これでよかった。

伊島糸雨

これでよかった。


 高校生の頃、夢があった。文芸部に所属して物語を編みながら、小説家になりたいと思っていた。

 大学生になって、まだ足掻いていた。この程度じゃない。もっといけるはずだと妄想していた。

 妙なプライドが邪魔をして、就活も真面目にやらなかった。そんなことより書かなければと、私は焦るばかりだった。時間がない。面白くない。自信があったのだって箸にも棒にも引っかからない。一日に吸う煙草の本数と、貧乏ゆすりの速度だけが日に日に増していった。

 夢を見ていたのだと気づくまでに、ずいぶんと時間がかかった。自分には何もなかったのだと知って、私はデータの入ったUSBを叩き割って燃えるゴミに出した。分別先が違うことは、よくわかっていた。

 もう書きたくない、と思って、私は何年も放っておいたスーツに手を伸ばした。それは新品そのままのように、私の身体に馴染んだ。これがあるべき姿なのだと、数年越しに諭された気がした。

 私は筆を折った。心が折れて、データは焼いた。もはや何も残されてはいなかった。私にあったものは本来余計な代物で、空洞があるのが正常なのだと思い知った。しがらみを捨てた。軛を断った。私は考えるのをやめた。そうすると、驚くほど順調に、就職先は決定した。そうしてまた、私のこれまでは否定される。余計なものばかり、抱え込んできたのだと。

 平日は九時五時から伸びて、七時くらいに退社することが多い。事務職として、仕事はそつなくこなせているとは思う。休憩時間には喫煙所に行って、うっすらと靄がかかる中で煙草を吸った。今時喫煙する人なんてほとんどいなくて、私は大抵一人だった。息を吸う。吐く。ただそれだけのことに、健康を害してまで色と匂いを付けようというのは、はっきり言って異端なのだろう。

 同僚も上司も、私に対して一歩引いた場所から声をかける。苦手に思われているのだということはすぐにわかった。凝り固まった表情筋は愛想を奪い、必要最低限の言葉は親しみを殺す。加えて、仕事や生活といった日常に対するやる気のなさを、彼らはぼんやりと感じ取っているようだった。

 不思議と年下からは飲みに誘われたりもするけれど、私はそれを断り続けている。ただ一言「帰るから」と言えばいい。それだけで、大抵は大人しく退いてくれた。

 夜は瓶で買ったウイスキーを氷で割って少しずつ飲み、何をするでもなく早々に眠った。起きていると、意味のないことを延々考えてしまいそうで怖かった。テレビもないただ寝に帰るだけの部屋で、私は一人夢を見ない。

 実を言うと、一時期何を思ったのか、ギターを弾いていたことがあった。音楽を聴くだけでなく、気晴らしに何かやってみるのもいいかもしれないと、中古で買ったのだった。当時は結局ある程度弾けるようになったところでやめたのだけども、それが今になってささやかな習慣になりつつあった。

 弦に指を這わせるのは休日のみと決めている。それは単に、同じルーティーンで日々を回せればそれでよかったからで、深い意味は特にない。仕事のない日は音楽のことだけを考えて、練習をして、気に入った曲を弾いては録画してみることもあった。そうして録ったものは、その週の記録のようにして、動画配信サイトに載せた。再生数は3桁もいかない。でも、別にそれで構わなかった。

 同じ時間、同じ過ごし方。そうやって生を磨り潰して、いつか消え去るのを待つだけの日々。薄暗い部屋で飴色の液体を転がして喉を焼きながら、時折、異様なまでの息苦しさが、悲しみが、無節操に溢れて止まらなくなる。腕に顔を埋めて唇を噛み、滲む涙を堰き止める。どうだっていい。どうでもよかった。私は捨てたのだから、私は折れたのだから。こんな毎日が、大切だから。

 暗闇の中で、からり、と溶けた氷が擦れる音がした。何に酔ったところで、私はもう、夢を見ない。


 そう思っていたはずなのに、夢を見た。

 放課後、夕暮れ時の茜色の中、私は文芸部の活動場所だった空き教室で、椅子に座ってぼんやりと外を見つめている。雑音のようなさざめきは、運動部の掛け声と吹奏楽部が練習する音を歪につなぎ合わせたもののようだ。

 ──、と声をかけられる。振り向くと、安曇憂が立って私を見下ろしている。私はぶっきらぼうに「なに」と言って、視線を逸らした。

 書かないの、と彼女は言う。「書かない」と私は返す。

 どうして、と彼女は言う。「もう、書きたくない」と私は言った。

 そっか、と安曇は沈黙した。私は彼女を見なかった。


 夢はそれだけで終わった。夜中に目が覚めて、急激に襲ってきた悪心にトイレに駆け込むと、そのまま嘔吐した。夢のせいだ、と思った。喉がひりついて、頭蓋を叩く痛みに身体を弛緩させた。

 才能に溢れた友達だった。傍にいたいのに、彼女の言葉が痛くてたまらなかった。どんどん辛くなって、嫉妬して、憎んで、たぶんきっと、憧れていた。

 彼女は書き続け、上り続けて、周囲も彼女を支えようとした。そして大学生のうちに長編で賞をとって、そのまま作家デビューを果たした。

 よかった、すごい、きっとなれると思っていた、夢が叶ってよかった。

 彼女に言葉を送るたびに自分自身を突き刺すようだった。口角を上げる。目を細める。興奮した調子で、文章は感情豊かに。嘘偽って、手を叩いて。

 第二作が出たところで、私は彼女の連絡に応じるのをやめた。最後に見たのは、二作目が出たという嬉しそうな文面だった。数ヶ月後、私は安曇憂を連絡先から消した。SNSは、アカウントを変えた。

 私の日常から安曇は消えて、私は同時に指針を失った。あとはただ必死だった。いつか、どこかで。こんなはずじゃないと歯軋りしながらキーボードを叩いていた。安曇に触れるのが怖くなって、テレビもSNSも見なくなった。

 そうして、今の私がある。愚かに道化を演じたばかりに、こんなにも、生き苦しい。

 ノートの代わりのデスクトップ。せり出したキーボード。ぬるくなったコーヒーの行き過ぎた酸味。混沌とした喫煙所の匂い。ハイヒールで痛む足。同僚たちの冷たい視線。飲み会に誘う甲高い声。自分が消えてしまいそうな雑踏、電車。家の鍵を回す感触。ウイスキーの、喉を焼く感覚。指を押し返す弦の張り。移りゆく旋律と、私の声。誰かの言葉。

 繰り返し、繰り返し。時は過ぎて、いつしかその中に溶けてしまえばいいと思った。部屋の床にへばりついて、腐臭を撒き散らしながら蕩けるようにと弦を弾く。録画用のカメラが、無機質に私の指先を見つめている。

 首から上を失った腐乱死体が、音を伴って電子の海を泳いでいく。先行きを見失って、少しずつ少しずつ、諦めて力を抜いて、つま先から沈んで、溺れていく。酸素を求めて喘ぐほどに肺は澱んだ水に満ちて、茫漠とした私は消えていく。

 下手くそなメロディーは夢で見た夕暮れのノイズに似通って、沈みゆく太陽は鬼灯の実のように赤々と燃え盛る。憧憬の光は熱を伴って私を焼き尽くした。炭化する四肢はキーボードを打つたびに崩れ落ちて、残り滓の私が呟いている。「もう、夢なんて見たくない」

 録画を見返していると微かに嗚咽が入り込んでいて、私はそれをゴミ箱に捨てた。分別も何もなかった。こんなもの、誰に見せられるというのだろう。

 安曇憂がどうやって私の居場所を突き止めたのかはわからなかった。彼女は突然私の前に現れて、動揺する私を見るとあの頃と変わらない微笑みを浮かべた。

「久しぶり」

 家に上げる気は起きなかった。私の現状をありありと示すものたちを、彼女にだけは見せたくなかった。私の声は、震えていなかっただろうか?

 上着を羽織って、近所の小さなバーに向かった。一度も行ったことのない店だ。他に選択肢を持てるような生活はしていない。仕方がなかった。

 グラスの中でうっすらと溶けた氷が、暖色の照明を反射しながら、油膜のように黄金色を覆っている。俯いて、円形の淵を撫ぜた。

「急に押しかけて、ごめん」

 開口一番、彼女は言った。音の響きからすると、私の方を向いて、膝に手でも置いているのだろう。私は彼女を見ない。液面で波打つ自分の顔が苦々しそうに歪むのを眺めるだけだ。

「どうして、わかったの……」

「動画、見たんだ。今は、音楽をやってるんだね」

 まさか、と思った。あんなものから、私が何をしているかがわかるとでも言うのだろうか。それで、こうやって生きているのがわかったから、会いに来たとでも?

 そもそも、どうしてあれが私だとわかったのかが理解できない。私は変わったはずだ。安曇と小説を書いていた頃の私は、もう捨てたはずだった。

「声でわかったよ」

「まさか」

「本当だよ。記憶力いいから」

 そういう問題だろうか、と真面目くさった声に眉根を寄せる。記憶力に関するエピソードは、まるで聞いたことがなかった。

 それで、毎週更新されるのを聞いてたらさ、と彼女は続けて、

「懐かしくなって、話したくなった」

「それで、つてを辿って……」

「うん」

 会えてよかった、と彼女は安堵したように言った。そして注文していたカクテルに喜びながら、ストローで吸った。私は歯で唇の皮をむいた。血の香りが、舌先に滲んだ。

 冗談じゃなかった。私にとって、安曇と一緒にいることはもはや苦痛以外のなにものでもない。他の誰よりも、私は彼女の光に焼かれているのに。

 安曇憂は、穏やかで、無為で、嫉妬も羨望も焦燥もない灰色の習慣の中に割り込んできた異物だ。捨て去って忘れようとしている過去の遺物でしかないくせに、私の頭に手を突っ込んでぐちゃぐちゃに搔き乱す。

「最近、どう?」

「なにもないよ」

 私は呟くように言った。

「仕事とかは……」

「ただの事務。それだけ」

「そっか……」

 安曇が苦笑するのが、磨かれた黒いカウンターに映る。私はそれさえも視界に止めおきたくなくて、ウイスキーを一口呷った。唇の傷がひりひりと痛んだ。

 意味のない問いばかり連ねて、なにをもたもたしているんだろう、と私は安曇への苛立ちを自覚する。私と安曇の明確な接点といえば一つしかないのに、どうして無駄な遠回りをするの?

 ねぇ、憂。いっそ、一息に殺してよ。

 もう飽きちゃったんだ、こんなのは。

「私はね──」

 自分の近況を話しながら、声の上で嬉しそうに明るく振舞おうとしていたけれど、彼女の言葉の端々からは、悲哀に似た、憐憫ともつかない感情がかすかに匂った。安曇は私を笑いはしないだろう。けれども、今にも「こんなはずじゃなかった」と言い出しそうで、私は不安になる。

 うんざりするほど聞いた言葉だった。嫌になるほど、考えた言葉だった。

「びっくりしたよ。ギター弾けるなんて、知らなかったから」

「ああ……」

 返す声は、吐息に混じって霧散する。

 ギターなんて歌なんて、ただの手慰みでしかない。同じ一週間を繰り返すための道具として選んだに過ぎなかった。ガラクタ置き場には行けない。だからせめて、まだ壊れていないもので満たしていたいだけだった。音楽なんてやってない。あんなのは、死体の指が弦を擦って、その連なりが偶然曲として成立したにだけなのだ。

 安曇憂に憧れて、その物語に恋焦がれた。私にはどうしたってできやしない音の組み合わせで世界を掴みとるのに、手の震えが止まらなかった。彼女に差し出された原稿は、私が読んだ後には端が皺くちゃになって、自分がそれをどれだけの力で握っていたのかと思うと恥ずかしかった。それでも、私の小説を彼女が読んで褒めてくれた時には、他に代えようもない喜びに満ちるのだった。

 彼女といると自分の浅ましさが浮き彫りになる。だから、離れたのに。

 横顔に彼女の視線が突き刺さる。私を解剖してつまびらかにする彼女の視線が。より深く俯いて鏡面の自分を波打たせる私を、彼女はじっと見つめて、

「……もう、書かないの?」

 沈んだ音色で、言った。

 私の言葉は決まっていた。夢の中で練習までしたのだ。脳みそから出るんじゃない。もっと下、身体の奥底の一番ぐずぐずの部分から、私は、

「書かないよ」

 そう、吐き出した。

「どうして?」

「もう、書きたくない」

 絞り出して、これで安曇は満足だろうか、と考える。細い呼気はアルコールと混じり合って熱を持った。私の凋落を目の当たりにして、変わってしまったかつての友人を見て、この茶番は終わるのだろうか。そんな風に、夢の光景を反芻していた。

 彼女は一つ息を吐いてから、ストローに口をつけて、

「私は、好きだったけどな」

 私は、

 息を飲んで、目を見開いた。

 今、なんと言った?

 この女は、私に、なんと言った?

 安曇は、止まらなかった。

「残念だな……。私、あなたの言葉が好きだったから」

 やめて、とせり上がるのを、歯を噛み締めて、耐える。

 今すぐ黙って。その口を閉じて。あなたの言葉で語らないで、放っておいて。私のことなんて忘れて、見えないくらい遠くに行って消えて欲しかった。

 安曇。あなたはもう私のことなんて見ていなかったんだ。あなたを見たくない私に一方通行で何をしたところで、お前には何もわからないんだ。私がどんな思いで、どんな想いだったかもどうせわかっちゃいないんだよ。

 憧れのあなたに、遠くに行かないで、なんて、言えるわけがなかった。

 どこまでも遅れていく私に合わせてよ、なんて、言いたいわけがなかった。

 でも、結局は苦しいままで何も変わらないから、私が変わるしかなかったんだ。

 憂。私のことなんて、振り返らないでよ。

 本当の願いがどうあったって、痛いのは、もう嫌なんだ。

「きっと、また書けるようになるよ。だから──」

 そして、彼女は私に嘘をついた。

「──大丈夫だよ」

 我慢の限界だった。

 これ以上私を乱さないで。願っても届かないものを見せないで。私を、嘘つきのままでいさせて。

 だから、私は静かに叫ぶ。「やめて」

「やめてよ、安曇」

 私は、もう書きたくないの。

「これ以上、夢を見させないで」

 頬を生温い液体が伝うままに、ようやく顔を合わせて目にしたのは、彼女の悲しげな表情だった。まるで、何かを期待して、そのことごとくに裏切られたように、くしゃっと顔を歪めていた。

「そっか」

 彼女はただそう呟くと、ストローを抜いたカクテルを飲み干して、席を立った。

「まっ」

 伸ばしかけた手は、間抜けな軌道で中空を掻いて、落ちる。口は引き結んで、何も……何も言わないように。

 安曇はお金を置くと、しばらくそのまま立っていた。そしてようやく動き出す時になって、寂しそうに言うのだ。

「……もう、名前で呼んでくれないんだね」

 ごめん、とこぼして、彼女は私の前から姿を消した。私は呆然と入口を見つめて、入ってきた客がぎょっとするのも気にとめなかった。

 終わった。

 これで、ぜんぶが元通りだ。

 どんな激情もどんな喜びも許容しない、灰色で未完成な日々に戻るのだ。

 私は喝采を上げてしかるべきだった。だって、目的を果たして、彼女はもう戻らないのだから。二度目の拒絶で、彼女はようやく鬼灯の日が沈む水平へと帰って行ったのだから。

 なのに、どうしてか、涙が止まらなかった。

 節操もなく、マンホールからあふれる下水のように、奥深くでこぽこぽと音がした。

 本物の傷を、偽りの膿で覆い尽くして。

 愚かに道化を演じたばかりに、私はまた、大切なものを失っていく。


 どうやって帰ったかは覚えていない。明かりを消した室内では、どこかから饐えた匂いが漂ってくる。朦朧とした意識の中で、自分がベッドを背にして座り込んでいることを認識する。真っ暗な上にひどく頭が痛んで、なにもかもが覚束ない。覚醒を拒む意識の細い糸をたどって、ずるずると、床を這う。

 記憶の中にある間取りに従って、ギターに手を伸ばした。硬質な弦の張りを掴もうとして、私もギターもあえなく倒れこむ。硬質な衝突音で、ギターが床に激突したのを知った。構わない、と起こして、腕の中に抱え込む。

 前後不覚でも、爪の先に引っ掛けて弾くと、軽やかな音が暗闇で跳ねた。それが不思議とおかしくて、私はひりつく喉を空回りさせる。からからと、乾いた空気が漏れていった。

 でも、次の瞬間には、顔を手で覆って、指先に絡む前髪を掴んで呻いている。叫んでいるつもりなのに、声は喉につっかえて、ついぞ現れることはなかった。


 壊れたパソコンを開いてもそこに光がないように、私は嘘つきでいようと思う。

 例えば、こんな風に。


 夢なんてなかった。

 同じ日々を繰り返したかった。

 どうだっていい、どうでもよかった。

 私は捨てたのだから。

 こんな毎日が大切だから。

 音楽をやるのが好きだ。

 嫉妬も羨望もありはしなかった。

 安曇の活躍が純粋に嬉しかった。

 安曇のことが嫌いだった。

 会いたくなんてなかった。

 お願いだから遠くに行って。

 私のことなんて、振り返らないで。

 私は、大丈夫だから。


 もう、書きたくない。

 もう、夢なんて見たくない。


 これで、よかったのだ。

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これでよかった。 伊島糸雨 @shiu_itoh

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