3 なんでもない痛み

 二十代前半あたりが適当そうな美しい青年女性のあとについて、たどりついたそこは安らぎに満ち満ちていた。

 背の低い緑の絨毯じゅうたんが生い茂った地面は、手入れがほどこされているのか歩く支障にはならず、優しい景観に一役買っている。鮮やかな花ものびのびと咲き誇り、ただの緑で終わらせていないのがアクセントになっている。

 ウォレンが見るかぎり、民家は八軒だった。

 中央には大木がある。その横に井戸が屋根も滑車もなく置かれ、それらを囲って円状に家があった。どれも木造の繊細な仕立てである。

 ――なにかが調和していた。

 木々や家や草花、井戸や無造作に置かれたベンチ、端々に点在する一畝いちせの小さな畑々、低い柵や農具。それらの持つバランス。

 風の出入り、陽のし方、自然音の響き、空気の肌触り。それらの持つバランス。

 個性さまざまに嘘偽りなく同時に、なにかが素直に調和していた。

「私はここで生まれて、ここで育った。なんもないんだな、これが」

「でも、いいところです。落ち着く」

「まぁなー」

 すると、やさぐれた男がひとり近づいてきた。村人らしかった。

「なんだ、イチヨ。彼氏できたのか」

「バカも休み休みいえよ、いいから働け」

 もちろんウォレンはイチヨの彼氏ではないし、出会って十分ほどだったが、こうもスッパリ切り捨てられると恥ずかしい気持ちにならざるをえない。

 男はヘラヘラとしながら、左手の人差し指と親指をくっつけて小さな円をつくった。それをかえして手の平を上に向ける。お金のジャスチャーだ。

「金、貸してくんね」

「オメーに貸す金なんざないよ、いいから働け」

「そっちのお兄さんは」

 いきなり振られて動揺しつつも、小さく首を横に振った。

「いいから働けとよ」

 どうにもイチヨは彼に対して「働け」以外の感情がないらしい。

 男は鼻で笑い、肩をすかして村の外へすごすご歩いていった。

「どうせ賭博とばくだよ。アイツはメレグテル。貯金を切り崩してギャンブルするだけの生き物だな。人生終わってんだよ」

 イチヨは面白そうにいったが、ウォレンからすれば絶妙に笑えない性質の男だった。それはただのくずでは。いいから働いたほうがいい人間だ。

 イチヨの三度に渡る意見に全面的に同意していたが、どこかでく小鳥にすぐ意識を持っていかれた。

 村の持つ引力に五感を奪われ、きょろきょろとあたりを見回してばかりいたウォレンを尻目にイチヨは立ちどまった。それに気づいて彼も立ちどまる。村の奥側、左寄りに位置した家の前であった。

「ここが私の家だ、入りなよ」

「失礼してもいいんですか」

「はは、お前かなり遠慮えんりょがちだな。近所の奴らなんて、断りもなく勝手に入ってくるのに。私が外出してる間に食いモン持ってったり」

「それは犯罪なのでは……」

 上ウンマイを歩いたときに感じた、村そのものが家族という感覚がよりいっそうに強くなる。よかれ悪かれではあるだろうが、そもそも他人であるはずの隣人たちはここでは友でもあり、同じ血をわけたといってもいいくらいには近しい存在なのだろう。なにやら、ウォレンはそれがうらやましく感じられた。

 木のドアを開ける。

 真っ先に家主と来客をお出迎えしたリビングには、ふかふかした黄色の毛布がかけられたベッドがある。大きめの机が窓ぎわの立派なアロエの横にドンと置かれており、その上には歯車が丸見えの電話――古い型式のテレポンがぽつんと置かれているだけだ。生活に必要と思われる家具は一式そろっていたが、広くない部屋に小物といっしょに詰めこまれているのもあって、雑多な印象が先立った。

 奥の壁には窓が二枚。ピカピカに磨かれている。見える景色は真緑だ。四季の色しかわからなさそうな窓のある壁には地図もぺたりと貼りつけられていた。村の地図らしい。やはり縦長な村だ。

 そそそ……と、なかへ進むイチヨのあとを追ってウォレンも進んだ。彼女はほうきを角に立てかけ、ちりとりとバケツをその下に置いた。ほうきを固定するように。

 そして年季の入った冷蔵庫を開け、ビンのオレンジジュースを取りだした。ビールやワイン、地方だとエールばかりが飲まれているなかに珍しいそれを、ピカピカに磨かれた透明のコップにそそぎ、机の上にふたつ置いて彼女は着席した。

「座んなよ」

 うながされ、対面しながらウォレンも着席した。

 口調や態度こそ男勝りだが、意外にもイチヨの座り方は、座っているというより体を乗せている、というような羽根の柔らかさがあった。

 彼女はコップの持ち手にしなやかな指をからめ、ふちにみずみずしい唇をつけた。その一見、何気ない所作だけでも美しくになっている。オレンジジュースを飲むという行為だけでも人を惹きつける天性の才覚が彼女にはあった。

「ひとりで暮らしているんですか」

「ああ、そうだよ」

「ご両親は」

 コップを静かに置いて、コップのなかで揺れる液体の波紋はもんをイチヨは見詰めた。

「もういないんだ。お釈迦しゃかだよ」

 顔を落としながらいった。抑揚よくようのない寂しい口調だった。元から垂れさがっていた彼女のアホ毛が余計に、しょんぼりと元気なく垂れている。イチヨは首元の黒いチョーカーをいじりながら、それ以上なにも語らなかった。

 触れてはいけないところに触れてしまったらしい。

 ウォレンが後悔していると、イチヨはすぐにいままでどおりの明るい調子に戻って、顔をあげた。

「旅ったって、こんな辺境の村にくるなんて変わってんな」

「……偶然です。気づいたら、汽車がカニタマウンマイウンマイ駅にとまっていたんです」

「どこから?」

「王都です」

「遠いな」

 イチヨが目を細めて笑んだ。

 ――汽車。蒸気機関車。正式には、マキナ・ルトラン。

 大衆のためのその乗り物は、全大陸のなかで最大の技術文明の発展をなしとげた王都がようする「ウミ大陸」の誇る発明品のひとつである。

 信仰から始まったギアエという魔術演算と競合する形で、力を増していった科学術の生んだ産物。持たざる者たちに、希望と自信を与えた陸地の機関からくりは、一定の持続性とスピードを有し、大人数の搭乗を可能にした。

 走るというその一点だけにおいて、マキナ・ルトランをはじめとするマキナシリーズは、ほかの超常的な力と辛うじて張り合えた。それゆえに、あるいは魔術師ヘクセレイたちを、あるいは神祇たちを、あるいは名高い闘争者たちをもうならせた。

 そんな優れ物で八時間……九時間……星から見ればたいしたことのない距離だが、同じ国のなかと思えば決して近くはない。

「華やかな王都にいたら、すべてこと足りるだろ。旅してどうする」

「王都には王都の息苦しさがあります」

「そうなの? 何度かいったことがあるけど、楽しかったけどなあ」

「……おれは記録屋をやっています」

「へえ」

「息苦しいんですよね」

「どういうふうに?」

愚痴ぐちってもいいんですか」

「愚痴をきくのは嫌いじゃないよ」

 ウォレンはとつとつ苦悩を語りはじめた。

 イチヨは聞き上手だった。相槌あいづちを繰りかえしながら、ときおり話を折って「一日休むのもダメなの」「上司はどんな仕事を」「いいかえさないの」と質問をぶつけてくる。立て肘の手にあごを乗せ、指で頬をトントンと軽く打ちながら「なるほどな~」と考えるような仕草を見せる。意見に同意して、いっしょに怒り、いっしょに悲しんでいた。

 彼女は人から話を引きだすのが上手く、そして語ることで得られる反応も多様で、語り甲斐を生じさせた。

「たいしたことのない話だと思います。おれの苦しみなんて矮小わいしょうです。こんなことに苦しむのは傲慢ごうまんじゃないかとすら思うし、おれはみにくいと思えます。おれ以上に苦しんでる人は、この世のごまんといますから」

 心から彼はそう思っていた。

 事実、生きるか死ぬかという命の問題に迫る者はあとをたたず、世界のことわりそのものが死に対して鈍感だった。

 いつ死ぬか分からない地点に誰もが立っている。神祇に襲われて死ぬ。悪漢の餌食えじきになる。戦士の顰蹙ひんしゅくを買って死ぬ。どれもありえることだ。

 対して、ウォレンの苦痛は人間関係の範疇はんちゅうにすぎない。労働の問題にすぎない。無情に打たれた心の話だ。対価は支払われ、そこに差し迫った死という概念は一応は存在しない。

「おれの不幸なんて取るに足らないのに……」

「それがどうした。オメーはオメーの話をしてんだ、関係ない話を持ちこむんじゃあねぇ」

 毅然きぜんとして、イチヨはいった。

 ウォレンは面食らったという顔で静止した。

「つづけなよ。酒に酔ったときと同じだ、きついなら吐けば楽になる」

 その言葉に突き動かされて、彼はこの一年を掘りかえして話した。

 優しい時間だった。人は、苦しいときに的確な意見をちょうだいするよりも、対等にともにいてくれることのほうが癒されるのだろう。

「ウオレン」

 話せることがもうないというタイミングになって、随分と久しぶりに自分の名が他人に呼ばれた。正確には「ウォレン」であって「ウオレン」ではないのだが、それでも嬉しくなる温かい響きである。

「頑張ってるな、お疲れさん。ウオレン」

 飾らない、なんでもない慰労がイチヨから投げかけられた。不器用な舌で、名前を添えて。

 ウォレンの目から熱いしずくがぽろりとこぼれた。久しく、人に人として扱われていなかった彼の反射であった。人前で涙を流すのはいつぶりか。恥というよりは気恥ずかしさ、照れた微笑を浮かべながら彼は一粒、二粒と涙を机に落とした。

 イチヨはなにをいうでもない。

 そんな慈愛に満ちた沈黙を破って、玄関のドアが勢いよく開かれた。ウォレンは涙を引っこめて、声を立てず全身を総毛立てた。

 いっさいの遠慮をかなぐり捨てた足取りで、小さな群青が歩いてきていた。

「イチヨねーちゃん! ……お?」

 大きなリュックを背負ったその少女はウォレンを認めて、ピタと動きをとめると猫の眼光で彼をめた。

「ついに彼氏ができたの?」

「アホか。旅人さんだぞ、もう少し礼儀正しくしねーか、チビ」

 似合わない白衣をまとった、おかっぱのかわいらしい少女は鼻を鳴らすと「こんちは」とだけ挨拶して、イチヨのもとに駆け寄った。

「そろそろメリーウンマイがくるよ。なにのんきしてんの」

 握り拳を胸の前にふたつ、突きだしながら少女はいった。その動作の勢いのわりに口調は平淡であった。

「どっかで適当に挨拶しにいくよ」

「それが職員の言い草なんだ、おっかねー。働け」

「うるせー、先にいってろ」

 しっしっとあしらわれた少女は、プンスコと不満そうに家からでていった。

 ため息をつくイチヨに視線を戻し、ウォレンは質問した。

「メリーウンマイって、なんですか」

「メリーウンマイの儀式。村の結婚式だな」

「めでたい日だ」

「そう。そろそろ村が騒がしくなるぞ」

 山側の反対にある窓から村の様子を一瞥いちべつして、イチヨはつぶやいた。

「いまの子は、村の?」

「お隣のガキだ。うるせーだろ」

 ウォレンはハハと笑った。

 王都の子どもたちとは異なる雰囲気をかもしだす、こまっしゃくれた少女が頭のなかで鮮明に描写された。

 観察して記録することを生業なりわいとする彼の目に少女は、平均年齢が総じて高いのが常となる村における必死の背伸びと、イチヨへの強い親愛が見て取れた。その健気なかわいさに、彼は親しみをこめて笑ったのだ。

 また、イチヨをはじめとした村人たちが、彼女を対等に扱っていることは想像にかたくなかった。

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