第2話

 そんな昔のことを思い出したついでに、車の中の業平は妻との間がどうしてこうなってしまったのかと記憶の糸を手繰り、ある出来事に思い当たった。

 ちょうどさっき妻と取り交わしたばかりの歌の内容も、その追憶の導火線となったのかもしれない。


 結婚したてでまだ若かった業平は当然よそ見もしたくなり、美しいという評判の姫を見に、はるばる河内の国まで出かけていったことがあった。

 その時妻は、何食わぬ顔で送り出してくれたのである。だが、気にもとめずに出かけた業平は、河内の国で目指す女を垣間見た時、見てはいけない場面を見てしまった。

 垣間見かいまみ――すなわち、女の家の中を外からのぞいて女の顔を見るのは、貴族なら誰でもすることだ。貴種の女は外出はしないのだから、恋の始まりはこうするしかない。

 さらに業平が見てしまった若い女性の見てはいけない場面とは、着替えでも入浴でも排泄でもなかった。貴族の女が全裸になって着替えることはまずないし、入浴はしない。排泄とて袴は脱がず、袴の脇から便器を入れてする。

 見てしまった見てはいけない場面とは――それは女性の食事だった。噂の女は確かに美しかった。それが自ら大盛りに飯を椀につぎ、大口あけて食らいついていたのである。

 業平は一気に冷め、そのままきびすを返して都へと戻った。その帰途の車の中で業平は、出かける時にあまりにもあっさりと妻が送り出してくれたのが急に気になりだした。

 すると、もしや妻にはほかに男が来ていて、だからこそ自分をすんなり送りだしたのではないかと、居ても立ってもいられないほどに気持ちが高ぶっていった。

 長く感じた都までの道中が終わって自邸に着くと、そのまま庭から垣根越しに妻のいる隣家の紀家の様子をのぞいた。すると妻は、声も朗々と歌を詠んでいた。


  風吹けば 沖つ白波 立田山

    夜半にや君が 一人越ゆらん


 今にして思えばこの歌は、わざと平静を装う妻の気位の高さから出た歌だったように思える。

 この時から妻は急にお高くとまるようになり自分を無視し始めたのだと、今の業平ならそう思う。しかし当時は、妻の自分の愛情からの歌だととらえた。それから彼は、妻以外に気を移すことがなくなってしまったのだ。

 そこまで考えた時、牛車はゆっくりと自邸の門に近づきつつあった。

 妻の愛情ととらえてほかの女に気を向けなくなったのと同時に、妻は自分を無視するようになった。夫婦の中は急に冷めていった。

 業平は考えた。自分は若さを無駄にしてしまったのではないかと。しかしいくら後悔しても、泣いても叫んでも、もう若い日はやり直せない。そう思ってまたため息をつく業平だった。


 自邸では、侍女たちが同じように平伏して彼を出迎える。

 業平は中年の域に入ろうとしていても、男としての機能だけはまだ健在だった。しかし、もはや三十を超えた妻には食指が動かない。欲望の処理にしても身分あるものなら自慰代わりに、自邸の侍女に手もつけられよう。

 しかし彼の邸宅のわずかな数の女房たちは、みな老女ばかりだ。

 それに自分自身も老いた。

 もはやどんなに美しい姫君の噂を聞いても、もはや昔のように胸焦がす恋などできそうもない。せめてあと十年、いや五年でいい。若かったらと思う。たとえ今胸を焦がすような恋心をどこぞの姫に持ったとしても、相手がこのようなおじさんを相手にはするまい。

 では、実際に五年、そして十年若かった五年前、十年前はというと、つくづく自分は青春を無駄にしてきてしまったと業平は再び思う。

 そんな時ふと、遠い昔の春日野の姫の面影が、もはや仮想の世界の現実のようにほろ苦い想い出としてなぜか心の中によみがえるのであった。


 ようやく梅雨も明けたが、その後も地震、不気味な流星群の出現と、都は落ち着く暇もなかった。

 そしてその極めつけはみかどの崩御である。病でお倒れになった帝は秋も深まった頃、三十一歳の若さで冷然れいぜい院にてお隠れになった。業平とは又従兄弟またいとこに当たる帝は、後に文徳帝とおくりなされる。

 そしてまもなく、わずか九歳の新帝が即位あそばされた。

 だが、紀有常は内心穏やかではない様子を、婿の業平にも見せていた。そもそも有常の妹の静子しずけいこは先帝文徳帝の更衣で、その先帝が東宮の頃にすでに第一皇子を生んでいた。惟喬これたか親王である。だが文徳帝が二十四歳で即位した約七ヵ月後に立太子したのはその第一皇子の惟喬親王ではなく今回九歳で即位した第四皇子で、当時は生後わずか三ヶ月だった。

 有常の悶々とした気持ちは、実はこの時から始まっていた。有常の母は文徳帝の女御の染殿のきさき、すなわち太政大臣良房の娘の明子あきらけいこであった。

 新帝が皇太子として立太子した時に、世間には童謡わざうた流行はやった。


 ――大枝おおえを超えて走り超えて、おどがり超えて、我や護る田にや、さぐりあさりむ志岐や、雄々い志岐や――


 大枝は大兄おおえ――三人の兄を飛び越えての立太子を言祝ことほぐ歌か、はたまた皮肉をこめた歌か……。その立太子の時の憤慨が、今回の新帝即位によって有常の中で再燃したようだ。

 新帝の母は、なんと言っても藤氏である。やはり業平の兄の行平が言うように、「かの一族には逆らえ」ないのかもしれない。

 しかし業平は、兄の言葉のような傍観とは別の意味で、時代の移り変わりを冷ややかに見ていた。

 業平にとって身近なことは、これで蔵人という任から解放されることだ。帝の身の回りの世話が役目の蔵人は帝の代替わりですべて解任され、改めて任命される。再任されるものも多いが、無断欠勤が続いた業平だから再任は不可能に近い。

 だがかえって業平は、これで肩の荷が下りたとほっとしていた。その予想は当たって、蔵人の筆頭である蔵人頭くろうどのとうには、太政大臣良房の養子の基経がなった。基経は左近衛少将と兼任なので、今後は頭少将と呼ばれる。

 つくづくよかったと業平は思う。あの連中と一緒に蔵人などやりたくいない。もっとも、蔵人になったとて、出仕するつもりもない業平だが……。


 新帝の即位大礼は、先帝崩御から二ヶ月後の冬も十一月になってからだった。

 世の中が変わろうとしている。

 幼帝の即位ということもあって、太政大臣良房は実質上の摂政としての権限も行使するようになった。摂政とは聖徳太子の例があるように、本来は皇族がなるものである。良房はこの時点ではそれを代行したに過ぎず、皇族の本物の摂政とは人臣であるだけにやはり一線を画されていた。

 いずれにせよ、世の中が変わろうとしている。

 蔵人がとけた業平だが、左近衛将監という役職はそのままだった。それでも業平は近衛府に出仕などほとんどせず、相変わらずの日々を送っていた。

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