とある赤ちゃん編集者が叫びたい校正のこと

海橋祐子

とある赤ちゃん編集者が叫びたい校正のこと

 実は筆者はとある出版社に編集者として新卒採用されたピチピチぴよぴよの赤ちゃんである。

 教わってもないことを「なんでこんなこともできないのか」と軽蔑のような、ひどく可哀想な、バカにしているような目で私を見てくる上司と笑顔で毎日頑張っている。


 仕事をしていく中で、校正という作業を任された。

 簡単にいうと、文字を読みやすくするために、文を整えたり誤字脱字がないか確認する作業だ。これをするのとしないのとでは、全然違う。

 そんな校正だが、以前こんな文が世の中に出るなんておかしいと、ある書籍を酷評している呟きを某SNSで見た。その中には「編集者がとんでもなく無能だったに違いない」というものもあり、結構その呟きがバズっていたためウグと変な声が出てしまったのはここだけの話だ。

 確かに世の中にはなんでこんなものが世に出ているのか、どうして入稿のその時までに誰の目もこれをおかしいと思わなかったのか、そんな疑念を抱く書籍はそれはもう山のようにある。

 しかし、それが世に出てしまうのはなにも、編集者が悪いということではないことをわかって頂きたい。


 だって、編集者は著者の文を曲げてはいけないのだから!


 こればかりは本当にどうしようもないのである。

 そもそもこの日本は「表現の自由」が守られている国である。

 簡単にいうと、どんなことも自由に自分を表現していきましょ〜みたいなものだ。もちろんもっと細かくいえばキリのないことになるので、これに関してはこんなニュアンスで軽く頭に置いておいてほしい。

 つまり、だ。我々編集者は誤字脱字や、文としての最低限の「手直し」を入れることができても、根本的な作者の言いたいことは変えることはできないのである。

 例えば洋服がほつれてしまったからお直しに出すとする。しかしそのお直し屋さんは「あらやだ、このシャツなんてダサいのかしら。ついでにこれも変えてあげましょう」なんてことをしてしまったら間違いなくクレーム勃発弁償だ。


 だからお直し屋さんは最低限のお直ししかしない。


 誰だって自分のお気に入りの服を勝手に改造はされたくない。

 それは著者も同じで、編集部に持ち込まれた作品の内容がどれほど「とんでもないもの」でも、法に引っかからないものであれば、編集者は著者の文の根本的な部分は直すことはできない。

 もちろんあまりにもひどいものは作者に訂正をお願いする。しかし、その原稿を見せている時点でその作者の世界はもうできあがっており、必要以上のお直しはいらないのだ。

 つまりここで作者と担当の交渉次第となるが、その結果が皆さんがたまたま目にしてしまった「とんでもない本」なのだろう。


 けれど、皆さんはここで勘違いをしてはいけない。

 どれほど皆さんが「とんでもない」と思っていても、その作者にとっては「最高」なのだ。

 もし自分が「とんでもない」と思っても、それは自分の中の価値観の話であり、他の誰かが読んだときに「素晴らしい」と感じたのならば、それは素晴らしい本なのだ。

 そして、その本ができあがるまでに我々編集者がなにもしていなかったというわけでないこともわかって欲しい。我々だってプライドがある。死力を尽くして本に携わっている。

 その結果が世にでる本なのだ。


 けれど、そんな中でもどうしてもとんでもない本と出会ってしまうことがあるかもしれない。

 そんな時は出版社にぜひ、ハガキを書いて欲しい。

 出版社によるとも思うが、読者の直接の声というものは会議に取り上げられたりするのだ。

 少しでも、不満に思う本があったら是非出版社にハガキを出して頂きたい。

 その一枚で今まで言えなかった反論や意見を言える編集者はいるはずだ。

 そして、できれば面白かったこととか、最高だと思ったことも、一緒に添えてくれるとありがたい。

 それだけで少なくとも私は、明日も頑張ろうと思えるのだ。



 これはある雨が降る冷たい夜に、校正の仕事を深く考えてみた、とある若輩編集者の独り言である。

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