第九話 育ち始めた不安
そして、連休に入った。
帰ってくる予定だった両親はいない。家の中は相変わらず、陽一と星奈の二人きりだ。普段の週末と同じ、何の変哲もない休日。
だと、思っていたのだが。
「……星奈?」
「何?」
「いや何じゃなくて。お前の方が何してんの?」
ソファーに腰かけテレビを見ながら、陽一は戸惑いながらも隣に座る星奈に呼びかけた。彼女は陽一の方を見ようともせず、視線をテレビに固定したまま生返事をする。
そんな彼女の両腕は、しっかりと陽一の左腕に絡みついたまま離れようとしなかった。
腕に抱きついてくること自体はそれほど珍しいわけでもないが、今日は妙に密着度が高い。痛いほどではないにせよ、放すまいとするような力強さは、いつもとは違う印象だ。
はっきりとした確信はない。ないが……それでも陽一は彼女に問いかけた。
「親父にも何か言われたんだろ」
半ば以上鎌をかけるつもりで言った言葉だったが、星奈の反応は分かりやすかった。ぴくりと肩を跳ね上げたかと思えば、眦を尖らせて腕を一層深く巻きつけてくる。
「何言われた?」
「言いたくない」
重ねて問うが、素っ気なく返された。困ったように眉根を寄せた陽一は、星奈の手を振り解くこともできず、遣る方無しとばかりにソファーに身体を預ける。
星奈はそんな彼を放すどころか、さらにその肩にもたれかかる。押し返そうとする陽一にも屈せず、べったりと張りついたままだ。少し暑苦しくもあったが、問題はそこではない。
「あのなぁ……」
なおも苦言を呈しようとする陽一だったが、やはり星奈は彼を見ようともしないまま、
「陽一は嫌?」
起伏のない声で言い返され、思わず口ごもった。
嫌というわけでもないが、果たしてそう答えるべきか。逡巡が生まれる。彼は星奈の横顔を見据えながら、かけるべき言葉を慎重に探した。
ややあって、彼はわざとらしい溜息を一つ。苛立ったような声を作って告げる。
「そーだな。お前に隠し事されるのは嫌いだよ」
「むぅ……」
陽一が言った瞬間、星奈が苦しげに顔を顰めた。それでも陽一の予想を超えて、彼女はなおも肝心なことを語ろうとしない。思いの外頑なな彼女に、いよいよどうしたものかと頭を悩ませる陽一だったが、星奈は代わりに、別の問いに対する答えを口にした。
「陽一。前に私に、「一緒にいたいのか」って聞いたよね」
「ああ、言ったな、んなことも」
動揺を呑み込み、頷く陽一。彼を捕らえる星奈の腕の力が僅かに緩んだ。彼女は自分の手の中にある腕の形を確かめるように何度もさすり、ほぅっ、と息をつく。
そして、初めて陽一の顔を見た。
「まだ分からない。聞かれたときにも言ったけど、一緒にいるのが当たり前だったから、ずっとそうだと思ってた」
感情の薄い表情の中で、双眸がキュッと窄まる。陽一の背筋を擽るように駆け抜けたのが、一体何の予感だったのか、彼自身にも分からない。
「でもね……」
細い声で前置いて、星奈は薄く唇を開いたまま、躊躇するように言葉を失った。そんな彼女の顔を、目を逸らすタイミングを失った陽一は、意図せず凝視していた。
淡く桜色に色づいた唇。薄く開いた瞼から覗く瞳は微かに潤んでいる。いかにも滑らかで、弾力のありそうな肌。可愛いと言える顔立ちだろうし、加えて今見せている表情も、儚げながらどこか蠱惑的でもある。
ずっと長い間、他の誰よりも身近な存在だった妹だ。なのに、そのとき感じたいつもとは異なる雰囲気に、陽一は不覚にも、自分の鼓動が乱れたのを感じた。
もう一度、気を惹くように腕を引かれる。そして、星奈の声が降ってくる。
「……陽一」
そんな風に、泣き出しそうな声で名前を呼ばれたのはいつぶりだっただろうか。縋りつく腕が、小刻みに震えている。
「……一緒にいられなくなるのは嫌……怖いよ、陽一」
星奈はそれ以上強く陽一に抱きつこうとはしなかった。離れようとはしないまま、それでも許しを得るまでは、それ以上のことをしようとはしなかった。そんな彼女を、陽一は黙って見つめる。
星奈が弱音を漏らすことは少ない。あまりに久しぶりで、戸惑いを覚えてしまったのも事実だ。それでもなお陽一は、星奈を支えるために何ができるかを、それが当然であるかのように第一に考えていた。
震える星奈に、陽一はそっと手を伸ばす。いつもそうするように、髪を優しく撫でながら、
「……星奈。こっち来い」
身体を捩って、彼女に向き直りながら囁く。頭を引き寄せてやると、星奈は躊躇いがちに、陽一の胸に顔を埋めた。そんな彼女の後頭部を、陽一は何度もそっと撫でる。
彼の左腕に絡みついていた星奈の腕が、ゆるゆると解ける。右手はまだ、名残惜しそうに袖を摘まんでいたが、陽一もそれを振り払うことはしない。弱った姿を見せる妹を腕に収めたまま、微かに苦笑じみた息を吐いて、彼は続けた。
「あのなぁ。それはもう、「一緒にいたい」って言ってるのと変わらないからな」
「……それでもいいの?」
くぐもった声で星奈が呻く。もしかしたら泣いているかもしれないな、と思いつつ、それを確かめようとはしない。ぽん、ぽんと一定のリズムで彼女の髪を揺らしながら、陽一は静かな声で告げる。
「いいよ。お前がそれで怖くなくなるなら」
「ほんとに?」
「くどい」
少し強く星奈の頭を押さえて、すぐに力を緩める。潰されたような呻き声を漏らした星奈だが、文句を言うことはなかった。
彼女が怖がる理由を、もっと詳しく問い質す方が良かったのかもしれない。そう思いながらも、陽一は結局そうしなかった。そうすることを躊躇うほど、星奈の危うさが気がかりだった。滅多に見ない弱った姿、初めて耳にする類の不安の理由。踏み込むのは持ち直してからだと、直感的に確信していた。
けれど――同時に思う。距離を取ることができなかったのは、本当にそれだけの理由からだろうか。
「お前が平気になるまで、ずっとこうしててやるから。今は好きなだけ甘えとけ」
そう囁きかけながら、陽一は星奈の髪を撫で、そっと肩を抱く。
その手を離しがたく感じるのは、星奈が心配だからなのだろうか。自問しながら、一方で答えを求めず、陽一はそうし続けていた。
今まで鬱積し続けた分があったからだろう。星奈は三十分くらいは陽一に抱きついたままだった。時折鼻を啜る音が聞こえてきたあたり、泣いてもいたらしい。
ようやく顔を上げた星奈は、微かに赤みを差した目で陽一を見上げて、笑った。
「ありがと……」
「元気になったんなら、それでいいよ」
あくまで静かな口調は崩さないままで、陽一は語りかける。声とともに頭を撫でられた星奈が、気持ちよさそうに目を細めた。
彼女はなおも、陽一の胸に頬を擦り寄せる。猫を思わせる仕草だ。そしてまた顔を上げ、陽一の目を覗き込みながら、
「陽一、お願いしてもいい?」
「何だ?」
「明日、一緒に買い物行きたい」
「いいよ。どこに?」
「モール。服見に行こうかなって」
請け合いながら陽一が尋ねる。星奈はそれに、少し意外な言葉を返した。
普段着用の安物のシャツ類は、大抵通販かスーパーの衣料品コーナーで買っている。モールに見に行くということは、少し気合いの入った服を選びたいのだろう。今までそれに陽一を伴ったことはなかったのだが。
そんな疑問が顔に出ていたか、口にするより先に星奈が答える。
「陽一に選んで欲しいなって思って」
「……女物の服なんて分かんねぇぞ。それくらいお前も知ってるだろ?」
ますます困惑しつつ陽一がぼやくが、星奈はクスリと可笑しそうに笑う。
「うん、知ってる」
「んじゃあ何で?」
問いを重ねる陽一。その手を、星奈がギュッと握った。意表を突かれて目を丸くした陽一を、星奈は笑みを深くして見る。
絡まる指の柔らかな感触に、鼓動が跳ねた。ときめいたわけじゃない。多分、何か嫌な予感がしたのだと思う。
「これからも一緒にいられるんでしょ。それなら、陽一が「いいな」って思ってくれたものを着て、隣にいてあげたいなって」
そう囁く星奈の顔を正視できない。してはいけない理由がある気がして、陽一はさりげなくその目を横に向けた。苦虫を噛み潰したような顔で溜息を零し、肩を落とす。
「兄妹に何を期待してんだよ……」
「前にも言ったでしょ。陽一が恥ずかしそうにしてるとこ見るの、面白いの」
「趣味悪いなお前」
軽口を叩くとともに、星奈の頭にチョップを降らせた。軽く触れるのに合わせて、彼女が「むぎゅぅ」と声を零す。
微笑を浮かべる陽一だったが、一度リズムを乱した彼の心臓は、まだしばらくいつもの調子を取り戻しそうにはなかった。
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