七章 頬伝う 冷たきものを 拭う指 震え止まらぬ 声も体も   その4

 水香は笑みを浮かべたまま、小さく溜息を吐いた。


「……いい加減、諦めてくださいませんか? あなたさまはわたくしの攻撃を目で追うこともできていない。奇跡でも起きなければ、勝ち目はありませんわ」

「イヤだね。俺はまだ生きて、筆を握っていたいんだ」

「そうですか。なら仕方ないですね」


 刀を下段に下ろし、彼女は天に右手を掲げて解除呪文を唱えた。


「参りましょう、わたくしの魂。超魂能力、《シサクノ刻(とき)》」

「まさか……っ、まだ超魂能力を使ってなかったのか!?」

「うふふ、舞も刀もただ習い事で覚えた余技でしかありませんわ」

「くっ……」


 次なる一撃を警戒して筆を手に身構えていたが、一向に何も起きなかった。武器が出てくるわけでもなし、発火や発光すら見られない。

 ハッタリかと思った時、再び水香は口を開き、語尾の音を上げて伸ばし、吟詠した。


「詩の余韻 聞こえぬほどの 長き時」


 時、と彼女が詠んだ途端。

 動かなくなった。

 腕も手も指先も、脚も足も、瞼も鼻も口も、心臓さえも。

 俺の身体の何もかもが、動かなくなったのだ。

 しかしふいに吹いた強い風は水香の白い髪をなびかせ、彼女は手で乱れたそれを整えている。その際に見えた腕時計の針も止まらずに時を刻んでいた。


「《シサクノ刻》――この超魂能力は、任意の相手の時間を止めることができるのです」


 水香は刀の刃を上向きにして、それ越しに目を細め、俺を見やってきた。


「解除呪文を詠唱後、今まで詠んだことのない十七字以上の詩を口ずさむことで発動しますの。その呪文、詩を耳にした相手の身体の一部機能を時流から外すことで、あらゆる行動を完全に封じることができるのですわ」


 彼女の指が刃の上を滑る。皮が切れたのか紅い血がぬらりと出て、滲み込むように刀の色を塗り替えていく。


「さあ、灯字さま。二人で参りましょう。欠けることのない月の輝く、永久の夜空に」


 鮮血を吸った真剣を正眼に構え、ゆったりした足取りで迫ってくる。こんな時じゃなければ思わず見入るような、美しい歩みだ。

 言うまでもなく、事態は切迫している。

 ただ二度あることは三度あるというし、俺の意識はこうして正常に機能している。

 三度目の正直という言葉もあるが、今回ばっかりはそれにはお帰りいただく。


 絶望はしていなかった。打開策はあるにはある。

 懸念事項はタイミングと水香の次の一撃が読めるかどうか、だ。

 一つでも要素が狂えばその瞬間、本当にこと切れる。


 水香は俺の三歩前で一旦足を止め、刀を僅かに上げた。

 それから地を蹴る音が聞こえた直後、忽然と姿が掻き消えた。

 迷わず即座に判断しなければならない。水香はどこから刀を振るってくる?


 俺は左上と勘で決め、そこ目掛けて魂を放射する。

 想像する、自身が筆を振るい、書している姿を。その時に感じるはずの手応え、湧き上がる感情、そして書き上がる作品の出来栄えを魂に覚えさせる。


 想定が終わるなり、間髪入れずに魂が創造を始める。

 書かれるは勢い重視の焔道書体。

 出だしからありったけの力を込めて勢いつけ、しかし字が持つ味を殺さぬよう意識して揮毫する。ただがむしゃらではなく、焔のごとき情熱と揺らめく美しさを再現するように書していく。


 この一作だけは迅速に完成させねばならない。一秒にも満たない一瞬の時間で、十四字。

 一秒という中で考えればほんの誤差程度なのだが、それでも草書体で書ければ楽なのだがと思う。しかし字体にはそれぞれ役割があり、同じ字であっても形が変われば受ける印象もまたガラリと変わるものだ。


 俺はどうしても伝えたいって必死な思いが一番つまるのは、焔道書体だと信じている。だから命の危険がかかっていようが、ここで信念を曲げるわけにはいかない。

 綴られている文字は七、ちょうど半分だ。

 にもかかわらず、刀の風を感じる。


 ちょっと待ってくれ、まだ作品は完成していない! お前に見せたいものがあるんだ、もうちょっとだけ時間をくれ……ッ!

 声が出るわけないし、仮に水香の耳に届いたとしても攻撃が止まるとも思えない。


 もう、無理なのか? ここまでなのか?

 書きたいもの、まだたくさんあるってのに……目の前の作品だって完成してないのに、こんな道半ばでくたばれってのかよ……?


 ……イヤだッ!

 諦めないッ……、絶対に諦めるもんかッ!


 ここで筆を投げ出すようなヤツは、書道家じゃないッ!

 書家っていうのは、一度筆を握ったらどんな状況でも、何があっても、自分の作品を完成させるヤツのことを言うんだッ!


 絶対に書き切るっ! どんなことをしてでもっ、この作品は最後の一画まで書き上げてやるッ!!!!

 筆を握る魂に思いを込めるやいなや。

 穂首に黄金に輝く、猛き焔が宿った。


 何だこれ……? 戸惑う俺を置き去りに現象は進展していく。

 焔は墓地の全景を金色一色に染め上げ、闇を多彩な白き光に塗り替える。まるで波打っているかのような、不可思議な光だ。

 その中、墓石のいくつかが七色の輝きを放ち始めた。


 突として、周囲が騒がしくなった。

 これは……猫の鳴き声?

 次第に思界――目ではなく心で見やる現実世界に、猫の姿が映る。

 一匹じゃない、何匹も何匹も、色んな猫が集まってくる。黒に灰色、あんま毛の生えてないツルッツルしてそうなヤツとか、顔だけが茶色い変なのまでいる。

 ざっと数えて十匹ぐらいだろうか。……その中には今日の昼に見た、あの白猫もいた。

 猫達は四肢で疾駆し、俺の元へ集まってきて、一斉に前足に各々筆を出現させて創りかけの作品に揮毫しだした。

 しょせん動物だ、入り抜きの概念すらなく、きれいな線を引くなんて芸当はできっこない。しかし猫達の一筆には確かに、水香への思いがこもっていた。


 焔道書体の神髄、それは懐の深さにある。

 たった一本でも線に火が着けば、そこから作品全体へ広がり、燃え上がるような迫力を持たせることもある。大事なのは全ての線に情熱という燃料が詰まっているかどうかだ。そして猫達の書いた線はすべからく、その条件を満たしていた。無論、彼等には書に対しての興味なんて持ってない。だが誰かを思いやるその心は十分なエネルギーとなり、作品の一助として申し分ない。

 あっという間に残り一画のみとなる。

 猫達は筆を下ろし、みんなしてこちらを見やった。瞳には信頼と期待の熱が音を立てて燃え上がらんばかりにこもっている。


 俺は筆を頭上へ振り上げ、みんなのありったけの思いをこめて最後の点を打った。柄を握った手から、墨汁をたっぷりと吸った穂先の沈み込むような感覚が伝わってくる。しっかりと止めてからそっと筆を持ち上げて抜く。

 完成した、俺と猫の合作。ぱっと見た時、前半と後半で完成度がまるきり違うのはすぐに分かる。だが合わさった熱量による迫力は、さながら渦を巻く火炎がごとく。鑑賞者の心を包み込み、訴えかけるはずだ。

 黄金と色とりどりの白の入り混じる世界。ここでは黒き墨汁で書かれた俺達の作品が確かな存在感と迫力、そして優美さを放っていた。


 その奇跡の一作がコンマ一秒ほどでピシッと音を立ててヒビが入り。あっけなく粉々に砕け散った。

 俺に迫った刀の一撃が叩きつけられ、割れてしまったのだ。

 吹き付ける吹雪をスローモーションにしたかのように、黒き欠片の舞う中。


 水香は口を開いたまま、眼前の光景を目を丸くし見やっていた。

 刃は首の直前、薄皮一枚の所で止まった。斬られることはなく、刀は引かれた。下ろされたそれは切っ先が地面へと向き、重力によって刃を伝っていた赤い血が数滴ぽたぽたと垂れた。


 しばらくして彼女は刀を取り落とし、その場にへたり込み消え入りそうな声で呟いた。


「……そん、な……」


 黒い欠片が黄金の地面に音もなく落ちる。同時にそれは雪が地面に染み入るようにすっとなくなる。

 水香は地面に触れ、欠片の名残を探すように土を掻き分けた。しかし何も出てくることはなく、やがて彼女は欠片よりも大きな涙をこぼし始めた。地面にそれが落ちると、微かな雨音のようなものが聞こえた。


「せっかく……、せっかく、灯字さまが書いてくださったのに……それなのに、わたくしは」


 白く細い指が、金色の土をつかむ。せめてそこにあるはずの欠片の温もりを感じようとするように。

 しかし世界はそれを許さぬかのように光を失い、夜の暗い闇の中に水香を帰した。

 彼女がつかんでいた土は純粋な黒や黄金の輝きからは程遠い、味気ない茶色に変わる。

 《祈願之筆》もいつの間にか黄金の輝きを失っていた。

 提灯の灯りは今となっては、ただ夜の闇を濃く感じさせるものでしかなかった。


「……もう、生きる価値など……見出せませぬ」


 ふいに呟いた水香の言葉がトリガーとなったのか、俺の体が謎の戒めから解けて動くようになった。

 瞬きもできるし、呼吸もできる。腕や膝も曲げられ、無論、心臓は鼓動を打っている。

 遅れて俺は気付く。


「『詩の余韻 聞こえぬほどの 長き時 生きる価値など 見出せませぬ』……か」


 俯いたまま水香は微かに頷く。

 詩に心得のない者でも一読で分かる、悲壮感と絶望感漂う一編だ。辞世の句なのだと言われたとしても違和感はない。


 俺はしゃがみ込み、水香の顔を覗き込んだ。

 今まで見た中で、一番酷い泣き顔だった。涙なんてとっくにたくさん出てるのに、それでもなおせき止めんと、悲しみを閉じ込めようと無理している、見ていて胸が痛くなる表情だ。


「水香、我慢しないで泣いていいんだぞ?」

「いえ……。わたくしには、そのような資格はありません」

「シカク?」


 白い手が力なく上げられ、細い指先から土が零れていく。

 おぼろげな月のような瞳で眺めつつ、水香は続ける。


「灯字さまは約束を果たしてくださいました。次に読む短歌を筆で書いてくださると」


 屋上で彼女と話した日のことを思い出す。確か、秋風の気持ちいい日だった。


「けれどもわたくしは……その約束を自分で無下にしてしまいました」


 地面に転がっている刀を見やった。奇跡の合作を粉々に砕いた刃は紅い血に濡れ、提灯の灯りと月光を受けて錆色に照り返っていた。


「だから悲しむ資格など、わたくしにはないのです。自分の軽率な行動が招いた、当然の報いなのですから……」

「いいや、違う」


 水香の土に汚れた手を強くつかんだ。生温かい空気の中、冷たい体温が伝わってくる。


「……え?」


 惑い気に水香はつかまれた手を見やる。

 俺は細い指の生えた手を顔の前まで持ち上げ、彼女の黄色い目を見据えて語った。


「悲しんじゃいけない人なんているはずがない。いくらしがらみだらけの世界でも、自分の感情を素直に認めることぐらいしたっていいじゃないか。誰もが自由に詩を作る権利を持っているように」

「……では、灯字さまは許してくださるんですか?」


 水香は少しの間、不安そうに瞳を揺らがせ黙していた。だがやがて決心したように俺の目を見返してきて言った。


「わたくしの……してきたことを」


 思わず苦笑して彼女の頭を撫でた。ふわりと、綿あめの甘い香りが広がった。


「当然だ」


 途端、水香の顔から強張りが消えたかと思うと、俺の胸に顔を埋め、嗚咽を漏らして泣きだした。

 俺は彼女の頭を押さえ、背中を優しく撫でてやった。彼女の体は熱を持ち始め、声は直接胸に響いてきた。これで少しでも、悲しみを肩代わりしてやれていたらいいのだが。

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