神が張り詰めていたかを実感する。抱えていた難題を全て未解決のまま放り出すことの解放感から、つい睡魔に身を委ねてしまいそうになる。

 が、そういうわけにもいかない。星奈の最後の問いには答えられそうな気がしないが、気になっていたことは他にもある。陽一は這うような姿勢で、ベッドサイドに置いたスマホに手を伸ばした。

 予想通り、父からのメッセージが届いていた。ロックを外し、陽一は液晶を睨む。

『いやまぁな。お前たち二人が互いに頼りっきりになった原因は、間違いなく親の俺たちにあるわけだから、偉そうなことは言えないんだが』

「ほんとにな……」

 最初に目に飛び込んできた文字列に、憎々しげな声が思わず漏れた。慌てて口を閉ざしながら、陽一は続きを読む。

『今まで互いに面倒見てきたからって、いつまでもそうしなきゃいけないわけじゃないんだぞ。無理にお前一人で支えようとしないで、今からでもちゃんと俺たちを頼れってこと』


『それに、お前たちだっていつかは独り立ちするんだから、少しずつその準備もしてかないと。言っとくけど、星奈だけじゃなくてお前もだからな?』


 独り立ち。

 その単語を見た瞬間、陽一の手が震えた。危うくスマホを取り落としそうになり、慌てて気を持ち直す。グッとスマホを握りしめた手はしかし、上手く力の加減ができている自信がない。

 独り立ち。それが、父が子である陽一たちに向けた願い。恋人ができる、できないという以前に、己が子が一人で立派に暮らしていけるようになるという望み。二人がいつかは離れて暮らすことが当然という認識。あまりに当たり前の、当たり前すぎる願い。それを、どうして今まで気にも留めてこなかったのだろう。

 彼女がどうとかいう話は、鼻で笑って受け流せた。なのに、今度はそれができない。その願いが当然すぎて。「俺の勝手だろ」と言って放り出せそうにもなくて、ただ愕然としてしまう。

 星奈が望む限り、一緒にいてやると言ったのに。そこに何の疑問も後ろめたさも感じてはいなかったのに。

 それは、本当に叶えていいことなのだろうか。

 今はそんな思いが視界いっぱいに広がって、彼の行く手を遮っていた。

「……どうなってんだよ」

 狼狽が、まるで慟哭のような声に混じる。胸に黒々とした靄が溜まって、息苦しさに咽そうになる。やるせない感情を発散するためにベッドに叩きつけた拳は、弱々しい音を立ててスプリングに弾き返された。

「どうすりゃいいんだよッ……!」

 形の定まらない感情が、身体の中で暴れていた。全身をばらばらに引き裂く不快感。もう一度吐露した声に、血が混じるかのようだった。

 曖昧な問いに答える者はいない。導き出される答えもない。頭を抱え、陽一はベッドの上で身を捩る。

無論、逃げ場などどこにもなかった。

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