愛の不戦、あるいは付箋(後編)

 千賀くんが剣道場前から冬子を観察していたのは、いったい何のためなのか。

 本人に聞いてみるしかないとはいえ、本人が真実を語ってくれるとは限らない。それに、彼は元々気が強くない性格であるため、後ろめたい気持ちがなくとも、いきなり私に質問責めを受けたらうろたえてしまうだろう。そうなれば、嘘をついているかどうかの判定も難しい。

 かといって、彼の友人関係を洗い出して、冬子の知り合いを探すというのも骨の折れる作業である。それができれば、その「知り合い」を容疑者として調べることができるのだが、色々と現実的ではないだろう。

 金曜日の1時間目は、古典の時間である。黒板の前では先生が、たりたり、けりけり、れるられる、などと呪文のように唱えているが、私は熱心にノートを取っている千賀くんの横顔をじっと眺めていた。色は白く、横顔のラインは綺麗だが、細い首のせいで病弱に見える。

 先生の話はほとんど頭に入らず、時折板書を取っては、首を捻って彼のことを観察していた。穴が空くほど見ていると、だんだんと親近感のようなものが沸いてきて、男性として悪くないかも、などと血迷った考えが脳をよぎる。そんなことをしていたからか、あるときパチっと彼と目が合ってしまった。私が目を背けるよりも先に、彼は恥ずかしそうに目線をノートに落としたので、なんだか不服な気持ちになる。そこまで極端に避けないでもいいのに。

 私は小さく息を吐いて、成績優秀者のノートの取り方でも見学してやろうと、観察対象を彼の顔から手元へと移す。

「……あれ?」

 つい、声が漏れてしまった。

 千賀くんだけでなく、クラスメートの大半と、古典の先生から視線を浴びる。千賀くんは困惑したように、クラスメートは不思議そうに、そして先生はいぶかしげに、私を見つめていた。

「ああ、すみません。わからなくなっちゃって。先生、今のところもう1回説明してもらってもいいですか?」

 先生は肩を落としてから、仕方ないやつだなと小言をこぼし、同じ内容を解説してくれる。しかし、今の私はそれどころではない。すまない、先生。聞き返しておきながら話に集中しない私をお許しください。机の下でスマホを操作し、今日も先に帰っててと冬子にメッセージを送信する。

 わからなくなったと適当な嘘をついたが、むしろ私は今、ひとつの可能性を見つけ出していた。


 授業がすべて終わり、ホームルームも済ませると、私は帰り支度をしている千賀くんの二の腕を小突く。

「千賀くん」

 名前を呼ばれて、彼はびくりとする。

「どうしたの、真波さん……?」

 今時、悪いことをした小学生ですら、ここまで脅えるようなことはないだろう。

「少し、聞きたいことがあるの。このあと、教室に残れる?」

「う、うん。大丈夫だけど……」

 ありがたいことに、こんなやりとりをしているうちにクラスメートは全員教室を出ていた。さすが、自称進学校。テストが終わってしまえば気が緩み、教室に残って勉強しようなどとは微塵も考えない。

 横向きにイスに座る。千賀くんもそれにならって、私の方を向いて座った。品行方正な彼は、こんな間違った座り方をしたことがないかもしれないな、と思う。彼は手を膝の上で小さく丸めて、その肩はいつもより狭く見えた。

 私はクリアファイルからルーズリーフを取り出す。昨日、松下先生にひらがなを書いてもらったものだ。しかし、今はこれに用はない。

 文字の比較のために貼り付けていた、冬子宛ての付箋を剥がす。大袈裟ではあるが、すべてはここから始まったのだ。

 付箋を彼に見せる。ヘビに睨まれたカエルの方が、まだ生き生きとしているのではなかろうか。千賀くんはまるで冷凍されたかのように、体を強張らせていた。

 やや良心は痛むが、ここで引くわけにはいかない。私はゆっくりと切り出す。

「これ書いたの、千賀くんだよね?」


 テストでは8割くらい得点してやるものの、決して好きではない古典。しかし今は、その好きじゃない古典に感謝をしている。

「私の友達――そう、いつも昼休みに千賀くんの席を借りてる石川冬子が、火曜日にこの付箋をもらった。宛て名も、差出人の名前もない。一行目には愛の告白が書かれてて、時間と場所の指定がある。誰がどう見ても、告白の呼び出しにしか見えない。

 冬子は指示通りに待っていた。1時間は待ったみたい。だけど全然、誰も来ない。その様子を見かねたのか、たまたま剣道場の近くを掃除していた千賀くんは冬子に声をかけた。告白の呼び出しをするいたずらが流行ってるから、もしかしたらそれかもしれない、と。あなたの忠告を受けて、冬子はひとりで帰ることになった。

 でもどうして、掃除の時間でもないのに、千賀くんはそんなところの掃除をしていたのか。最初は、三井先生が千賀くんを捕まえて掃除させてたのかと思った。でも、先生に聞いてみるとそうじゃないらしい。千賀くんは自ら、あの場所の掃除を名乗り出たんだと。

 それはなぜか。あの場所にいる必要があったから。つまり、自転車小屋にいる冬子を、観察する必要があったってこと。今でも、冬子が呼び出された目的がわからない。告白を受ける予定だったのなら、どうして相手は来なかったのか。いたずら目的なら、いったいどこで犯人は冬子を見ていたのか。

 だから私は、千賀くんが付箋の送り主の知り合いで、その人の告白を見届けてあげようとしてたんじゃないかって思ったの。それなら、少し離れた場所で見守っててもおかしくないし、一見すると掃除に集中してるように見えるから、冬子も告白現場を目撃されているという感覚にならない。

 だけど、相手は来なかった。怖気づいたのか、気が変わったのかはわからないけど、とにかく告白しないことになったと連絡を受けた千賀くんは、ドタキャンされた冬子に、それらしい理由をつけて帰宅を促した。そう考えてたの。

 でも、今日の1時間目。古典の時間に千賀くんのノートを見ていて気づいたの。ほら、古典の授業って、やたらと『たり』を語末に書くでしょう? よく使う助動詞だから仕方ないんだけどさ。そしたら、付箋の『た』の字と、千賀くんの『たり』には共通点があることに気づいたわけ。ひらがなの『た』の3画目を、しっかりと跳ねているという特徴。自分では意識してないかもしれないけど、私は人生でそうやって書く人には出会ったことがない。これはもしかしたら、千賀くんは送り主の知り合いなんじゃなくて、送り主そのものなんじゃないかって、私は考えた。

 そして、聞きたいことっていうのは、千賀くんがいったい、何の目的で冬子を呼び出したのかってこと。これがいたずら目的なら、私は冬子の親友としてあなたを許さないし、もし告白目的なら、勇気が出なかったことは許せないにしても、彼女の親友としてその恋を応援するわ。

 さあ、千賀くん。あなたが冬子を呼び出した理由は、いったい何?」

 教室がしんと静まり返り、開いた窓からサッカー部の声が聞こえてくる。

 少し、まくしたて過ぎたかもしれない。千賀くんはもじもじとして、何かを言おうとしてはしょんぼりすることを何度か繰り返した。じれったいが、ここはじっくり待つ必要がある。変に急き立ててしまえば、解放されるために適当な嘘を言うかもしれない。逃げる意志は感じられなかった。ここは、彼の誠実さを信じるしかない。

 沈黙が3分ほど続いて、ようやく千賀くんが話し出した。

「真波さんが言った通り、僕は告白しようとして、その付箋を書いたんだ。だけどその……僕が告白しようとしたのは、石川さんじゃなかったんだよ」

 思わぬ発言に、私は目を見開く。

「だから僕は、しばらく様子を見ることにした。三井先生に頼んで掃除をさせてもらいながら、まだかまだかと、自転車小屋の方を見てたんだ。

 自転車小屋に呼び出したのは、僕が自転車通学だから。もし失敗してフラれても、自転車ならすぐにいなくなれるでしょ?

 えっと、真波さんの質問に答えるなら、僕が付箋を書いたのは告白目的で、でも呼び出した相手と違う女の子が来ちゃったから、どうしようかってしばらく慌ててたんだ。それで、少し前にいたずらの話を聞いてたから、それを理由にして、石川さんには帰ってもらったというわけ。

 悪いことをしたなって、思ってる。だけど、僕としてもわからないことだらけなんだ。どうして、石川さんのところに僕の付箋が届いてしまったのか。その、えっと、だから……」

 すらすらと白状していたのに、千賀くんは再びどもり始めた。体を小さくしているため、フレーム越しの上目遣いが時折飛んでくる。

「こんなときに言うことじゃないけど、僕が告白しようとしてたのは真波さんだったんだ」


 私以外に、マナミなんて苗字の人がこの学校にいたのか。

 最初は、そんなことを考えていた。しかし、ふと彼の方を見ると、こちらを窺うような目線の意味が先ほどとは違うように感じられて、いやまさかそんなことはと思いながら、私は千賀くんに聞き返す。

「まさかと思うけど千賀くん、私のこと好きなの?」

 首がもげるほど、強く何度も頷かれた。何も言葉はなかったが、火照った顔を冷ますために頭を振っているようにも見える。

「えっと、ありがとう。その、私もさっき千賀くんのこと観察してて、意外と悪くないなとか、思ってたりして……」

 違う違う。

 そうじゃない。今はそうじゃないんだ。

 顔を上げた千賀くんの目が少し光ったような気がしたが、私はわざとらしく咳払いをして、質問を続けた。

「千賀くんは、ノートに付箋を貼ったのよね?」

「はい」

「そのときのことを、教えてくれる?」

 千賀くんはこくりと頷いてから、記憶を辿るようにゆっくりと話し出す。

「月曜日、僕たちのクラスは政治経済のテストが返ってきたでしょう? 詳しく聞きたいことがあったから、僕は放課後、公民科の職員室に向かって歩いてたんだ。そしたら、地理・歴史科の職員室から、松下先生が慌しく出てきた。先生は僕の顔を見ると、ちょうどよかったって言うんだよ。

 僕は、先生の机に置いてあるたくさんのノートを、隣の多目的室の教卓に運んでくれって頼まれたんだ。クラスごとにまとまってるから、それを崩さないようにって。あとで聞いたんだけど、部活動で生徒がケガをしたから、顧問の中で唯一車で通勤してる松下先生が、近くの病院まで送ったんだって。救急車を呼ぶほどのことでもなかったけど、心配だからって。

 それで僕は、自分の用事を後回しにして、先生がチェックしたノートを多目的室に運んでいったんだ。最後の山を運んだとき、一番上のノートに真波さんの名前が書いてあるのに気づいた。恥ずかしいけど、僕はドキッとした。それまでは考えたこともなかったのに、自分の気持ちを伝えるのは、今しかないって思ったんだ。

 職員室に戻って、別の先生から付箋をもらった。運んでおきましたっていうメモを、あとで松下先生の机に貼っておくために。そしてもう1枚余分に剥がして、自分の気持ちを書いた。その、呼び出しの付箋のことだね。僕は真波さんのノートを開いて、松下先生のサインが書かれているページの余白に付箋を貼り付けた。多目的室から職員室に戻って、メモを先生の机に貼ると、僕はドキドキしちゃって、政治経済のことなんか忘れて走って帰ったんだ。ついに、やってしまった。きっとあのノートは、明日の地理の時間、真波さんの手元に返ってくる。見てくれるかな、来てくれるかな。月曜日はまともに寝れなかった。

 そして、意識しないよう何とか火曜日の授業を乗り切って、僕は駐輪場に走って行った。真波さんがいるかなって、ワクワクしてた。でも、いなかった。違う人だったんだ。そこから先は、真波さんが知ってる通り。

 水曜日、僕はひとつの可能性を考えた。真波さんが、返されてからノートを開いてないという可能性だね。それなら、まだ付箋を見てないってことだから、ノートに付箋が残ってるはずだって。あの日、僕は地理のノートを見せてもらったでしょう? あれは、付箋を確認するためだったんだ。

 だけど、ノートを開いて僕は驚いた。付箋はない。真波さんが確認して、剥がしたんだと思ったんだよ。つまり、真波さんは付箋を見た上で来なかったんだって。ショックだった。

 でも、ノートを見ているうちに、別の考えが浮かんだ。松下先生のサインが書かれているページには、文字がびっしり書いてあった。おかしい。僕は余白の部分に貼ったのに、このノートには余白がほとんどない。じゃあ、僕が付箋を貼ったのは誰のノートだったのか。昨日自転車小屋で誰かを待っていたあの女の子のノートに、貼ってしまったんじゃないかって。見間違いだったのか、それとも同姓同名だったのか……」

 ここまで聞いて、私は手を突き出して彼の言葉を遮った。おいおい、やめてくれよ。そんなバカな。

 千賀くん、あなたは見間違えてない。同姓同名の人もたぶんいない。

 私の名前を消さないで残しておいた、石川冬子が発端じゃないか。


 私がノートの事情を説明すると、お互いに気まずくなった私たちは黙り込んでいた。しばらくして、たまに小さな声で謝罪の言葉を口にし合うという奇妙な空気に変わる。

「僕がちゃんと、名前だけじゃなくて、クラスが違うなとか、地理じゃなくて倫理だなとか、そういうことに気づいていたら……」

「いや、私こそ、ちゃんと名前を消させてたら、こんなことにならなかっただろうし……」

 謝ったり謝られたりするうちに、だんだんと冬子に対して小さな怒りが沸いてきた。どうしてこの場にあんたがいないんだ。あんたも謝れよ。誰だ、冬子を先に帰らせたのは。私じゃねぇか。

 また、数分の沈黙が流れた。

「その、真波さん」

 それを破ったのは、少し落ち着いたらしい千賀くんだ。

「ちょっとゴタゴタしちゃったけど、改めて言わせてほしい。ここまでくれば、もう恥ずかしくないからね。――僕は、真波さんのことが好きです。一緒に帰ったり、勉強したり、そういうことをしてみたいんだ。……どうでしょうか」

 どうでしょうかって、言われましても。

 どうしたらいいんでしょうね、これ。

「……ダメじゃないんだけど、ダメっていうか」

 絞り出した私の声に、千賀くんは一瞬怯んだが、言葉の続きを待ってくれた。本当に、性格がいいんだと思う。

「私も、千賀くんの真面目なところは素敵だと思う。でもさ、これだけゴタゴタしちゃって……誰が悪いというわけでもないんだけど、冬子にも迷惑がかかっちゃったわけじゃない?

 そして、間違えたとはいえど、この付箋は千賀くんが書いて、それを冬子が受け取って、告白されなかった。冬子からすれば、自分に間違えてラブレターみたいのを渡した相手が、自分の友達と付き合うことになるわけ。んあかそれって、かわいそうっていうか、ずるいっていうか……」

 もちろん、冬子には黙っておくか、嘘をつくという選択肢だってある。付箋のこと、解決できなかった。話は変わるけど私、千賀くんと付き合うことになったんだよね。できないことはない。だが、それは彼女を騙すことになる。私はたぶん、それに堪えられない。そしてきっと、やさしい千賀くんにも辛いと思う。

「だから、やっぱりごめん」

 こうして、付箋で呼び出しをしたものの、行き違いから不戦敗に終わった千賀くんからの告白を、改めて私は拒否することになってしまったのである。

 付箋を巡る一連の出来事は、ただ冬子をがっかりさせるだけで、何も生み出さなかった――。




「ああ、真波じゃないか。ん? 千賀も一緒か。放課後残って教室で勉強か? 偉いな、お前たちは」

 脳内でモノローグを入れていたところ、聞き覚えのある声が飛んできて、私たちはふたりして顔を上げる。

 松下先生が、教室の前のドアから顔を出していた。

「いないと思ってたが、来てみるもんだな。真波に礼を言おうと思って」

「礼……?」

「当たったんだよ、1等が!」

 シリアスな空気を読まずにやって来た、普段よりどういうわけか上機嫌な松下先生の言葉に、私はややイラだってしまう。おかげで、彼が言っていることの意味がわからなかった。

「ほら、昨日占ってくれただろ、覚えてないか? 宝くじで、200万円以下の1等が当たるはずだって。言われた通りに、買ったんだよ、スクラッチ。そしたら!」

 スーツのポケットから、先生がチケットのようなものを取り出して私に見せる。遠くからでは全然わからないのだが、そんな私の様子には気づかないほど、先生は珍しくテンションが上がっているようだった。

「きっかり、100万円だ! ありがとうな。本当だったら1割くらい分けてやりたいんだが、そういうわけにもいかない。かといって、成績にボーナスつけるわけにもいかないんでモヤモヤしてたんだ。感謝の言葉だけしかやれないが、それを伝えに来た。ふたりで仲良く、勉強がんばれよ」

 言いたいことだけ言って、松下先生はドアから消える。

 あんなにハキハキと喋る松下先生は、これまでに見たことがない。それは千賀くんも同じだったらしく、しばらくふたりできょとんとしていた。

 その場しのぎの、適当な私の占いが、本当に当たってしまったらしい。しかも、100万円だ。

 付箋事件の副産物は、冬子のガッカリ。そして、松下先生の臨時収入、100万円。

「……ま、いっか」

 事態を飲み込めていない千賀くんが、説明を求めるように私を見た。

「100万円当てさせたんだもん。私たちが付き合っても、誰も文句言えないわよね」


(おわり)

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愛の不戦、あるいは付箋 柿尊慈 @kaki_sonji

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