終章:常に在るもの 02 





 皇帝は言葉通り、ヴィヴィアンとエムをお咎めなしで宮殿から解放した。


 ヴィヴィアンもエムも、この宮殿を出るまでは解らないなと思って警戒していたのだが、本当に何もなかった。

 刺客も来なければ、宮殿から市街地へ行くための馬車もない。


 平民なのだから、庭園から歩いてバルジャン市街地へ行けという事だ。


 エライユ宮殿の庭園は、ティンダルの王城の庭園と違い、平民にも開放されているから、ヴィヴィアンたちが庭園にいることは問題ではないが、途端に平民扱いされるというのもなんだか複雑だったりする。


 ヴィヴィアンは少しため息をついて、ラベンダー色の日傘を開いた。同色のアフタヌーン・ドレス用にあつらえたそれは、今着ているラピスラズリ色のローブ・モンタントにはあまり合わない色合いだが、贅沢は言えない。


 もうこれからはずっとこうなのだから、慣れていかなくては。


 ヴィヴィアンは決意を新たにするように、日傘を握る手に力を込めた。


 隣を歩くエムが、拍子抜けだ、と軽くため息を吐いた。


「絶対に伯爵が横やり入れてくると思ってたのに」

「そしたらどうするつもりだったの?」

「魔法で視界を奪ってやろうと思ってた。二人組なら、こうお互いの視界をシャッフルしたりとか」

「……何でもアリね、エムは」

 ヴィヴィアンは少しあきれた声を出してしまう。

 プレヴェール伯爵から聞いていたものの、魔法に関しては本当に何でもできてしまうらしいな、とヴィヴィアンは思った。

 この世界の魔法は、いわゆる精神干渉みたいなものだろう。

 以前、エムは魔法は火や氷を出せないと言っていたが、そんなものより、人の意識や視界を操れてしまうほうが、ずっとたちが悪い。


 改めて、彼を敵に回すのだけはやめようと誓うヴィヴィアンだった。


「まあとにかく、これで晴れて自由な身なわけだけど……ヴィー、ほんとによかったの?」

「――ええ、決めたもの。ヴィヴィアン・クロムウェルの名前は、捨てる」


 ヴィヴィアン・クロムウェルはティンダルの公爵令嬢の名前だ。そして『彼女』は表向き、ティンダルの山奥の修道院にいることになっている。

 だから、どこの国の民でもなくなるヴィヴィアンは、その名前を捨てる必要があったのだ。

 


「じゃあ、改めて宜しく――エレイン」

 エムはそう言ってヴィヴィアンに右手を差し出してきた。

 ヴィヴィアンはその手を握ろうとして、止めた。


「エレイン?」

「私、貴方の本当の名前、知らない」

 ヴィヴィアン、改めエレインは今更過ぎる事に気が付いた。

 エム、は彼がそう呼んでほしいと言った名前のようなものだ。彼の本当の名前ではない。


 エレインはふと、聞いたことを思い出し、その言葉を口にすることにした。


「あなたの名前は、エムリスなの?」

「――なぜ?」

「稀代の魔術師の名前だと、聞いたわ。バッチェ地方の発音だと」

 だれが、とは言わなかったがエムはすぐ見当がついたらしい。あの腹黒伯爵が、と忌々しそうな顔で呟いた。


「エム、の名前は確かにそこから取った。でも、僕の名前はそっちじゃない」

「そっち?」

「稀代の魔法使いは名前が2つあったんだよ――僕はもう片方の方」

「なんていうの?」

 首をかしげるエレインの耳元に、エムは唇を寄せた。エムの本当の名前が、エレインの頭の中に入ってくる。

「……でも、エムって呼んでほしい」

 エレインの耳元から顔を離したエムは、苦虫をかみつぶしたような顔だった。

「どうして?」

「君がもう湖底の女王でないように、僕も稀代の魔法使いじゃないから」


 ――“名は体を表すのではなく、縛るのかもしれませんよ”


 いつかの言葉が、エレインの頭の中を反芻した。

 公爵令嬢が、エレインを縛ったように、エムの本当の名前が、彼を縛っていたのかもしれない。

  

「……お互い、面倒なしがらみが外れてよかったわ――エム」

 エレインはエムの頬を一つ撫でると、柔らかく微笑んだ。

 言外に話せないというエムに、微笑む事で、彼の意見を了承したと、伝えたかったからだ。


 エムが安堵したように表情を和らげたのを見て、エレインは歩き始めた。


 ヒールの低いブーツ。自分で歩くには、貴族の高いヒールなどより、ずっと最適である。

 

「さて、これからどうしましょうか」

「僕にいい考えがあるよ、エレイン――」








 * *







 ブルーシュ島の最北西部にその国――カイト王国はある。ティンダル王国よりも少し寒いそこは、昔も大昔、魔法使いの国と呼ばれていた国だ。今もその名残があり、赤茶毛の人や、薄い緑の眼の人が多い。こんな片田舎は特に顕著で、10人いれば4人は赤茶毛か、薄い緑の目を持っている。下手したら、エムのいたバッチェ地方よりもずっと妖精に愛された人が多いのだという。


 そんな風土なためか、真っ赤な髪と濃い緑を持つエムを見ても、妖精様に愛されてるんだねえ、と言って笑って出来立ての黒パンを分けてくれる。


「エレイン、いるかい? 手紙が来た」

「ええ、いますよ」

 ダンダン、と家のドアを叩かれて、エレインは家のドアを開けた。

 ドアの向こうの白いひげを口にたくさん蓄えた老人が、麻の袋から、どさりと手紙の束をエレインに渡した。

 手紙を束ねている麻紐を解いて、エレインはその手紙を宛先ごとに仕分けていく。この村の識字率は低く、読めるのはエレイン達夫婦と、あとは東の端に住む老婆だけだ。


「私宛の手紙はあるかな、代筆屋さん」

「昨日娘さんに出したばかりでしょう、マット。 残念だけどまだ届いてもいないわ」

 郵便配達の老爺は仕分けるエレインに少し上ずった声で話しかけた。孫が生まれたという知らせをしてきた愛娘への手紙は、エレインが代わりに筆を執り、昨日、配達を彼に依頼したばかりだ。

「リズと、デーヴィットお爺さん、西の家のジェシカ、ロトさんに手紙が届いたと伝えてくれるかしら。あと、この3通はロージーお婆さんへ渡して」

「あいよ」

 マットは任せろ、という様にボロボロのキャスケットの鍔をグイ、と正してエレインの家を後にした。


 マットが出て行くのを見送って、エレインは金色の封ろうのついた一つの手紙を手に取った。

 代筆業を行う時に使う作業机に置いてあるペン立てから、ペーパーナイフをとり、封を開ける。

「エレイン、客人?」

「いいえ、マットお爺さんが手紙を届けに来てくれたのよ――エムこそ、お薬はもういいの?」

「30個ちゃんと作った――あの辺境伯、人使いが荒い」

 エムはそう言うと、眠たそうな顔のまま、作業椅子に座るエレインをぎゅっと抱きしめた。魔法を使って薬を調合すると、どうも気力がなくなり、寂しくなるのだという。

 本当かどうか魔法の使えないエレインは知らないが、甘えてくるエムが可愛いので、そのままにしている。

「誰から?」

「ロベルタ経由で、コーネリアからよ――ああ、彼女、子供が生まれたんですって、女の子だそうよ」

「へえ、めでたいね。」

「……まさか、友人の出産報告を聞けると思わなかった」

 エレインの一言に、エムは黙って彼女の髪と頬にキスをした。エレインは顔を傾けてそれに応えた。






 あの日から、既に4年が経過していた。


 ティンダル王国は未だに健在であり、リリスは王太子妃としてサミュエルの隣に立っている。

 本と違う所と言えば、クロムウェル公爵家は健在で、公爵令嬢は処刑されず、未だに修道院にいる事だろうか。


 ロベルタ曰く、修道院のヴィヴィアン・クロムウェルは、貴族社会に戻ることを良しとせず、生涯聖職に身を捧げることを決めているのだとか。


 あの国の中で、一番図太いのはマクラウドだろう。彼は謹慎が明ければ何事もなかったかのように将軍職に戻っており、そして気づいたらスチュート伯爵は宰相補佐の職を辞し、領地に引きこもってしまったのだという。


『シートン子爵も、思ったよりも幅を利かせられていないようです。サミュエル殿下がその台頭を良しと思わず、抑え込んでいるのだとか』


 ほんの数か月前にエレインの家を訪れた彼女は、相変わらず騎士のような姿勢と強い意志のこもった目で、エレインの淹れた紅茶を美味しそうに飲みながら、そう言っていた。


 今や、ローム大陸をまたにかける女宝石商になりつつあるロベルタは、たまにエレインの家を訪れては、お茶を飲みながら世情を話してくれたり、今回の様に手紙で教えてくれたりする。エレインの貴重な友達の一人である。

 その中には、コーネリアやデボラからの手紙もたまに届く。




「……エム」

「ん?」

「私ね、今すごく幸せよ。この街で、エレインとして生きて。とても幸せ」

「うん。愛してる、ヴィヴィアン」

 泣きそうな目をして、これ以上なく抱きしめるエムの耳元に、エレインはそっと唇を寄せた。

「私も愛しているわ、マーリン」

 




 カイト国の家は、小さい。一番大きい部屋のリビングだって、かつてヴィヴィアンだった頃の部屋よりずっと小さい。


 それでも、ヴィヴィアンは、エレインはここでは生きている。

 平民として。心から好きだと思える人と共に。明日に希望をもって。

 

 

 何があっても生き残る。エレインは公爵令嬢を脱ぎ捨てることで自分の生を手に入れたのである。




FIN.


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【完結済】アンブローズの花~私は絶対王妃になんてなりません!~ 梶村 薫 @kajimura_ka

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