第20話 桃源郷

 湖畔の街――水の都、エスターク。


 途切れることなく右に左に行き交う人々、その足を止めようと張り上げられる店主の口上。そこかしこで、客と店側との熾烈な交渉が熱を帯びている。

 まるで、祭りでももよおされているのかと思うほどの賑やかさだ。

 街の規模をはるかに上回る、人出と活気に満ち溢れた光景は、ここが大陸でも評判の保養地である事を物語っている。


 大通りを抜ける馬車の中で、そわそわと落ち着かないナズナたち。

 街の陽気にあてられ、旅の疲れも吹き飛んだようだ。

 今すぐにでも馬車を下りて、喧騒の中へと飛び込みたい――どの顔も、考えている事がありありと表れている。

 

 そうこうしている内に、一軒の宿屋の前で馬車が止まった。

 帰りも護衛する手筈となっているセビージャたちは、ここで一旦別行動となる。

 出発の日時を確認すると、彼らは英気を養いに、さっそく街へと繰り出していった。




 係りの者によって馬車が移動され、残されたナズナたちがたたずんでいる。


「ナズナ、本当にここで良いんだよな?」


「そう……だと思うんだけど」


「「「……」」」


 意匠を凝らした真鍮しんちゅうの取っ手を備え、どっしりと構えてみせる木製の扉を前に、立ち並ぶ面々は沈黙するしかなかった。

 見上げれば、いかにも高級宿といった建物がそびえ立っている。


「さぁ、入りましょう」


 そんな中、全く意に介さない様子でシシリアが取っ手に手をかける。

 扉が、相応しい重低音を響かせた。

 

「さすがです、お嬢」


 感心というよりも、納得といった様子のライアルの言葉に、ナズナもしきりに頷いている。

 シシリア本人の憂いをよそに、ナズナの中ではシシリアの格好良さレベルが、ランクアップの音を高らかに鳴らしていたりする。




「ナズナ様でいらっしゃいますか? お待ちしておりました」


 中に入ると、紳士然といった老齢の男が声を掛けてきた。

 稀有な召喚獣を抱いている事で、ナズナと当たりを付けたようだ。


「この宿の支配人を務めさせて頂いております、ヨゼフと申します」


「は、初めまして、ナズナと申します。えっと、その……ビヨルドさんにご招待頂きまして……」


「そんなにかしこまって頂かなくても大丈夫ですよ。ビヨルド様から大切なお客様だと、申し付かっておりますので」


 格式ばった身のこなしとは対照的な、にこりと笑みを浮かべたヨゼフの柔らかな物腰に、高級宿の雰囲気に萎縮していたナズナはほっと胸を撫で下ろす。


「はい、ありがとうございます。お世話になります」


「お部屋は二部屋、ご用意させて頂いております。まずはお部屋で一息入れられてから、当宿自慢の大浴場にて、旅の疲れをお取り頂くのがよろしいかと。何か御用がございましたら、係りの者に何なりとお申し付けください」


 そう言うとヨゼフは、ナズナたちがつられるほど流麗な所作でお辞儀をしてみせた。



 ☆



「広い……」


「そうですね」


「ベッドがふかふかだよ?」


「そうですね。私、こちらのベッドを使わせてもらってもよろしいでしょうか?」


「どうぞどうぞ……」


 部屋の広さ、調度品の豪華さにナズナは純粋に驚き、貴族の娘ではあるものの決して裕福とは言ないメグは、密かに目を見張っていた。

 そしてやはり淡々としているシシリアに、ナズナは感心した様子で尋ねていた。


「シシリアは驚かないんだね?」


「ここまで来たら、一々驚いていても仕方がありませんよ。そんな事よりも、早く大浴場に参りましょう」


「そうかもだけどさぁ、ボクなんて驚くのに疲れちゃったよ。はぁ、お風呂、いこっか」



 ☆



 大浴場には趣向をこらした浴槽が五つあり、どれも一度に十人くらいは寛げる広さがあった。

 

「ギンタも一緒に入れる浴槽があるみたいだから、ボクはそこに入ってくるけど――」


「私も行くわ」


 前のめりに宣言したメグにナズナは頷き、シシリアへと顔を向ける。


「シシリアはどうする?」


「私は、打ち身や疲労回復に効くというお湯に。浴槽ごとにお湯の効能も違うみたいですよ。後でそちらに伺いますね」


「そっか、訓練でも大変そうだもんね。それじゃ、後でね」


「はい」




 召喚獣と一緒に入れる浴槽は、中央に彫刻が配置された円い形の浴槽であった。

 

「ふぁああ、気持ち良い」


「ほんとねぇ」


「ぐぅぇえええ」


 ナズナとメグは並んで湯に浸かり、体の芯から温められるような感覚に感嘆の声をあげた。

 ちなみにギンタは、ナズナに抱き抱えられた状態で気持ち良さそうにしている。


「わっ、ちょっと待って、ギンタ!?」


 しばらくすると、それまで大人しく抱かれていたギンタが急に暴れ出し、ナズナの腕からすり抜けてしまった。

 意外にもギンタはすいすいと泳ぎ、中央にある彫刻の台座によじ登った。


 ギンタは台座に据えられたドラゴンの彫刻と睨み合っている。

 右から睨み、左に回って睨み、正面に戻って睨む。

 何に満足したのか、ギンタは胸を反らして勝ち誇ったような顔をした。


 ――瞬間、ドラゴンの口から勢いよくお湯が噴き出し、台座からギンタを押し流した。

 

「ギンタっ!」


 浴槽に落ちて沈んだギンタが、背中からぷかりと浮かび上がった。

 くるり、と仰向けに反転する。

 その口から、今しがた彫刻のドラゴンがしたように、ぴゅーっとお湯を噴き出した。


「「あははははっ」」


 ナズナとメグの笑い声が浴場に響く。

 ギンタはバツが悪いのか、そのままぷかぷかと浮いている。


「どうしました?」


「あ、シシリア。いらっしゃい」


 不思議そうな顔で二人に声を掛けたシシリアが、ナズナの隣にそっと浸かった。


「そっちのお湯はどうだった?」


「良かったですよ。ちょっとぬるりとした感じのお湯で、痛むところが随分と楽になりました。それと、何だか肌がスベスベになった気がします」


「そっかー、それは良かったね」


 返事をしつつ、ナズナの視線はついついシシリアの体にいっていた。

 普段から相当鍛えているのが見て分かる。余計な肉は付かず、かと言って筋肉質という訳でもなく、女性らしい柔らかさとしなやかさを兼ね備えた印象。

 ナズナからしてみれば、ちょっと、いや、かなり羨ましい体つきだ。

 メグも思う所があったのか、自分の二の腕を摘まんで、げんなりした顔をしている。


「ナズナも入ってきたらどうですか?」


「痩せるかな?」


 ナズナは思わず口走っていた。

 そんな効能のお湯が有ったら、とっくに堀りつくされて枯れているだろう。


「流石にそれは無いですけど、肩凝りにも効くみたいですよ」


「そうなの!? あれ、なんでボクが肩凝りに悩んでいるのを?」


「それは……それほど立派なものを抱えておいでですから、ねぇ」


 シシリアは、にこりと微笑んでナズナの胸へと視線を送る。

 そこには薄紅色に染まった桃が二つ、湯に浮かんでいた。


「まさか、こんな近くに桃源郷があったとは……ナズナ、一つ収穫させてもらっても良いかな? 良いよね?」


 まじまじと見つめるメグは、一つと言いながらも左右の手をそれぞれの桃にロックオンさせている。

 その手は獲物の大きさ、柔らかさを量るように妖しくうごめいていた。


「メグっ!? もうっ、何言ってるのっ!」


 ナズナは両腕で胸を護り、口元までお湯に浸かった。

 いにしえの超大国が、海底に沈んだ逸話が思い起こされる。


「そう言えばメグさん、泡で刺激されて胸が大きくなると噂のお湯もありましたよ」


「なん……ですと?」


 シシリアのもたらした情報に、メグは発育不足が悩ましい自家栽培の桃に視線を落とす。


「行ってくる」


 顔を上げたメグは、戦場にでも向かうような悲壮感を漂わせて出ていった。

 何となく、シシリアがメグを手玉に取ったように思えてならないナズナは、ちらりと視線を向ける。


「彼、大丈夫ですか?」


 そのシシリアの視線は、ギンタに向けられていた。

 ギンタは尻尾を動かすことで少しずつ移動して、遊泳を楽しんでいるようだ。


「うん、大丈夫でしょ」


 あの時の、少年姿のギンタを指して、シシリアは【彼】と言っているのだろうか。


「気を付けて下さいね」


「えっ、うん。ありがとう?」


 この時のナズナは、シシリアが何に気を付けろと言っているのか分からなかった。

 蜘蛛の糸は張りめぐらされ、獲物はすでに誘い込まれていたというのに――。

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