第45話 実行する者と傍観する者

 鬱蒼うっそうたる樹々が、葉擦れの音すら控えて見守っていた。

 ナズナの瞳からは、溢れ出る涙が途切れる事なく頬を伝い落ちていく。

 その隣でギンタは前を見据え、不快さをありありと纏っている。


「時間の問題だな、手遅れだ」


 静寂を破り、ギンタの口から残酷な一言が告げられた。

 二人の視線の先で、一本の大樹に妖精だったものが打ち付けられている。

 

 十字を描く五体の妖精。上下左右の四体は既に事切れているのだろう。力なく四肢を投げ出しこうべを垂れている。

 唯一、その身を光に包む中心の一体も、その光は揺らぎ、いつ消えてもおかしくない。

 ギンタの言った通り、残された時間が少ない事を物語っていた。


「おい、止まれ。んだろ」


よ、苦しそうにしているのが。だから助けなきゃ」


 ナズナの歩みは止まらない。

 ギンタは舌打ちすると「もう知らん」とばかりに顔を背けてしまった。

 苛立つのは、単に答えをすり替えられたからだけではない。

 強い意志を灯した、あの目をしたナズナは止められない――それがわかっているギンタは、自分の内に湧く不可解な感情に苛立っていた。

 

 大樹の周囲には、遠巻きに幾つもの光が浮かんでいる。

 惨い仕打ちに曝された仲間をどうする事も出来ず、唯々、息絶えていく仲間を見つめる事しか出来なかった妖精達だ。

 

 その黒い霧は薄暗い森の中にあって、見るからに禍々しく立ち込めている。

 妖精を樹に縫い止める、小さな胸に打ち込まれた杭から吐き出されるそれは、今まさに堕ちようとしている妖精の怨念を糧に生まれている。

 触れればむしばまれ、その者も堕ちてしまう為に、助けたくとも近付く事すら出来ない。

 それは妖精に限った話ではない。生きた者であれば僅かな時間で気が狂い、正気を保っていられなくなる。

 そこへ躊躇なく足を進めるナズナに、敵意剥き出しの視線を向けていた妖精達も戸惑いを隠せないでいた。


「っ!!!!!」


 黒い霧に踏み入った瞬間、ナズナの歩みが止まった。

 額には大粒の汗が幾つも浮かび、普段大きな瞳も今は険しく細められている。

 黒い霧に溶け込んだ、妖精の負の感情が流れ込んできたのだ。


「ごめんね、でも絶対にあなたを助けるからっ」


 今にも泣きだしそうなくしゃくしゃな顔で、それでも決して瞳は逸らさず、一歩、一歩、強烈な向かい風の中を進むようにして近付いていく。

 ナズナが一歩足を進める度に、ぽたぽたっと、汗とも涙ともわからない滴が地面に染みを作っていた。


「ごめんね、苦しいよね。もうちょっとだけ、頑張ってっ」


 どうにか辿り着いたナズナが、杭を引き抜こうと力を込めた途端、それまで項垂れていただけの妖精が、弾かれたように怨嗟えんさの叫びを上げた。

 呼応してどす黒さを増した黒い霧が、意思を持っているかのようにナズナへと押し寄せた。

 食い縛った口から苦痛の声が漏れるが、それでも、掴んだ杭は離さない。

 ナズナは杭を握る手に力を込め直す。


「頑張って! こんなのに負けないで!」


 ズズッ、ズズッ、ズズズッ。

 少しづつ抜け出る杭。

 妖精とナズナ、どちらのものともはっきりしない混じりあった叫喚の果てに――ついに杭が引き抜かれた。

 精魂尽きたのか、ナズナは大樹にしなだれかかるようにして腰を下ろした。


「ごめんね、本当に、ごめんね」


 両手に乗せた妖精に謝る声は、途切れ途切れで震えていた。

 妖精は意識が無いのか、或いは力尽きたのか、瞳を閉じたまま動かない。

 ナズナの頬を伝った涙が、穴の開いた妖精の体に落ちては弾け、染み入るように消えていく。


「いつもながら無茶をする奴だ」


 やってきたギンタが他の妖精を杭から解放すると、光の粒子へと形を変え、大気に溶けていった。


「信じられません。あの濁った魔素、怨素とでも言いましょうか、あれには我々でさえ短時間で影響を受けるというのに。まして人間如きの娘が、正常な状態を保っていられるとは」


 いつの間にやら、姿がはっきりと確認できる距離まで妖精達が近付いていた。

 黒い霧がまさしく霧散した為に近寄れたのだろう。

 ギンタに話しかけてきたのは、その中でも一際凛とした光を放つ妖精だった。


「お初にお目にかかります、観察者ムヨク様。この森の妖精族の長、ダルメシアと申します。先ずは身内の不始末をお詫び致します」


「詫びなど必要ない。今のオレ様は、そのように呼ばれる存在ではないからな」


「承知致しました。しかし、あなた様の従者に、身内を救って頂いた事に変わりはありません。堕落に至る葛藤は、想像を絶する苦痛をともなうと聞きます。そこから解放されて最期を迎えられたのです、それだけでもあの子は救われたでしょう。心からお礼を申し上げます」


「それも必要ない。救われたと思うなら、それを成したのはあいつだ。礼を言いたいならナズナに言え。それと、あいつは従者ではない……召喚主だ」


「えっ!?」


 最後の言葉をあからさまに渋々告げたギンタと、手の上で動かない妖精に、今も涙し続けるナズナ、ダルメシアはその二人の間で交互に視線を彷徨わせた。

 その表情は驚愕と困惑、それと少しばかりの憐憫が混ざり、どうにも表現し難いものとなっている。


「えーっと、その、何と申しましょうか……ご愁傷様、です?」


 言葉に迷った末のダルメシアの一言に、ギンタのこめかみが二度、三度と脈を打った。

 その様子に気付いたダルメシアは、おろおろと助けを求めて周りに目を向ける。

 信じられない事に――他の妖精達はすっかり姿を消していた。


「なっ!」


 見捨てられるといった酷い仕打ちに、ダルメシアは小さな体を震わせる。

 仲間への怒りからなのか、それとも、剣呑な目で睨みつけてくるギンタへの恐怖心からくる震えなのか。

 このままでは彼女が堕ちてしまうのではないか、と思われたその時。

 そんな彼女を小さな呟きが救う。


「う、ぅうー、なに? 雨?」


 涙に暮れるナズナの手の上で、もぞもぞと起きた妖精が寝ぼけた様子で目もとをこすっていた。


「ロリス!? あなたっ、生きているのですか!?」


「ん? あれ、ダルメシア様、おはようございます。いやですよ、勝手に殺さないでほしいです」


「そんな……あの禍々しい怨素、あなたは確かに堕落して……それにあの傷……」


「堕落? あー、そういえばそうだったのです。私、人間に捕まって杭で打ち付けられて。それですんごい痛かったから人間なんて滅ぼしてやるーって。あれ、ダルメシア様? 杭が抜けてるけど、体に穴が開いてないのですっ」


「どういう……事?」


 ロリスは自分の胸や背中を何度も見たり触ったりしている。

 確かに、ロリスの体に傷は見られない。衣服にだけ、ぽっかりと穴が開いていた。

 ダルメシアは、すぐに思い当たりギンタへと顔を向けた。

 だが意外な事にその首は横に振られ、さらに驚いた事には、ギンタは顎でナズナを指し示したのだ。


「そんなっ、人間の娘が? どうやって……」


「ぎゃぁああああああ!!!!!! ダルメシア様ぁああああっ」


「どっ、どうしたの!? どこか痛いのっ?」


 思考の淵へと意識を沈めかけていたダルメシアを、ロリスの叫び声が一気に引き戻した。


「ぺっ、ぺったんこに、私の胸がぺったんこになっているのですっ!!」


「えっ」


「それだけじゃないのですっ! 肌が、肌の色がなんか茶色く……これって妖魔と同じっ……わた、わた、わたわたわたしっ、もしかしてもしかするともしかしなくっても堕ちちゃったですか!?」


 ロリスは完全に気が動転して右往左往し、仕舞いには泣き出してしまった。

 手の上で繰り広げられる寸劇に、ナズナは目を白黒させて見入っていた。


「ロリス、落ち着きなさい、ロリッ!!」


「はっ、はいです、ダルメシア様。でもぉ」


「大丈夫です。意識をしっかりと保てているなら問題ありません。肌の色は堕ちた状態で定着してしまっていますが。それから、妖精族の胸は元からぺったんこです。それはもう清々しいまでにぺったんこです」


「そんなぁ」


「ロリス、あまり気に病まないで。もしかしたら、そのうち戻るかもしれないから」


「でも、でも戻ってもぺったんこなら一緒じゃないですかぁ」


「……そっちじゃないです。それよりもロリス、先程からずーっと手の上にあなたを乗せている人間、失礼しました、ナズナさんにお礼を言いなさい。あなたを救ってくれたのは、そのお方ですよ」


「えっ、にっ、人間?」


 ようやくナズナの存在に気付いたロリスが、ぎこちない動きで見上げて視線を交わした。

 かたかたと震えだしたルリファの顔から、さっと血の気が引いた。

 無理もない。いくら恩人と言われた所で、自分を堕落するまで追い詰めた人族である事に変わりはない。

 強烈なトラウマとして心に刻み込まれてしまったのだろう。


「いえ、ボクが勝手にやっただけだから気にしないで」


 心中を察したナズナが、申し訳なさそうに俯いた直後、


「ぎゃぁああああああ!!!!!! おっぱいお化けぇえええええ!!!!!!」


 ナダルの森の深層に、ロリスの絶叫が木霊こだました。

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