第2章-4 裏天使さらたん爆誕


「えっ?」


 亜希乃が呟いた。さくらちゃん? 誰だよそれ。そしてステージ上のその女の子がこっちを見て、そして目が合って、え? 


「あっ」


 その子がこっちに向かって何か言った途端、彼女の手からマイクが滑り落ちる。そしてそれを拾おうと手を伸ばしたその瞬間だった。ブチっという音ときいいぃぃぃんという耳をつんざく音がしてそして彼女がすってんころりんとひっくり返った。そしてこっちに向かってスカートの中を開くようにして尻もちをついて。あれ、なんか最近こんな光景を見た気がする……謎のデジャヴ感。デジャビュ。deja vu どうでもいいけどデジャブって既視感って意味でフランス語だったよな……英語でも使えるらしいけど……和製英語ならぬ仏製英語ってか。ステージの上のその子はスカートを抑えながら立ち上がり……そしてこっちを見て……睨んできて……あれ、え? なんか既視感というか違和感(feel strange)というか


「さく……saraちゃん! 大丈夫?」


 しほりんともう一人の子が慌てて駆け寄って、引き起こしてあげる。彼女はマイクを拾いなおすとみんなのほうを見て


「みんなーごめんね。手が震えて……しっぱいしっぱい」

「もう~そんなに緊張しなくていいよ~」

「そうだよ! ダンスも完璧だったじゃん? 本当に緊張してるの~?」

 みんなからどっと笑い声が起こる。そして頑張れ~とかダイジョウブ~? とかの声が沸き起こる。


「みんな~? 改めまして、研究生のSaraちゃんですっ! みんなぜひ顔を覚えて帰ってあげてね~」


 わあああああああああああああああああああっ

 そして何事もなかったかのようにトークに入って、そしてもう一曲歌って、


「じゃあね~せーのっ! Chocolat Lips でーしたっ!」


 わああああああああああああああああああっ

「きゃああああああっ! しっほりーーーーーーーーーーん!」

 

 どうやらユニットライブは大成功のうちに終わったようだ。ステージは再び暗転して次のユニットと入れ替わる。推しのユニットではないはずなのに亜希乃はまた休む間もなく声を張り上げ続けている。ただ俺はずっと一人もやもやを抱えていたのだった。


 二時間はゆうに超えただろう。体感時間はすでに5時間を超えているが。最後のアンコールと挨拶が終わって俺はようやく命からがら苦行から解放された。ふらふらになりながら公園のベンチまで這う這うの体で逃げ出す。みんな意気揚々とした表情でまだまだ元気そうにはしゃいでいる奴ばかりだ。


「兄貴、大丈夫?」

「ははは……」

「ちょっと情けなくない?」

「いや、こんなにはしゃいで飛んで叫んで、よくいろいろと、持つよなあ……」

 体力も精神力も、すっかり俺のライフは0よ!

「じゃあ兄貴はもうここで寝てるよね! 私握手会に行ってくるからっ。ちゃんとここで寝ててね! あと兄貴の分の券はもらっていっちゃうねっ!」

 ああもうどうでもいいぞ。勝手にしてくれ。俺はベンチにもたれかかって遠巻きにステージのほうを眺めてぼーっとしていた。ものすごく長い列ができていて、ああ、奴等はこのライブ後でも嬉々としてこの列に並んでいるのかと思うとぞっとするわ。ふうっ。ああ早く帰りたい……






「ねえ、ちょっと」


 気づくと目の前に亜希乃がいた。どれくらい寝ていたのだろうかわからない。ああ、やっと帰れるのか。長えよ……


「やっとかよ。さあ帰ろうぜ」

「は?」

「は? じゃねえよ。どんだけ待ったと思ってんだ? っと」

「きゃっ」

 俺がベンチから体をばっと起こすと急に耳元で、聞き慣れない可愛い声がした。

 へ? 強烈な危険信号が脳内を駆け巡った。これは妹じゃない。俺の顔のすぐ前に、さっき俺を睨み付けていた目が、さっきまで脳内再生していたはずのその顔があって、って……なんで本物がっ!


「ちょっと兄貴、さくらちゃんに変なことしないでよね」


「は……? って亜希乃もいるじゃん、一体何がどうなって……」

 

 妹の横に立っていたのは、間違いない。さっきまでステージにいたはずの彼女だった。今は普通の私服、白のワンピースにピンク色のカーディガンを羽織っていて、先週初めて会った時の制服姿とも、さっきまでのステージ衣装のアイドル姿とも全然違う雰囲気で、何と言うのだろう、とにかくうまく言えないけれど……


「さくらちゃん。私の幼稚園の時のお友達よ」


 は? 妹の友達……? 


「はじめまして、お兄さん」


 へ? 


 はじめまして?


 にこやかに笑いかけてくる彼女の顔は初めて見た。こうして見ると改めて可愛いということを再認識する。だが、どうやら眼だけは笑ってないようで、あの時と同じく俺は、蛇に睨まれた蛙よろしく身をちぢこませることになったのだった。



 




 そして運命が回り始める。しかしまだその音は聞こえない。

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