第六話 誤解

 週明けの月曜日。登校した星奈は教室へ向かう途中、廊下でクラスメイトの一人と出くわした。彼女は星奈を見つけると、パッと表情を綻ばせて駆け寄ってきた。

「星奈ちゃんおはよー!」

「おはよ、珠代たまよ

 真正面から抱きついてくる少女を避けようともせずに、星奈が名前を呼び返す。珠代はぎゅぅっと星奈を抱きしめたあと、腕を解いて彼女を放した。

 背の高い少女だ。日に焼けた小麦色の肌と、ボーイッシュな顔立ちが特徴的である。ころころとよく変わる表情は星奈とは対照的ではあるものの、一年の頃からの友人同士だ。

 珠代から離れた星奈は、相手の顔を見上げ、怪訝そうな顔をした。珠代が妙なほど寂しそうな表情をしていたからだ。

「どうかした?」

 問いかけてみれば、珠代はやはり寂しさに揺れる瞳で星奈を見つめ、

「星奈ちゃん、デート楽しかった?」

「は?」

「土曜日、男の人と一緒にいたじゃない。彼氏でしょ」

 そんなことを言われ、すぐに珠代が何を勘違いしているのか察して、大きく肩を落とす。彼女の仕草に、珠代はやや慌てて星奈の顔を覗き込む。

「え、なになに。違うの?」

「はぁ……兄だよ。いるのは知ってるでしょ」

 呆れかえって言うと、珠代はぱちくりと瞬きをしてから、一層意外そうに目を剥いた。

「あれが! そうなの!? うっそ!?」

 そこまで驚くか、と星奈が思ってしまうような勢いで、珠代はのけ反りながら叫んだ。彼女の反応の大きさに胡乱な目を向ける星奈だったが、珠代は改めて星奈の両目を覗き込む。

「腕組んで、一緒に歩いて! べったりだったじゃないのよぅ。いくら仲良いって言っても、とても兄妹の距離に見えないわよあれ」

 本人はさも当たり前のことを指摘しているかのような口ぶりだ。実際、同じようなことを言われたのも一度や二度ではない。またか、と嘆息して、星奈は頭を振った。

「昔からお父さんもお母さんも家空けがちで、ずっと二人で支え合ってきたから。他の人は知らないけど、私たちはあれが普通」

 珠代の口ぶりと同じく、星奈もまた自明の理を語る口調で言った。それとともにもう一度大きく息を吐く。どことなく苛立っているようでもあった。

 不機嫌そうな目で睨む星奈と相対しながら、珠代もまた追及の眼差しを緩めようとしない。今まで星奈と陽一の仲を尋ねてきた者たちも、ここまで食い下がってきたことはなかった。内心ぎょっとしつつ、星奈は視線の圧力を下げないよう奥歯を噛み締める。

「んー」と悩ましげに唸り声を上げていた珠代は、やがて意を決したように一度口を閉じ、瞼を閉じてからまた開く。そして、真剣な目で星奈と視線を重ねてから、そっと呟いた。

「でも、いつまでもそうしていられないでしょ?」

 珠代の言葉に、今度は星奈が呆気に取られたように目を丸くした。何を言われたのか分からないといった風だ。彼女がそんな反応を示すことも予期していたのか、珠代は構わず続ける。

「お兄さん、来年からは大学でしょ? 就職かもしれないけど、どっちにせよ実家に残るとは限らないわよね。もし出ていかなかったとして、この先彼女ができたら? 結婚したら? いつまで一緒にいてくれるか分からないし、今みたいにべたべたするわけにはいかなくなるでしょ」

 あくまでも親身に、星奈のことを思って、珠代は言葉を重ねる。彼女の気迫に、星奈もそれがからかいや冗談の類ではないことが感じられた。

 それでも、彼女の指摘に現実味を感じられない。

 陽一がいなくなる。一緒にいられなくなる。一つ一つその要因を挙げられてもなお、星奈にはそんな未来が思い描けなかった。

 フリーズした星奈の心情を察したのだろうか、珠代は不憫そうに目元を歪めたあと、星奈の肩をぽんと叩いて目を逸らす。

「……とにかく、一度お兄さんと話してみた方がいいと思うわよ。そっちだって当事者なんだし」

 そう告げる声音は、力及ばなかったことを口惜しく感じているようでもある。生気のない瞳で見上げてくる星奈から逃げるように、珠代はもう一度肩を叩いて彼女から離れた。

「じゃ。また教室で」

 そう言いながらそそくさと女子トイレの方へ歩いていく珠代の背中を、茫洋とした眼差しが追う。彼女の姿が見えなくなってからも、星奈はしばらく何もできないまま、ただただ廊下に立ち尽くしていた。


 放課後。いつものように陽一と一緒に帰ろうとした星奈だったが、彼からメッセージが届いていたことに気づいた。学に相談事をされたこと、七時前には帰ることが記してあった。

 別にそれほど珍しいことではない。新学期が始まってすぐは時間も合わせやすかったが、最近は互いの付き合いや学年によるスケジュールの違いもあって、それぞれ別に帰ることの方が多かった。

 一人で買い物をして、家に帰り、洗濯機を回してから食事の準備を始める。それが終わる前、六時過ぎくらいに、陽一が帰ってきた。

「ただいまー。悪いな、買い物付き合えなくって」

「お帰り陽一。鎌田先輩、もうよかったの?」

 いそいそと靴を脱いでリビングまでやって来る陽一に、星奈は料理の手を止めないまま返事をした。尋ねた瞬間、陽一はげんなりと疲労を顔に表し、

「しょーもねぇ用だった。案の定、あのクソ映画見たあと気まずい雰囲気になっちまって、どうにかできないかって」

「あー……」

 事態を把握した星奈が、渋い、そして憐みのこもった声で唸る。対して陽一は憤懣遣る方ないという調子で、クソでかい溜息とともに続ける。

「どうにかもクソも、外野が口出してどうこうできる問題じゃねぇっつの」

「鎌田先輩も、よく陽一に相談したね。色恋沙汰に向いてないの分かってると思うのに」

「アイツらが付き合ってるのを知ってる奴も少ないし、まして二人してあんな映画見に行ったの知ってるのは俺くらいだったからな。デートであんなもん見に行ったことを知られるのが恥ずかしかったんじゃねぇか?」

「まぁ、それは分かる気もするけど。で、陽一は何てアドバイスしたの?」

 適当に相槌を打っていた星奈が、その流れで水を向けた。陽一の疲れた表情が、いっそう渋さを増して歪む。

 彼はいかにも不服そうな声音で、絞り出すように言った。

「……「自分のせいで気まずい思いをさせたって思ってるなら、その理由を具体的にして謝るくらいしかできないんじゃないか、特にお前には」って言っといた」

「ちゃんと謝るのは鎌田先輩らしいかもね」

「女心を踏まえたアドバイスが欲しいんだったら、いっそお前も呼んでくれりゃ良かったのにな。その方が俺は気楽だったのに」

 何の気なしに呟いたような陽一の台詞に、しかし星奈はクスリと小馬鹿にするような笑い声を零す。

「彼女さんと揉めてる最中に他の女の子と会ってたなんて知ったら、彼女さんが落ち着かないに決まってるじゃない。やっぱりその辺りは考え無しだねぇ、陽一は」

「ぐっ……」

 あまりにもっともな指摘に声を詰まらせ、仏頂面で目を逸らす陽一。星奈がもう一度短い笑いを漏らして、またすぐに手を動かし始める。

 そんな彼女の横顔を悔しげに睨んだ陽一は、そこで唐突に驚いたように瞬きした。感じたまま、半ば反射的に口を開く。

「星奈、お前、何かあったか?」

 問いかけた瞬間、星奈が息を呑んで振り返った。目を丸くして兄を見つめ返し、彼女は小首を傾げた。

「何で分かったの?」

「何となく落ち込んで見えた」

 星奈は誤魔化そうとしなかった。代わりに率直に尋ねてきた彼女に、陽一は自分でも確信のなさそうな様子で答える。

 それでも、星奈の反応から、彼女が気落ちするような何かがあったことは確信したようだ。数瞬だけ黙考した陽一は、鞄を置いて星奈に近づいていく。そして、その頭に軽く手を載せた。

「言いたいことあれば何でも言えよ。聞くから」

 そう言って、何度か頭を撫でる。手を止めて彼を見上げていた星奈は、少し照れくさそうに眉を寄せてから、やんわりとその手を払った。

「先にご飯の準備してから」

「ん、そっか。分かった」

 素っ気なく告げる星奈を見つめて、それでも陽一は安堵したように肩を下ろした。頷き、リビングに戻っていく彼に、星奈は小声で、

「……ありがと」

 足を止め、肩越しに振り返った陽一が薄く微笑む。そのまま彼は鞄を拾い上げて、自分の部屋に向かった。

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