第11話 キャベツの味


 歩いて直売所に行くのはいつ以来だろう。下手をすると半年以上前かもしれない。買い出しの時はいつも車で、平日の偵察以外は歩いて行くことがなくなっていたからだ。


 8月平日の炎天下、ひとり、遊歩道の入り口に足を踏み入れた。紫陽花の株はどれも皆、きれいに剪定されていて、枯れ残った花のひとつも見当たらない。今年はここの紫陽花が咲くところを見なかったと今更ながら気づく。

 最後に来た時は開花直前、つぼみが大きく膨らんでいた。あれから2ヶ月以上が過ぎてしまった。今ではセミが鳴いている。

 汗を拭きながら木陰のほとんどない遊歩道を歩く。曲がりくねった道の奥に、直売所のフェンスが見えた。営業中の時に出ていた赤い旗は、もう、ない。入り口脇の桜が大きな日陰を作っていて、その辺りだけ風が涼しく感じられた。


 中に入ると、びっくりするくらい物が無くなっていた。

 作業場の前に3列並んでいた陳列棚が、ない。奥に並んでいた農機具もほとんど見当たらない。座って作業していた椅子代わりの木箱も、積み上げられていたケース類も、入り口横に置かれていた野菜洗い用の大きなポリ容器も、長いホースも、何もかもきれいさっぱり姿を消している。

 ここ、こんなに広かったんだっけ。

 見知っているのに、知らない場所みたいにも見える。暑いのに、ぞわり、とした。


 作業場から女性が2人、出てきた。すれ違いざま、お互いに軽く会釈を交わす。中から

「ありがとねぇ」

 おかあさんの声が響いた。

 その声にホッとして、

「こんにちは」

 少し大きめに声をかけながら中に入った。

「ああ、久しぶり」

 笑顔のおかあさんが立っている。

「暑いですねえ」

「ほんと、ほんと」

 以前と変わることのない、他愛もない時候のあいさつ。でも、作業場の中もこの前よりさらに片付いていること、机の上におじさんの写真一式セットが置かれていること、これだけで、全てが変わってしまったことを突きつけられる。

 それでも私たちは笑顔で話をする。以前と何も変わらない口調で、以前ならしなかったような話を、この暑い真夏の昼間、二人っきりで2時間以上。


 笑って、笑って、わずかに涙ぐむ。

 昔話、近頃の話、これからの話。2人のなれそめ、農家になったいきさつ、入院するまでの経緯と亡くなるまでの詳細……。初めて聞く話はどれも皆、びっくりするようなことばかりで、それこそドラマのようだった。

 書けばどれだけでもまだ書けそうな話の数々。でも、ここで記すのは、2人が駆け落ちして結婚したことと、おかあさんが年老いた両親の世話に追われるようになったのを見かねて定年の一年前におじさんが農家に転身したこと、だけにしておこうと思う。

 仲がよかった2人は、本当にとびっきりの仲だったのだ。


 気付けばおかあさんの帰りのバスの時間が迫っていた。慌ただしく身支度を整えたおかあさんと一緒に直売所を後にする。おかあさんがひとりで門に鍵をかけた。初めて見るその光景からそそくさと目を背け、2人で歩き出す。

 遊歩道を並んで歩きながら、そういえば、と口にした。

「ダンナさんに先立たれた奥さんは皆、あっという間にきれいになる、って言ってましたよね?」

 遊歩道を歩く知人たちがね、と以前、おかあさんがしてくれた話だ。反対に奥さんに先に逝かれたダンナさんはすすけて見えるとも言って、2人で散々笑った話だ。

「そうそう。ホントだったのよ」

「今日、おかあさんがすっごくキレイになってたらどうしよう、って思いながら来たんですよ」

「で、どう?」

「いや、変わらないですね。っていうか、前より疲れて見えますけど?」

「だってホントに疲れてるからね」

「キレイになるには、まだまだ、ですねえ」

「なれるのかしらねえ?」

「それは、ちょっと。どうでしょう?」

 今日も変わらず、2人で笑う。

 遊歩道の入り口の少し先にあるバス停までそんなおしゃべりしながら歩き、一緒にバスを待った。

 1日に4便しかないそのバスに乗り込む時、おかあさんは「またね」ではなく「ありがとうね」と言った。私も「こちらこそ」と答えた。

 バスの中からおかあさんが手を振る。横断歩道を渡りながら手を振り返す。バスは停留所にしばらく停まっていた。走り出すのを見届けずに、道路を渡った先の脇道を折れた。道路を行き交う車の音が背後で小さくなった。



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 今年は梅雨時からずっと野菜が高い。比較的お買い得なはずのキャベツも、だ。値段を見比べて割安な時に買ってくるけれど、それでも例年よりずい分、高い。高いのに、不作なのが分かっているから味に文句も言えない。どれも、おじさんのキャベツみたいに今ひとつなんだよなあ、などと苦笑するくらいがいいところだ。


 ある日、勉強の息抜きにお茶を飲みにきた次男が、唐突に口にした。

「オレ、キャベツって好きなんだよなあ」

 キャベツを食べていたわけでも目にしたわけでもない彼の突然の言葉に驚きつつ、平静を装って答える。

「まあ、春キャベツは美味しいよねえ。ふだんの硬めのはともかくとして」

「え?ふつうのも美味しいよ」

 次男は好き嫌いが多い。ナスもきのこ類も口にしないし、みょうがやゆずなどの香味系も嫌がる。それでいえばキャベツはクセがないからなあ、と思っていると

「だってさ、煮込んでも炒めても美味いじゃん」

 ああ、ラーメンの話、かな?次男はラーメン好きだ。

「生でも、チンしてもいいしね」

 顔色を窺いながら口にすると、うん、と素直に頷いた。

 どうやら本当に好き、らしい。

「どうやって食べても美味しいって、いいよね」

 お菓子を食べながら野菜、それもキャベツの話をする次男が、とても不思議だった。こんな話、今までしたことあったっけ?

 心の中で首をひねる。

 同時に、心の中で「おじさん、」と呼びかける。

「うちの子、キャベツが好きなんですって」と。


 今の、聞きましたか?

 特別に甘くて柔らかい春キャベツだけでなく、ふつうのキャベツでも好きなんですって。

 最後に買った、あのキャベツ。見た目通りやっぱり固くて、生で食べるのには今ひとつだった、あのキャベツ。あれが最後っていうのが、おじさんらしいと言えば、らしい、キャベツ。多分、あれでもこの子はいいみたいですよ?

 おじさんのところで色んな野菜、買ったけど、もしかしたらキャベツが一番、多かったかもしれない。

 今までたくさんの野菜、ありがとうございました。

 お礼なんて何もできないから、もしかしたらこの子が代わりに言ってくれたのかもしれないです。

 キャベツが好き、って。

 この子たちにはおじさんのこと、何一つ話なんてしてません。

 だから、お世辞なんかじゃないですよ。

 本当に彼の気持ちなんですよ。

 親の私も今、初めて聞いた話なんですから、ね。

 聞こえましたか、おじさん?



 次男はさらっとキャベツの話をすると、あっさりと模試の話に移った。こちらも何事もなかったように、移った話に相槌を打った。


 キャベツの話はその時限りで、それから一切、出ていない。



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キャベツの味 満つる @ara_ara50

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