猫とウクレレ

小山らみ

猫とウクレレ


 初夏。晴天。昼ごはんの後、一階の広い窓を開け外気に触れる。いい気持ち。静かだ。猫の額ほどの庭を挟んでブロック塀が、外界とこちらを隔てている。

 テレビもラジオもインターネットもオフ、居間に一人座り猫を撫でる。ここは今日も平穏、ありがたいことだ。そんな風に思うことが多くなった。年齢のせいだろうか。猫が身じろぎする、でも、おとなしいものだ。この子も年を取った。そして私も。

 もの思いに沈みかけた時、かすかな音が近づいてくるのに気づく。ウクレレと歌声、聞き覚えのある節。

 あーんあぁやんなっちゃった、あーんあぁおどろいた♪

 子供のころテレビで観ていた大正テレビ寄席、司会の牧伸二がウクレレ漫談をするときに歌っていた、あの歌。

 あーんあぁやんなっちゃった、あーんあぁおどろいた♪

 静かな昼下がりの小さなおどろき。軽快なウクレレの響きに伴われているせいか、明るい胸騒ぎがする。

 ウクレレを弾きながら道を歩いてくる人物、その声からして男性であろう。牧伸二よりさらに軽みのある歌声だが。

 窓の際に寄って伸びあがり塀の向こうをのぞこうという気にはならなかった。道を通る見知らぬ者にこちらを意識されたくはない。風変わりで楽しそうな人がいる、それだけで済ませたい。

 ウクレレを鳴らしながら歌声は近づき、そして。

 開いた窓に面したブロック塀の向こうで、その男は足を止めた。

 今、塀を隔てて、自分の正面に風変わりな男が立っている。

 向こうに自分がここにいることを気づかれたのか。猫を撫でる手が止まり、猫も動きを止めた。

 少し間を置いて、塀の向こうから声がした。

「アタシは、晴れた昼間に出歩くウクレレ流しです。お邪魔してますでしょうか?」

 沈黙。でも、ウクレレ流し、という、なさそでありそな自己紹介に、胸がかすかにときめく。

 少しの間の後、また塀の向こうから男が話しかけてきた。

「ウクレレ流しですので、何かリクエストがあれば、歌わせていただきます。何かありますか?」

 どうしよう。なぜか、いてもたってもいられなくなった。チャンスを逃したくない。

 「待って!」

 声を上げ、立ち上がり、あわててメモをし、そのメモを猫の首輪にセロテープで貼り付けた。

「ネコさん、おねがい」

 狭い庭にメモを背負わせた猫を放つ。猫は塀を乗り越え向こう側に消え、そしてまた塀を越えて戻ってきた。帰ってきた猫の背、貼り付けたメモは消えていた。

「中条きよし「うそ」」

 メモを男が読み上げる。

「中条きよし。この世には、あんな男もいるんですよねぇ。一晩でいいから中条きよしになってみたい、そう思ったことがアタシにもありましたよ。では、そんな夢を叶えるように、うそを歌わしていただきます」

 ウクレレでイントロが奏でられ、ウクレレ流しのうそが始まった。軽快なウクレレと明るい歌声。中条きよしのうそを聞くと、束の間、薄紫色の灯りがこもるナイトクラブで、粋な身なりでしんみり酒を飲んでいる、そんな気になったりするのだが、ウクレレ流しのうそはどこまでも明るい陽光と溶け合って、シャンパンの気泡をぼんやり見ているような気分にさせられる。うそが、明るい空に広がっていく、シャンパン色の明るいうそが。

 ナイトクラブに行ったこともなければシャンパンを飲んだこともないのに、歌は、そう思うことを許してくれる、歌を聴いている時だけは。

 歌が終わった。そして、また声。

「いかがでしたか。もし、楽しんでいただけたのなら、そのお気持ちをいただければ、と」

 ハッとして、またあわて、千円札を先ほどのメモと同じように猫に背負わせると、猫は無難に使いを果たした。

「楽しんでいただけたようで、よかった、ありがとうございました。それではまた、ご縁がありましたら、そのときに」

 再びリズミカルにウクレレが鳴り出し、あーんあぁやんなっちゃった♪ が、塀の向こうを遠ざかっていった。

 千円札。適当だったのかどうか分からないが、何も文句を言われなかったし、無事通過したのだ。普段と変わらぬ室内を見回して、妙に安心する。

 お使いをしてくれた猫を抱き上げ頬ずりし、それから、思いついて、年間ダイアリーを開く。

 白紙が続く日録部分、今日の日付の欄にこう書き込む。

 昼過ぎ、塀の向こうに天使が来た。

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猫とウクレレ 小山らみ @rammie

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