第2章 恋人ごっこ

2-①


 青井あおいはなにも言わなかった。それどころか、蝋人形にでもなってしまったかのように微動だにしない。

 数秒経ってから、なんの前触れもなく「……ええっ」とのけぞる。かと思ったら、勢いよくうなずいた。

「いいよ!」

 青井は親指を立てて、満面の笑みを浮かべた。全身全霊で喜んでいるのが伝わってきて、大げさなはずなのにごく自然な動作のように感じられてしまった。

「いやー、まさか魚住うおずみさんから告白してくれるなんて……って告白? よく考えたら、俺、告白されてない? あれ?」

 青井は頭を掻きながら混乱している。私の頼みが想定外だったのか、思考と感情との足並みがそろっていないようだった。

 しきりに首をひねる青井を眺めながら、私は張り詰めていた息を吐き出した。ゆるんだ胸の内に、黒ずんだ靄のような心苦しさがすかさず膨らんでゆく。青井が明るすぎるせいで、自分の打算的な面を強く実感してしまった。

「現時点では青井が好きってわけじゃないんだけど。それでもいいの?」

 息苦しさから逃れたくて、いつもより強い口調で訊いてみる。

「私の目的は『菜々子ななこを理解すること』であって、『青井を好きになること』じゃない」

「わかってるわかってる。魚住さん、俺に対する好意がマイナスだったら声かけないでしょ? それがわかっただけでも充分うれしいんだよ」

 屈託のない笑みに、私は気おくれして半歩退いてしまう。

「恋愛に付き合ってくれるのは、卒業までのあいだでいいから。無理そうだと思ったらいつでも言って」

「命あるかぎり付き合うよ!」

「重すぎる」

 私が間髪を容れずに申し出を突き返しても、青井の上機嫌は崩れない。どうして私がいいのか、さっぱり見当がつかなかった。青井の性格なら、同級生の女子にかぎらず構ってくれそうなひとはいくらでもいそうなのに。

 疑問は尽きないけれど、このまま考えあぐねているわけにもいかない。とりあえず、「よろしく」と口もとをゆるめてみた。

 たったそれだけで、青井は今にも泣き出しそうな顔をした。まるで、ありがたい仏像を前にした老人のようだった。

「こちらこそ……」

 神々しいものに触れるような、敬虔な口ぶり。

「よろしく、聖良せいらちゃん!」

 悪寒が走った。

 ――〝聖良ちゃん〟。

 その呼び方は、あまりにも距離が近すぎる。きっと、恋を育む余地さえないほどに。

「まだあんまり仲よくないのに、下の名前で呼ばれるのは嫌かもしれない」

 私の控えめな拒絶に、青井の笑みが凍りついた。

「俺の二年分の愛が……響いてない……?」

「そういう問題じゃなくて。私を下の名前で呼ぶのは、同級生だと菜々子だけだったから」

 菜々子の名前を出した途端、青井は「そっか」といたましそうに目をそらした。

「俺に名前を呼ばれるたびに、鵜飼うかいちゃんのこと思い出しちゃうのか……。それは俺としても不本意だな」

「そうなの?」

「そりゃあね。いっしょにいるあいだは、俺のことだけ考えていてほしいし」

 押しの強い台詞に反して、視線は明後日のほうを泳いでいる。

 私は「ふぅん」と納得したふりをしつつも、青井の発言の意図をまったく読み取れずにいた。

 どうして青井は、私に他の人間のことを考えてほしくないのか。その願いが恋愛に由来するものなのか、それともまったく別種のものなのか、それさえも判然としなかった。

 私が早くも〝恋愛〟につまずいていると、青井は改まった態度で話を続ける。

「それに、魚住さんのこと下の名前で呼んでたら、俺たちが付き合ってるって周囲にバレちゃうし……」

「質問。〝付き合う〟っていうのは、恋愛を前提とした交際のことでいいの?」

「そこから!?」

 青井はぽかんと口を半開きにしたまま固まってしまう。けれど、すぐに気を取り直したように笑みを浮かべた。

「……なるほどね。だから恋を教えてほしいってわけか」

 私はうなずく。初めて、青井が頼もしく思えた。

「私たちが付き合ってるってバレるのはよくないことなの?」

「よくない。めちゃくちゃよくない」

 青井は真面目な顔つきになる。

「鵜飼ちゃんが亡くなったばかりだし、顰蹙を買わないようにみんなには秘密で付き合ったほうがいいと思う。ほら、俺たちってすでに進路が決まってる組だし……。他のひとたちが必死に勉強している前で、イチャついてたら鼻につくんじゃないかなって」

「人前でイチャつくつもりはないけど、わかった」

 付き合うことの実体はピンとこないものの、それでも周囲に対して気遣い――あるいは警戒が必要なことはわかる。他人の恋愛というものがやたらと楽しげで、幸せそうで、浮ついたものだという先入観は、私でさえも持っているのだから。

 青井が私の腰のあたりを見下ろしながら、「あれ?」と目をしばたたかせた。

「それ、もしかして……」

 私は青井の視線をたどる。自分のコートのポケットから、菜々子のぬいぐるみポーチが飛び出していた。

 青井は「鵜飼ちゃんがスマホに付けてたやつ……?」と腫れものに触れるような口調で訊いてきた。

 私はうなずきながら、スマホごとポーチを引っ張り出す。

「菜々子の形見分けのときにもらったの。欲しいものはありませんって、伶子おばさんに言うのもなんだったから。元はといえば、私が菜々子にあげたものだし」

 私は弾力を失ったぬいぐるみポーチをてのひらで揉みしだく。海水に長時間浸かっていたせいか、あるいは微細な砂粒が布目に残っているのか、ぎしぎしとした乾いた質感がした。

「形見だからって、大切にしまっておくわけじゃないんだね」

「菜々子の気持ちがわかるまではスマホにつけておくつもり」

 実のところ、なんでぼろぼろのぬいぐるみポーチをもらってしまったのか自分でもよくわからなかった。感傷、なのだろうか。

「それに、スマホに大きなキーホルダーがついてると鞄のなかで見つけやすいし」

「俺もスマホにお守りをつけてるよ! 意外と便利だよね」

 青井はスマホを取り出して、『受験合格御守』を見せてきた。名刺サイズのお守りは、ぬいぐるみポーチほどではないけれどたしかに存在感がある。

「森戸神社の? 私も同じお守りを持ってる」

「つまりおそろい!? 運命じゃん!」

「は?」

 私は青井の感動を一蹴したのち、「そろそろ学校に行かないと」と駐車場へと続く階段を上った。

 最上段から青井を見下ろし、告げる。

「ねえ、青井。今日の放課後、付き合ってくれない?」

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