第3話

 春たけなわであった。だが業平の心は思い。

 いつまでも家に閉じこもっているわけにはいかず、時には出仕せざるを得ない。そうすれば必ず、頭少将基経から嫌味の一言二言が飛んでくる。それがとてつもなくいやだった。

 そもそも業平は右近衛将監である。左近衛少将の基経の配下ではないから、基経の嫌味はおせっかい以外の何者でもない。

 それでいて宮中で顔を合わせると、何をしに来た、帰れと言わんばかりの白眼を飛ばす。

 もっとも、右近衛府にいれば基経と顔を合わせることはない。さらに業平はもはや蔵人ではないので、内裏に行く必要もない。ところが大内裏の東の陽明門を入るとすぐの所が基経のいる左近衛府で、業平の出仕先の右近衛府に行くには、どうしてもこの左近衛府の前を通らなければならなかった。

 だからその門前で鉢合わせすることもしばしばだ。新帝即位と同時にその新帝の義理の伯父に当たる基経は、エリートコースである蔵人頭となって意気軒昂としている。だが業平から見ればそのようなものになって喜んでいるなどばかばかしくて仕方なく。

 彼は鼻で笑うだけだ。勝手に舞い上がっていればいいと思う。


 そんなある日、またもや業平はいやいや出向かねばならないことになった。行き先は宮中ではなく、山科やましなだ。

 おりしも都の東の山の向こうははなが満開で、春の陽射しの中に広がる野は業平の遠い記憶をふと蘇らせた。

 暖かさを全身に受け、ほんの一瞬遠い昔の回顧に酔いしれた彼だったが、しかし今は勤務中だという事実がすぐに彼に襲いかかってその心を凍らせる。あとは現実の世界に戻って、ほかの近衛府の同僚たちとともに軽く武装して春の野を進むしかなかった。

 行き先は安祥寺だ。崩御された先帝のご生母、五条のきさき順子したごうこが建立した寺である。今日、そこで法事が行われる。

 しかも先帝の女御であった西三条の多賀幾子たがきこの四十九日の法要で、女御の父である右大臣良相よしみも臨席する。良相は太政大臣良房の弟だが、右大臣が臨席ということで右近衛府がその警護をすることになった。

 しかし考えてみれば、それはおかしな話だ。近衛府は帝の警護のための役所で、大臣といえども臣下の警護をする所ではないはずである。しかし業平にとって、そのようなことはどうでもいい。とにかく早く任務が終わって帰りたいと、そればかり考えていた。

 今回ばかりは直接の上司である右近衛少将常行からの直々のお達しだったので、すっぽかすわけにもいかなかった。その右近衛少将常行は右大臣良相の長男で、すなわち四十九日の法要が行われる西三条の女御の兄である。女御が崩じたのは昨年の十一月で、まるで先帝の崩御を追うような形だった。

 本来の四十九日はとうに過ぎている。だがその本来の四十九日が正月の二日に当たっては、期日通りに行うことはできない。その後も諸々の事情で延びのびになり、結局このような時期になってしまったのである。

 とにかく適当に勤めていればそのうち時間がたって任務も終わり、家に帰れるだろうと業平は思っていた。仕事は適当にというのが、彼の信条だ。それでも山に囲まれた都よりいっそう狭い盆地の春の風情は、少なからず彼の歌心を揺さぶり、それだけは来た甲斐があったという気がした。

 安祥寺に着いた。本堂の前にはすでに多くの人がいたが、人々の目を引いたのは木の枝に結び付けられた供物の山だった。おそらく千は下らないと思われる。兄の太政大臣家に劣らない右大臣の権勢を物語っているようでもある。

 思わず業平は「おもしろい」とつぶやいた。供物の数が非常に多いこと、そして右大臣家の権勢によるものであることなどについてではない。彼の頭の中にはそのような世俗的なことや、供物などという名辞などはなかった。

 名辞以前の世界において、赤子のような純粋な心で供物の山をおもしろいと思ったのである。

 野を歩いていた時から彼の中で疼いていたものが、ついに堰を切った。


  山の皆 移りて今日に 会ふことは 

    春の別れを 訪ふとなるべし


 朗々と吟じたすぐ後で、背後で咳払いがした。

 業平が振り向くと、上司である左少将の常行がいた。今日、彼は近衛府の任務としてではなく、故女御の遺族として喪服をつけての参列だった。その常行は、業平と一瞬目を合わせた。


 法要と講話が終わってから、業平は肩をたたかれた。振り返るとそこには、忍びつつも笑みを浮かべている常行の顔があった。

「将監殿は今日、何か他用でもおありか」

 右大臣家の嫡男で業平の上司である常行だが、まだ二十代前半の若さだ。自分の部下でも年が上の業平には、態度は慇懃だ。

「いえ」

「忍んで参るところがござって、ご同道願えぬか」

 この一族はやはりどうも苦手で、肌に合わない。この男は基経の従兄弟で、体内には基経と同じ血が流れているのだ。

 ただこの時ばかりは、この若者の澄んだ瞳が業平の気を引いた。すでに自分が失ってしまったものに対する、一種の羨望だったともいえる。

「お忍びとは?」

「なあに、色めいた話ではござらぬよ」

 この男の父の右大臣良相は、兄の太政大臣良房と兄弟ではあっても、互いに覇を争う政敵であることは知っている。それなら……と、基経に対する嫌悪感の反動で、業平はこの男の誘いに興味を持ってしまったのかもしれない。

 それにこの男の母の出自は大枝氏である。そして業平の長兄の音人おとんどは大枝家の養子となって、その本筋を継いでいる。だから業平にとって常行は、身内といっても差し支えない。

 それでも業平は、急な話に返答しかねていた。その様子を見てか、

「実は……」

 と、常行の方から行き先を告げてきた。

「この山科の里に常陸宮様がおわしますので、この足でおうかがいしようかと」

 もう一度、それなら……と、業平は思った。たまには人に会うのもいいだろう……歌という芸術のためには――彼にとってはそれが何よりも大事だ。

 常陸宮は先帝の弟宮の人康親王のことである。先帝の弟というのは、業平の又従兄弟またいとこである。つまり今の帝にとっては叔父だが、年はまだ三十になっていないはずだ。今はこの山科の里で、病の療養という名目で先月から隠遁しているという。

 そのような境遇にも、業平は惹かれた。


 山麓の草庵に、常陸宮人康親王はいた。病の床に伏せたままで、久しぶりの常行の来訪に涙を流さんばかりにして迎えたが、驚いたのは常行の方だった。親王は僧形そうぎょうにと形を変えていたのである。

「二師に十戒は受けましたが、まだ在家戒でござる。正式な得度を朝廷おおやけに願い出るつもりではおりますが」

 ようやく床の上に上半身だけ起こした親王の声は、確かに弱々しかった。そんな親王に、常行は業平を引き合わせた。

「同じ左近衛府で、気心の知れた方でござる」

 その紹介の文句に、業平はとまどった。いつから常行の気心が知れたというのだろうか。そんな業平のとまどいをよそに、親王と常行の話ははずんでいる。

 そして勧められるままに、常行も業平も今夜はここに泊まっていくことになった。別に自邸に帰ったとて、誰が待っているというわけでもない。

 業平と親王は又従兄弟とはいえ、今では身分が違いすぎる。

 だが今宵はその違いすぎる身分の隔たりが、全く感じられない。これまでは雲の上だった人と、こうして親しく接しているのだ。やはり自分と同じ血が流れているということで、業平は藤氏の一族などよりはずっと親近感を感じていた。

 ただ、親王は病の身であるのでお体に触らないようにと、夜更け前には休んで頂いた。そして常行と業平だけが、別室で酒を酌み交わしていた。

「将監殿はいける口ですな」

「これだけが友でして」

 少し苦笑いをしてから、業平は杯を置いた。これまでは左近衛府で顔は合わせていても、仕事上の言葉を交わすだけで、腹を割って話したことなどなかった相手だ。

「ところで、なぜ今日は私のことを気心の知れたなどと……?」

「あれでござるか」

 常行も笑った。

「言ってみたかっただけでござる。実は将監殿の歌の噂は、前から耳にしておるので」

「ほう」

 業平は伏し目がちにしていた顔を上げた。歌という言葉が出た途端、その目が輝いた。

「歌を……」

 初めて自分の歌を認めてくれる人が現れた。素直に嬉しかった。上司ではあるが、それでいて自分よりずっと若くはあるが、この日業平はやっと友を得たという感覚だった。二人はしばらく、歌の話で盛り上がっていた。

 だがしばらくして、急に常行は話題を変えてきた。

「ところで将監殿も、身を固められてはいかがかな」

「は?」

 意外なひと言に、業平はしばらく黙るしかなかった。そして、やっとのことで重い口を開いた。

「私には、妻がおりますが……」

 言ってしまってから、ばつの悪さを感じてしまった。妻とは言ってもすでに実質上の夫婦関係もなく、幼馴染みであっただけに互いの心は冷めてしまっていた。そんな状況も、ずばりと常行は指摘した。

「そういうわけでござろう、将監殿。それに殿上人てんじょうびとたるもの、妻がおひとりでは……」

「しかし……」

 業平は言葉につまり、また苦笑して見せた。

「誰が好き好んで、このような中年男の妻になど……」

 中年男に中年女ならあり得るかもしれないが、そのような話なら真っ平ごめんである。もしかして常行は、そんな後家を自分に押し付けようとしているのかと疑心暗鬼となった業平は、警戒したように常行を見た。

 もしそのような話なら、断固断るしかない。今さらもう一人妻を得たとしても、歌心に益になるとは思えない。

「実は将監殿、それがしの妹でござるが……」

「は?」

 常行の言葉は、業平に自分の耳を疑わせるに十分だった。常行の妹となると故西三条の女御の妹でもあり、右大臣良相の娘だ。

直子なおいこにはぜひ良き夫をと心を痛めておったところでしてな、将監殿こそはと確信に至ったわけで」

「ちょっとお待ちを。私ごときが婿では、お父君の右大臣殿が納得されますまい」

「それは私が、責任を持って」

「しかし、ご本人は……」

「将監殿には、歌があるではござらぬか。将監殿の歌なら、妹の心は……」

 確かに歌は純粋な芸術としてばかりでなく、恋の駆け引きの道具に使われることも多い。

 しかしそのような歌は歌ではないと、業平は思っていた。芸術はそれ自体が独立したものであるべきで、何かのための芸術などあり得ないというのが彼の持論だ。

 もちろん恋の駆け引きのための道具としての歌も代作を頼まれれば作ったこともあったが、自分自身が道具として歌を使ったことはここ最近にはない。

「妹は染殿の御后のもとに内侍として伺候しておりますが、その御后は帝とともに内裏うちにお入りになっておられるから、今は里の西三条に下がっておるが」

 染殿の后とは十歳になる新帝の生母――太政大臣良房の娘の明子あきらけいこである。明子は保護者として、今は内裏で幼帝と寝起きをともにしているいう。

「とにかく、しばしお時間を」

 今の業平には、それしか言えなかった。


 翌朝、明るくなってからよく見ると、草庵には狭いながらも池があり、大石などが見事に配置されていた。

「あれは紀伊国きのくにの千里の浜から運ばれてきた石ですよ」

 なんとか無理して起きてきた親王が、得意げに説明する。それを聞いてまた業平に、歌心がわいてきた。


  飽かねども 岩にぞ代ふる 色見えぬ 

    心を見せむ よしのなければ


「おおっ!」

 親王の賞賛はひとしおだった。

「あの石に、ぜひ今の歌を!」

 その時常行が頼もしげに自分を見ていることに、業平は気づいた。歌に心を入れている間せっかく忘れていたのに、昨夜のあのわずらわしい申し出がふと業平の心中に蘇った。

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