後編


 萌える緑の葉の隙間から、僅かに桜の花が覗いている。今年の葉桜を端的に示すのなら、そのような表現になるだろう。

 去年よりも桜の開花が早かったためか、花は殆ど散ってしまっている。その代わり、葉の茂りに勢いがあって、これから来る夏の気配を色濃く示していた。


「秋田先生」


 ざわざわとさざめく木々の音に耳を澄ましていると、右側から突然名前を呼ばれた。

 だけど、その相手をここに呼び出したのは僕自身なので、今回は自然な笑顔を彼女に向けた。


「春川さん」

「どうしたんですか、急に呼び出して」


 制服姿の桜子は、戸惑いを見せながら歩み寄ってくる。三年生になった彼女は、去年よりも身長と髪が少し伸びていた。

 僕は彼女に、自分の座っていたベンチの開いている方へ座るように促した。腰を下ろした桜子に、受験生で忙しいのにごめんねと断る。


「いえ、話がしたいと場所を指定したのは先生でしたが、この日時をお願いしたのは私の方ですから、気にしないでください」

「それもそうだね」


 あまりにしっかりとした受け答えに、苦笑してしまう。進学によってクラスは変わったが、こういうところは変わらないのだと安心する気持ちもあった。

 改めて振り返ると、桜子とこうして二人きりで話すのは去年のこの公園で会った時以来だった。突然呼び出された理由は話していないため、その緊張も加わって、桜子の様子はぎこちない。

 そのため、僕はあの時の会話の続きを始めた。


「去年はここで、『葉桜と魔笛』の話をしたよね」

「ええ。結局先生は、口笛を吹いていたのが父親かどうかの話をしませんでしたね」

「……まあ、そうだったね」


 桜子の微笑が悪戯をするようなものに変わり、僕の痛いところを的確に突いてくる。確かに、あの授業の最後は「ラストシーンの解釈はみなさんにお任せします」というものなので、桜子のような本が好きな子たちからは不興を買っていた。

 ただ、僕には僕なりに、そのように授業を締めくくった理由がある。弁明するように、それを桜子に説明し始めた。


「実を言えば、僕はあの口笛の正体を、重要視していないし追求したいとも思っていないんだ」

「え、そうなんですか」

「うん。大切なのは、口笛を聴いた時は神さまのおぼしめしだと思っていた姉が、どうして後々にあれは父が吹いていたのではないかと疑うようになったのかというところじゃないかな」

「なるほど……確かに、語っている時点で老婦人ですから、二十歳の頃から長い年月が経っていますね」

「そう。妹の臨終、自身の結婚、父親の死、そういう人生の転換期をいくつも乗り越えていく内に、『神さまのおぼしめし』に対して疑いを持つようになった。それでも、自身の信仰心が薄くなったと言って、あの奇跡を信じようとしている揺らぎがある」

「語られていないだけで、姉にも色んな出来事があったんですね」


 桜子は、俯いて鼻の頭を左手で触りながら、じっと考え込んでいる。

 その一言に大きく頷いて、僕は続けた。


「物語の外側にも、人生がある。語られている、あるいは描かれている部分だけが全てじゃないんだ」

「……そうなると、姉だけではなく、妹や父の目線の物語もあるということではないでしょうか?」

「うん。そうだよ。僕たちは姉の視点しか知らないけれど、『葉桜と魔笛』が多角的な視点で成り立っているとも言える」

「なんだか、もう一度読みたくなりました」

「まるで授業みたいになっちゃったけれどね」


 僕たちは顔を見合わせて笑い合う。温かな風が吹いてきて、このまま話を終えてしまいたいけれど、本題はまだ残っている。

 ひと段落ついたところで、僕は改めて、桜子に切り出した。


「……実は、今日呼び出したのは、この話がしたかったわけじゃないんだ」

「え? あ、そうでしたか?」


 桜子はきょとんと眼を瞬かせた。先ほどまでの話で、自分がここに呼び出されていたことを失念していたようだ。

 僕は頭で何度も繰り返した言葉を発しようと口を開く。掌は強く握られていて、内側が汗で湿っていた。


「去年、君は自分に姉がいるのかもしれないと話していたね」

「……はい、そういう話をしました」


 鸚鵡のように僕の言葉を繰り返す桜子の瞳が翳るのを、僕は見落とさなかった。

 しかし、それを確認した後でも、自身の言葉が滑り落ちるのを止められなかった。


「その時は言えなかったけれど、僕は君とよく似た女性を知っていたんだ」

「え? そうなんですか?」


 大きく見開かれた桜子の眼には、疑問が渦巻いている。その中に、喜びと期待とが、一瞬だけ煌めいていた。

 僕は頷き、乾いた口の中を無視しながら話す。


「去年、確認したところ、彼女は君の実の姉だった」

「……」


 耳の痛いほどの沈黙が流れた。桜子は、困惑と混迷の谷に落ちてしまい、僕から目を逸らすことしかできなかった。


「彼女は、母親と、何年も話をしていない父親とも相談して、君と会っていいという承諾を得た」

「……お姉ちゃんは、ここに来ているのですか?」


 いつの日かのように靴のつま先を眺めながら、桜子が尋ねる。

 それに対して、僕は正直に首を横に振った。


「彼女は今、ここから遠い所に住んでいるから、来ていない。だけど、電話番号を聞いてきた」


 僕は自分の手帳から、皐月さんの電話番号だけが書かれたメモ用紙を取り出した。

 桜子は、それを無言で受け取る。じっとメモに書かれた十一桁の数字と二つのハイフン以上のものを、そこから読み取るかのように見つめていた。


「電話はいつかけてもいいと言っていた。君の決心が固まった後でも」

「……私は、」


 溜息と見分けがつかないほど、弱々しく桜子が呟いた。声もメモを握る両手も、小さく震えている。

 途切れた言葉の先を、僕は無言で待っていた。揺れる彼女の決断を、見届けなければならないと思っていた。


「……私は、お姉ちゃんのことを殆ど、いえ、全く覚えていません。それでも、会おうとしてもいいのでしょうか」

「そういうのはきっと、気にしなくてもいいことだよ。ゼロからでも、新しい関係を作っていくことは可能だから」


 僕は敢えてそう断定した。願望に近い希望的観測だったが、桜子が求めていたのはそういう曖昧なものではないのだろう。

 桜子は、ぎゅっとメモを強く握った。体の震えは止まっているのを確認してから、僕はベンチから立ち上がる。


「僕に言えるのはそれくらいだから、そろそろ行くよ」

「先生」


 立ち去ろうとしたところを呼び止められて、僕は振り返る。

 桜子はこちらを向いて立ち上がり、深々と頭を下げた。


「ありがとうございました」

「どういたしまして」


 僕も彼女に対してお辞儀をした。顔を上げた桜子は、泣き出しそうな顔だけど確かに笑っていた。

 そのまま、公園の出口に向かって遊歩道上を歩き出す。一度だけベンチを見ると、桜子は自分のスマホを耳に当てていた。


 電話が取られたのだろう。こちらまで声は届かなくても、桜子の蕾がほどけたような笑顔でなんとなく分かる。

 それを見守る桜の木々の葉は青々としていて、梢が祝福をささやくように揺れていた。






   △






秋田葉太先生へ


 お久しぶりです。先生のお陰で、無事に卒業の日を迎えることができました。


 現在、私は姉と母と、よく連絡を取っています。父も、自分が意固地になりすぎて、私に何も教えていなかったことを反省して、このことについては何も言いません。

 姉と母とは、その後何度か会いました。父はまだ会いたくないとは言っていますが、近々私の大学入学のパーティーをしようと、みんなで計画を立てています。さすがに父も、こういうおめでたい席では怒らないだろうと、姉が悪戯っぽく言っていました。


 そういえば、先生は姉のことを知り合いだと言っていましたね。実は元恋人だったことを、姉と初めて会った時に教えられました。

 まさか嘘をついていたとはと驚いて、先生の気にしすぎなところに笑っちゃいました。姉も、「葉太君は変わらないね」と一緒に笑いました。


 先生が仰っていた通り、私と姉は、これまで離れていた時間を取り戻すかのように、どんどん仲良くなっています。姉は相談を聞いてくれたり、受験で不安になっている私を励ましてくれたりしてくれて、とても優しいです。

 夏休みに、姉のお店にも行ってみました。いい雰囲気のカフェでしたよ。「葉太君にも来てほしい」と姉は言っていましたが、冗談半分なのかもしれません。


 時々、先生が葉桜の下で言ってくれたことを思い出します。「物語の外側にも人生がある」、その一言に、私は何度も救われる思いがしました。

 父が、姉と母のことを何も言わなかったことには、怒りを感じますが、父には父の葛藤があったのだと思うと、責めるのは間違っているように思います。父と私の関係が崩れなかったのは、あの言葉のお陰なのでしょう。


 姉と母にも、私の知らない人生があります。『葉桜と魔笛』の結末に正解がないように、全てを知ろうとしなくていいのだと思えば、気が楽になりました。

 私たち家族は、客観的に見ると絶妙なバランスで成り立っているのでしょう。それでも、新しい繋がりを作り続けることが出来るのだと信じています。


 姉に、木ノ内公園の葉桜の話をすると、見に行きたいと言っていました。

 今年の葉桜は、姉と一緒に見ようと思います。


                                 春川桜子






   △






 卒業式が終わった後に桜子から渡された手紙を読んで、僕は空を見上げた。みんなが口々に、晴れて良かったと褒めた青空を覆うように、まだ蕾の状態の桜の木が伸びている。

 今日の木ノ内公園も、人がいなくて良かったと、ベンチの背もたれに体を預けながら思う。


 桜子と皐月さんの姉妹を再び引き合わせたことは、良かったことなのかどうかを悩む日が時々あった。勝手に家族の問題に口出しするのは、一教師としてはやりすぎだったのではないかと後悔していた。

 しかし、桜子に直接その後を確認することは憚られて、ずっとそのままにしていた。こうして手紙をもらわなければ、何も分からなかっただろう。


 手紙を読み終えて、僕の心はどちらかというと安堵の気持ちの割合が大きかった。確かに、桜子と皐月さんたちの家族の関係は危ういけれど、前向きに進もうとしていることは十分に伝わった。

 これからのことを、きっと僕は知ることができないだろう。姉妹の人生から、僕はすでに退場した身だから、想像するしかできない。


 ――五月の葉桜の下を、一組の姉妹が歩いていく。花弁が舞う遊歩道の上を、木に咲いた小さな花を指さして笑い合いながら。

 春の気配を蕾から感じ取りながら、僕は二人の未来に思いを馳せた。



















  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

葉桜の君に 夢月七海 @yumetuki-773

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ