10 エントレーvsオメガドラゴン

 帰宅したエントレーはランプひとつの食卓で、ウッドプレートの上に盛りつけられたカニの身を口に押しこんでいた。奇妙な一日を振りかえりながら、アンのいう「おれを中心に起こっている異変」について思考していると、せっかく市場で仕入れたカニがどうも味気なく感じられた。

「カニ!」

 朝にきいた野太く低い声が響いて、エントレーは机をガタンと鳴らした。びくついて、膝で机の腹を蹴ってしまった。

 はたして、この声が神祇の魔性の呪文なのか、味方する神とやらの福音ふくいんなのか、もはや判別できずに、彼はカニの身に手をつけることをやめた。呼吸をひそめる。

 また「カニ!」という叫びがした。外からきこえたようでもあり、自分の内側からきこえたようでもあった。ふと、あの半端な大きさのアホ面をしたカニの姿が思い浮かんだ。

「ふふっ」

 不意に笑ってしまう。なんなんだあいつ。

「家をでるのだ。神祇が迫っている」

 と、はじめてカニの声は、恐るべきことを伝えてきた。笑っている場合ではなかった。戦慄すべきときであった。

 家というものは、いわば安全圏。万人平等に与えられた安全であるべき場所だ。そこに脅威きょういが侵入するのはルール違反だろう。

「走れ、我のもとまで走るのだ。致し方あるまい、力を貸そう。急げ、近いぞ」

「あなたは――」

「カニ!」

 エントレーは椅子を倒し、机を押して立ちあがった。夕食が皿ごと床に落ちた。

「マアアア!? きさん、カニを粗末にしおって、親の顔が見てみたいっ!」

 カニさまであろう声に怒られたが、反応する余裕はない。

 集落を走りながら、向かうべきところを弾きだそうとする。冷静さを失ったら終わりだと、自分にいいきかせながら。

「うろたえるカニ、穴に入らず。だぞ」

 カニが、カニのことわざをいった。冷静にならないと危ないという教訓であるが、いまそれを思っていたところだ。正直いって、うるさい。

 北集落入り口にさしかかったタイミングで、いきなり背後から突風が巻き起こった。さっきまでなかったはずの存在感が、集落の中央に出現している。

 金縛りにあったように硬直してしまったエントレーの背後で、大地の地熱を砕きながら踏むような衝撃がずしりと断続的に発せられた。気配が衝撃のたびに大きくなり、背中に感じる不愉快なむず痒さが、天まで届かんばかりに伸びてゆく。「ぐほー」という、盛大な獣の吐息がエントレーの服と髪を、闇に溶けた森の一本道に向かって揺らした。

 まうしろに立つ巨大ななにかから放たれた殺気が、ビジョンとなって彼の神経を打った。大きな壁が超高速で振られ、おのれの右脇腹にぶち当たるような、重すぎるビジョンである。

 羽虫の速度で流動する大気を、力が切り裂きはじめた刹那、エントレーは何者かに押されて倒れこんだ。頭を勢いがかすった。

 ぱちん。

「あばぼ」

 破裂音のあと、潰れたあんぱんのような声。つづけざまドガシャアッと、アンの家のほうから音がした。

 エントレーはがばと身を起こして、音の方向を追った。

 アンの家の壁に、アンがめりこんでいる。それはまるで、潰れたあんぱんのようだ。アンだけに。

「ばあさん……?」

「いけぇー……走れぇ、エントあべぷ」

 詰まった気管を無理に鳴らして、アンは地面にずり落ちた。

 危機を悟った彼女がとっさに飛びだして、エントレーを突き飛ばし、みずからが代わりに攻撃を受けとめたのであろう。そうとしか考えられない状況だった。

 か弱い老人を無慈悲に吹き飛ばしたモノを彼は、ついに見た。月明かりの下にぎらつく眼を浮かべて、規格外の怪物がそびえていた。

「うおわあああ」

 絶叫し、震える脚に鞭打って、エントレーはふたたび走りだした。

 視界が狂う。訪れた夜に、あるはずのない光が点いては消えてを繰りかえし、あまつさえ真っ黒の絵の具を乱暴に塗りつけたような闇黒あんこくを、鮮やかに狂った色彩で描き直してさえいる。

 山門に入らず、森の横道に入った。

 半狂乱になった彼にあるのは、カニという名の記憶のみである。カニ塚という場所にかろうじて直感的に記憶が紐づいたがゆえに、進路をそう定めた。

 茂みを躍らせ、木の枝で傷を作ることもいとわず、死に物狂いで走る。

 拡散する瞳孔どうこうにカニ塚が入った。足を木の根に取られた。転がりながらエントレーは「カニ塚十番」とへたくそに彫られた石の前に倒れた。村に全部で四十四あるカニさまをまつる塚、そのひとつである。

 台風のような鼻息と足音が、頑丈に育った木々を砕きながら破竹の勢いで迫ってくる。小さな手を胸にちょこんと置きながら、太い脚をフル稼働させて急接近してくる巨体は、神祇と呼ぶより太古の恐竜のような風格がある。

 顔をうずめて震えるエントレーに、ドラゴンが襲いかかった。

「あっ」

 ぬるりとした気持ち悪い感触が、手から臓腑ぞうふに伝わった。刺してやろうというエントレーの意思ではなく、恐怖の極限のために反射的にだした右手がドラゴンの腹に刺さっていた。

 ……おれの右手、いや、違う。

 ただの人間であったはずのエントレーの右手が、カニの手に変化し、ふたつにわかれたハサミがドラゴンの腹に深々と突き刺さっていた。

「は?」

 精神崩壊、一歩手前で漏れた声だった。なぜ、自分の手がカニの手になっているのか、不可解と絶望から自然に漏れた声だった。

 エントレーをまっすぐに見ていたドラゴンの眼が、ゆっくりと自身の腹部に向かって動いた。きっと、コイツから見ても、おれの手はカニの手なんだろう。絶句している。

 エントレーは手を抜いて尻もちをつくと、塚に背中が当たるまで避難した。

 ドラゴンの眼が、またゆっくりとエントレーに向いた。マジかよ……信じられない……という感情がありありと伝わる、そんな驚きに満ちた視線をエントレーは感じた。お前、マジかよ……そこまでやるかよ……という哀愁に満ちた、まるで悲劇の被害者染みた図々しい眼だ。

「うわああああああ」

 絶叫したのはエントレーではない。ドラゴンだ。

 全身が真っ赤になっている。トウガラシに似た、辛い赤が燃えていた。ピッーと蒸気をあげており、これではまるで沸騰ふっとうしたやかんである。

 ここまで怒っているのがわかりやすい生き物がいるのかと、エントレーは狂気の片隅で感心した。そんなことを思っている場合ではないと承知はしているのだが、なかば諦めの感情が脳を占有していた。

 右手が重い。ハサミを振る体勢にないのもあって、反撃の望みはなかった。

 抜け殻になってしまったエントレーを八つ裂きにしようと、三本指の鋭利な爪を立たせてドラゴンが横ないだ。直撃すれば、エントレーの体は三つの輪切りになるであろう。しかし、その必勝の一撃は彼に当たる寸前で静止した。

 エントレーのハサミの間から、カニカマが風の壁を音速で破りながら飛びだし、それがドラゴンの眉間をブチ抜いのだ。

 笑いだしてしまいそうだった。腹をよじらせて、笑いそうになるのをこらえた。奇想天外を超えた壊滅的低脳に、もうどうにでもしてくれとエントレーは力なくたいを崩した。

「うわあああああ」

 ドタドタと足を交互に踏み、体の大きさに反して、細く小さい両手で眉間を押さえながらドラゴンが暴れた。加速度的に痛みが増しているのであろう、大地を揺らす速度がどんどん速くなる。

 ずるとドラゴンが足をすべらせた。死にたいのまま、ドシーンと山を激しく揺らして、あお向けに倒れた。したたかに後頭部を打ったドラゴンはまた「うわあああああ……」と弱々しくいて、ぐったりとしてしまった。

「ひひ……ふひ、っひ……」

 こみあげる笑いがとめられない。正気を保とうと、エントレーは残ったマトモなほうの手で額をでた。

 二転三転の夜が普段の顔を取り戻すと、暗雲を払いのけて天から伸びた光が、白目を剥いて、舌をべろりと垂らすドラゴンにかぶさった。

「神祇オメガドラゴンよ」

 カニさまの声だ。

「もう一発、カニカマを喰らいたいか」

「いや……」

 ドラゴンが白目に瞳をぐりんと戻して、答えた。心胆を寒からしめさせた様子で、体を震わせている。おそらくは、ついに現れてしまったカニさまに恐怖しているのだろう。

 それほどなのか、カニさまとは。

 はた迷惑な喋るカニ程度に考えていたエントレーだったが、ドラゴンの反応を見たことで、自身の体に起こっている恐怖心がよみがえってきた。神を宿した人間は、どうなってしまうのだろう。

「喰らいたいか」

「いや、勘弁してください……」

 っていうかお前、そのナリで普通に喋るなよ。

 戦慄せんりつしていたのに、また笑いそうになる。エントレーはぎゅっと額を左手で絞った。

「カニは甲羅に似せて穴を掘る」

「はい?」

「ことわざも知らんのか。やはりドラゴンはバカで困る。身のたけに合った行動を取れということだが、はてさて我に敵対することは、きさんの身の丈に合っているのかどうか」

「合ってないです……」

「では、エントレーを守ってやるのだ」

「いや、それは……」

「カニの横這いといわざるをえないな」

「え?」

「物事が横にずれたといっているのだ。我に従わねば死ぬというのに、なぜ拒否しようとしたのか謎すぎる。死にたいのか、きさん」

 このカニさま、なんでいちいち、ことわざを持ちだしてくるのだろう。しかもすべてカニ関係のことわざ。

「すみませんでした……」

 なにもかもを諦めたように、ドラゴンがつぶやいた。

「カニの爪がもがれたようだな」

「はい?」

「強みを失って弱って見えるぞ、といっているのだ」

「はい……」

 なんなのこの神様。

「エントレーを守ってやるんだぞ。従わんと、きさん……カニの穴入りだね」

「はい?」

「あわてることになるよって意味」

「はい……」

 逆再生のように、しかしさっきより早回しというふうに光が天に戻って、雲が穴をふさいだ。カニさまは快速で空へ帰ったようであった。マジでなんだアイツ。

 ドラゴンも透明度をあげて、森の景色に溶けて消えた。

 呆然とかすんだ瞳を惨害の場から、自身の右手に移すと元に戻っている。

 トサと右手を冷たい土の上に落とし、自分の頭が切れて血がしたたり流れていることにやっと気づいた。それに気づくのが遅れたのは、あまりに我を見失っていたからだろう。

 どっと疲労感が襲ってくる。まぶたを閉じて、ただ呼吸することしかできないほどに疲労していた。

 集落のほうから、村人たちの声がする。

 アンばあさんは無事だろうか、巻きこんでしまった。痛みと混乱を押しのけて、老婆に対する心配が鎌首をもたげた。

 いうことをきかない肉体を無理に持ちあげて、よたよたと歩きだす。ドラゴンが走ったあとの山道は変容し、ずいぶんと歩きやすく広がっていた。

 山からおりてきたエントレーは、傾斜が平地に変わって重心を崩し、ごろごろと転がって地面にへばりついた。死地からの生還を果たした彼は、重力にあらがえず鉛のように重くなった脚をひきずりながら、かろうじて山から脱出したのだった。

 村のほうはまだ騒がしく、どよめいている。

 占いオババを助けてあげてほしいと切望しながらも、彼はそのまま動けずにいた。肉体を土が冷却し、彼の荒ぶる呼吸を整わせる。気力なえ、地の恩恵に甘えながら伏しつづけていた。

「こんな山村にドザエモンとは珍しいな」

 冷水を浴びせる声に、無気力な意識が叩き起こされた。

 息を殺して見あげると、フリントロック式リボルバーを腰のベルトにさし、太いロングソードを背負ったフルプレートアーマーの騎士が立っていた。もしかすると、これは生徒たちが噂話をしていたあの――

「うおわああ!」

 エントレーはみずからを守るように両手を顔面の前に広げた。己の知見から外れたものを神祇、あるいは敵とみなす疑心暗鬼に近い精神状態におちいっていたからである。

 たとえ、そうでなかったとしても身構えるくらいはしただろう。夜に、しかもこんな山奥をうろつく騎士など、誰がどう見ても不審者だ。噂どおり、怪しすぎる。

「アンタは……」

 見れば見るほどに重装備な騎士だった。

 つんと鉄のにおいが香りそうな鎧の下に、チェーンメイルがのぞいている。袈裟懸けさがけに巻きつけられたベルトには、色とりどりの弾丸や投げナイフをいくつも備えている。腰からさがる古びた布がマントのようにたなびいていた。

「カニの手があるなら、教師より裁断のお仕事のほうが向くんじゃないか」

 騎士が、冗談めかしていった。

 現場をずっと見ていたということだ。職業も知られている。ずっと前から監視されていたのかもしれない。それは緊迫するエントレーでもわかることだった。

「見て、いたのか……ずっと……」

「特等席で」

 真上に広がった、夜風にざわめく葉を指さして、騎士がいった。

「神祇なのか、アンタも……」

「あんなのと一緒にしないでほしいね」

「なにが目的で、おれに近づく」

「別に」

 あっけらかんとして騎士は、山門に向かって歩を進めだした。たいしてエントレーに関心はないらしい。生きようが死のうがお好きに、という冷たさがあった。

「待てよ……」

 すっかり血が固まった頭の傷口を手で押さえながら、エントレーが踏ん張り立った。

「見てたんだろ……きかないのか。おれの手のこととか……答えられることじゃないけど……」

「……俺はいままで、いろんな変な奴と出会ったよ」

 ヘルメットの横一本線、そのなかにあるであろう目が遠い昔をあおぎ見たような、そんな切ない響きでいうと騎士は、山門のほうへ歩くのを再開した。

「待っ――」

 呼びとめようとしたが、言い終わる前に口をとめた。

 なぜ、あの敵かもしれない不審な騎士を呼びとめる必要があるのかと思い直した。

 ひと目見て、いまの騎士が相当の実力者だとわかった。戦闘に関しては素人も素人だが、そうとわからせるなにかが騎士にはあった。だからこそ、頼りたかったのかもしれない。不安と恐怖ばかりのいまだからこそ強者にすがりたかったのだろう。

 騎士の姿はもう見えない。山門の奥にまでいってしまったらしい。

 エントレーは騎士のことをいったん忘れて、牛歩の速度ながら、アンの家に集まる群衆のもとに戻った。

「どうしたんだ、エントレー」

 顔面に血を流す彼のやつれた姿を見て、村人たちは彼に詰め寄ったが「転んだだけ」といい張った。起きたことを話すわけにはいかなかった。話すことで彼らも巻きこまれる可能性がある。

「オババは……」

「ああ、まるで潰れたあんぱんだ」

 ご近所のひとりである、林業のスィンコが村人たちに介抱される老婆をちらと見ながらいった。彼は、つるつるの頭頂部、後頭部と側面に黒髪を残すリーチ状態の育毛剤愛用者である。

 アンを介抱しているのは集落唯一の理髪外科医、村一番の巨乳と定評のあるオルアだ。

 ――理髪外科医とはなにか。髪を切るということは人体を切るということ、切るために刃物を使うということは刃物を扱うことにけているということ……そんな短絡たんらく的発想から理髪外科医は誕生した。医学分野に、理髪師と外科医を兼業するなんとも胡散うさんくさい職人はいまだ根強く存在しており、彼女はその末端であった。

「生きてる……?」

 生きてるとは思えなかったが、きかずにはいられなかった。

 オルアは完全に前髪で隠れた目を彼に向け、気弱そうに「ええ……なんとか……」といった。

 そっと地べたに横になったアンに、エントレーはよろめき近づいて、しわがれた手を取った。

「ありがとう、ばあさん……」

「無事だったか……」

「カニさまが――」

「わかっているよ……皆の衆」

 アンは賭博とばく中毒のメレグテルと一言多いハムサに支えられながら、立ちあがり「ちとつまずいて……それだけだよ。エントレーもたまたま転んだ……それだけのことだ」と、村人たちに説明した。

「……アンばあ様、治癒局まで送りましょうか」

「無用じゃ。家のベッドまで連れてってくれ」

「あなたがもう少し若けりゃ看病もしたんですがね。残念ながら、あなたはもう干からびたババア。ははは」

 とても納得のいく説明とは思えなかったが、村人たちは詮索せんさくせずに話題を流した。イチヨがそうであるように、彼らもとうの本人たちがそれで納得しているのなら、それ以上は踏みこむまいという気遣いがあるのだろう。

 イチヨがそうであるように……イチヨ……

 あっ、となって横にいたレビンに話しかけた。

「そういえば、イチヨは?」

「それがさー、まだ帰ってないんだよねー。どこほっつき歩いてんだろ、ったくもー世話が焼けるなー」

 寒気がした。自分と同じように、まさかイチヨとルーチェの身になにかあったのではと、気が気でなくなった。

 群衆を抜けてフラフラとエントレーは自宅に戻るとテレポンに手を伸ばし、ルーチェに発信した。

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