五章 大吉は 凶に還ると 言うけれど 人が還るは 気抜けた躯(むくろ)   その3

「……まあ、立派ですこと」


 思わず感嘆の声が漏れた。

 それでも燈子としての口調や声音を守ったことに、我ながら感心した。


 手を伸ばしても天辺に届かない高い檜皮(ひわだ)色の塀に、鋳物の大きな紺の門扉。ミント色の屋根、オレンジに近い赤の煉瓦壁に縦長の窓が並ぶ、横に長く伸びた校舎。メインロードの地面は白茶とブリックレッド、灰色の混じった石畳。道の左右には芝生が張られており、日の光を受けて青々と輝いている。

 校舎の前に設置された噴水はいつまでも一定の高さで水を噴き上げ、人工の池に水を注ぎ続けている。その周りには生徒であろう少女達が集まり、ささやかな笑い声を立てて話に花を咲かせていた。彼女達の顔には熟練の人形師が丹精を込めて作ったかのような笑みが一様に浮かんでいた。美しさに魅入られて眺めていると、ふいに俺はどこぞの博物館か美術館にでも迷い込んでしまったのかと心細さを覚えた。


 ここでじっと突っ立っていても仕方がない。そう思って俺は博愛女学園の敷地に足を踏み入れた。

 お嬢様学校に、生徒として。


 もしかしたらすぐに正体が露見するかもしれない。

 一瞬不安が胸を締め付けたが、それは杞憂に終わった。

 複数人の学生がこちらを見やったが、誰一人として怪しむ者はいなかった。彼女達はすぐに俺への興味を失い、自分達の会話に戻っていく。

 耳を澄ませていると、コンサートや展覧会の感想、多すぎる習い事の愚痴、新しく買ったドレスや使用人の話、友人や教師に関するエピソードなどが聞き取れた。学生らしく勉強やテストに関して話している者もいるようだ。


 最初は無個性に思われた女の子達も近くで見れば、一人一人違うところがあるのだと分かった。笑い方ひとつとっても口元を隠すのはほぼ同じだが、その手の形が違い、声量にも差があり、余った方の手の置き場所も異なる。テラスで昼食を取っている二人の生徒は同じサンドウィッチを食べているが、一人は紅茶を飲み、一人はコーヒーを飲んでいた。同じ立場の人間が集まり、それなりに厳しい作法やマナーに縛られても、完全に個性がなくなることはない、ということか。


 サンドウィッチを見ている内に空腹を覚えた。昼食をまだ取っていなかったのだ。

 食堂で何か食べてくるかと考えた時、突如怒鳴り声が聞こえた。


「そこのあなたッ! 頭の上の林檎を落とすような笑い方をするんじゃありませんッ!」


 何ごとだと見やると、さっき噴水で笑っていた少女を教師らしき女性が叱っていた。

 ……っていうか、何だ頭の上の林檎って?

 叱られた生徒も納得いっていないようで、反抗的な視線で女性を見上げていた。


「……そんなの、無理に決まっていますわ。人というのはすべからく、笑えば頭が揺れるものです」

「そんな言い訳がありますかッ! 淑女たる者、主様にお顔を向ける時以外は常に頭の上に林檎があるとイメージし、それを落とさないよう心掛けなくてはなりません!」


 ……おいおい、先生。淑女ってのは、ウィリアム・テルの息子か?

 なおも反省の色を示さない生徒に、女性は吠えたてる。


「今すぐ天の神に謝罪し、以後改めるようお誓いなさいッ! さもなくば、懲罰房に連行しなくてはなりませんねッ!」


 懲罰房という言葉を聞いた生徒はビクッと体を震わせる。周囲の友人は気遣わしげに彼女を見ながらも、口を挟もうとはしなかった。こういう時、相手を庇ったら自分も同罪にされてしまうからだろう。かくいう俺も同情しながらも立場が立場なだけにただ指を咥えて眺めていることしかできなかった。

 生徒は唇をかみながらも渋々その場に跪き、手を組んで空を仰ぎ声高く唱えた。


「おお、神よ。天におわす、我等が主様。此度、不躾な姿をお見せしてしまったこと、深く反省いたしております。どうかこの罪深きわたくしをお清めください。悪しき心をあなたさまの御業で洗い流し、信徒としてふさわしき人間に生まれ変わらせてくださいませ」


 組んだ手にそっと顔を近づけ、祈りは終わった。

 それを見届けた女性は鼻を鳴らして立ち去っていった。

 それきり場は白け、笑い声どころか、会話さえぱったり絶えてしまった。


 気の毒になって彼女達を眺めていると、ふいにハンドバッグの中のスマホから『さくらさくら』が流れ出した。誰かが電話をかけてきたのだ。

 美甘達との会話を聞かれるとさすがにボロが出るかもしれない。


 周囲を見回し人気のない場所を探す。すぐにこじんまりとした旅館のような、和風建築の建物が目に留まった。確か地図には離れの茶室と書いてある場所だったが、それにしては大きい。

 ともかく、あそこの裏なら人目につかないだろう。

 俺は周囲の目を窺いながら、そっと裏手に回っていった。


 ふいに、角の向こうから女の子が現れた。


「あっ……!」


 どちらともなく声を上げたと思ったら、前から衝撃を受けた。走ってきた女の子とぶつかってしまったのだ。

 急なことで受け身も取れなかった俺はしたたかに尻もちをついた。そこが固く湿った地面だったせいだろう、かなり痛い。


「すっ、すみませんッ!」


 ぶつかってきた相手は倒れなかったようで、立ったまま頭を下げてきた。

 小動物系みたいな、気弱そうな女の子だ。動物に例えるなら栗鼠だろうか。

 その顔を見て違和感を覚えた。

 走ってぶつかり、相手を転倒させたのだ。罪悪感を覚えるのは分かる。けれどもそれにしたって、青ざめすぎじゃないだろうか。まるで何かに怯えているかのようだ。


 ふと彼女の手が目についた。湿った土で汚れており、かすり傷もできていた。ケガをしたのか血も付いている。

 栗鼠少女が俺に手を差し出すか迷うそぶりを見せた後、結局引っ込めた。彼女は俯き加減で申し訳なさそうに訊いてきた。


「あの、大丈夫ですか?」

「いえ、わたくしは平気ですわ。それよりあなたこそ、大丈夫?」

「え……?」

「手、ケガをされているようだけど……」


 栗鼠少女は戸惑い気味に自分の手を見やり、はっと息を呑んだ。

 顔はさらに青くなり、唇が紫色になった。見るからにただならぬ様子だ。


 何があったのか訊こうとした時、いくつかの足音が角の向こうからして、二人の女子が現れた。

 後から来た二人の手も、汚れてケガをしているようだった。茶色を斑点のような赤色が見えた。

 狐顔の女が、栗鼠少女にヒステリックに怒鳴った。


「ちょっと、そんなところで何してんのよ!?」

「えっ、あっ、ごめんなさい……」

「ケンカは後! 行くわよっ!」


 リーダー格のヒョウ柄リボンの女を先頭に、三人は脱兎のごとく駆け去っていく。俺は彼女達の背中を呆気に取られて見送った。


「何だったのでしょうか……」

「それはおそらく、裏手を見れば分かることですわ。灯字さま」


 いきなり背後から名前を呼ばれ、ギョッとして振り返った。

 そこにはいつも通りゆったりとした佇まいの水香がいた。希雨唯はおらず、一人きりだ。なぜか彼女は手にバケツを持っていた。

 咄嗟に俺は作り笑いを浮かべて言った。


「灯字さまとは、どなたのことでしょう?」

「おとぼけになるつもりなら、更衣室に行って確かめてあげましょうか?」


 ゆるぎない確信に満ちた水香の声。

 彼女の目をごまかせないことを悟り、俺は降参することにした。


「……何で分かった?」

「微かに墨の香りがしましたし、お顔立ちや佇まいにもどこか既視感のような印象を抱きましたので」

「……匂いか。香水でもつけてくるべきだったか?」

「それに致命的なミスが一つありましたし」

「ミス?」

「スマホですよ。先ほどハンドバッグから鳴りました『さくらさくら』の変奏曲。以前に魂魄高校の屋上で聴いたことがあります。そのような古風な曲を着信音に選ぶ方はそうそういらっしゃらないでしょう」


 思わず溜息を吐いた。


「迂闊だったな……」

「おそらくバッグの中のスマホには『鷽に垂桜』のカバーがついているのでしょう?」


 さらなる追求に精神的な余裕をすっかり失った俺は、神に祈るような気持ちで言った。


「……見逃してくれるか?」

「分かりました。このような可愛らしい灯字さまを拝める機会もありませんし。むしろ、また遊びにいらしてほしいくらいです」


 鼻歌さえ聞こえてきそうな上機嫌ぶりだ。


「遊びに来たとしても、この格好は多分してないぞ。借りものだし」

「ぷぅ。灯字さま、意地悪ですわ」

「……なかなか特殊な趣味をお持ちのようで」


 何はともあれ一難去ったことに、ほっと胸をなでおろした。


「ところでお電話がかかってきていたようですが、折り返さなくてよろしいのですか?」

「ああ、そうだった。じゃあすまない、一旦ごきげんようだ」


 俺は人目のない、茶室の裏に向かおうとする。


「あ、そこでかけるのはよした方がいいと思いますわ」

「どうしてだ?」

「それは……」


 目を逸らした水香は、自身の腕をぎゅっとつかむ。

 ふいに雲が陽光を遮り、辺りが薄暗くなった。

 彼女は乾いた声で口ずさんだ。


「脳髄に心を求めても。心の臓に心を求めても。この世に心なき人間はほとんどいなくなるでしょう」

「……どういう意味だ?」

「実際にお目にかけた方が早いかと。共に裏手に参りましょう」


 先導する水香に促され、俺は角を曲がった。


 そこは塀と建物に挟まれたところで、日当たりが悪くじめじめしていた。

 黒茶の土は、床の上を歩いているように固い。ここで転んだらかなり痛いだろう。


 だが何よりも注意を引かれたのは、嗅覚を刺激したものだ。

 ……異臭。

 実に嫌な臭いだ。胸の中をドロッとしたものに占められるような。


「……なあ、水香。錆びた鉄みたいな臭いがしないか?」

「はい。おそらくその原因は、あれでしょう」


 水香が指差したのは、地面が小山のように盛り上がっている場所だった。まるでそこだけ最近誰かが掘り返したかのようだ。


「突き返されたラブレターでも埋めたのか?」

「……そんな微笑ましい理由ではないでしょう」


 水香はバケツの中から園芸で使うようなミニスコップを取り出し、俺に差し出してきて言った。


「灯字さま、あそこを掘っていただけますか?」

「別に構わないが……。何が埋まってるんだ?」

「百聞は一見に如かず、です。お願いしますね」


 俺は言われるままにスコップを受け取り、しゃがんで先端を小山に突き立てた。思ったよりも先端は容易く突き刺さり、かなりの量の土をすくうことができた。続けざまにスコップを地面に刺し、土を脇に除けてを繰り返し掘り進めていく。


「さすが殿方でいらっしゃいますね。頼もしいですわ」

「いや、これぐらい誰でもできると思うが……、ん?」


 急に変な感触がした。スコップの先端が、すごく柔らかいものを突いたようだ。力を入れるとグジュリと湿った音が響く。

 何だろうととぼけながらも、薄々俺は気付いていた。

 地面を掘り進むたびに濃くなってきたのだ、錆びた鉄のような臭いが。

 それにこの感触は、もしかしたら……。


「おい、水香……?」

「灯字さま。早くしないと、日が暮れてしまいますわよ」


 彼女だって気付いているはずなのだ。この地面の下に、どんなものが埋まっているのか。にもかかわらず、その顔は平常時のように、穏やかな微笑を湛えていた。


 口の中から喉の奥まで乾いていく。息が異様に生温かくなる。

 体の芯が冷え切り、宙に放りだされたかのように平衡感覚が失せていった。


 さっきまで軽々扱えていたスコップが、今は鉛のごとく重い。

 心臓がドアを激しくノックし叫ぶ。すぐにスコップを手放せ。これ以上掘ってはならないと。

 しかしその声を無視して手は勝手に動き、柔らかなものの周囲の土を除けていく。


 徐々に赤黒く汚れた白い毛が現れる。

 鉄の臭いがもろに鼻を突き、胃の奥から酸っぱいものがこみ上げてきて喉を焼く。あまりの臭気に何度か咽てしまった。


 額から流れた汗が目に入り沁みり、ぎゅっと瞼を閉じる。地鳴りに似た音が耳の奥で響く。

 このまま目をつぶったままにしておきたいと思いつつも、再び開いてしまう。そこにあるものから逃げてはならないと心が訴えかけてくるのだ。


 やがて完全に柔らかいものの全身が露わになった。

 それは小さな白猫の亡骸だった。一緒に埋められていた赤い首輪から察するに、近所の飼い猫だろうか。もしかしたら散歩中にここに迷い込んだのかもしれない。

 最初に目についた赤黒いものは、白猫の腹から流れていた血だった。腹に縦に裂かれたきれいな一文字の傷がある。そこから流れたのだろう。

 他にも何カ所か切り傷や刺し傷があり、至る所の毛をむしり取られ、殴打による痣も見受けられた。顔だけはきれいに無傷なままだったが、逆にそこだけが異様に浮いていて不気味だった。

 言うまでもないが息はすでに絶えている。


 漫然と眺めていると、開いたままになっていた青い瞳と目が合った。

 一度は治まったはずの吐き気が再びこみあげてくる。


 だがそれを堪えて、俺は目を閉じて合掌した。

 どうかコイツが、安らかに眠れますように……。

 しばらくした後に目を開き、やりきれない思いを溜息と共に吐き出した。


 後ろを見やると、水香も両手を合わせて黙禱していた。少しして彼女は薄く目を開いて手を解いた。

 俺は「もういいか?」と訊き、彼女が頷いたのを確認してから、白猫を抱きかかえるようにして穴から持ち上げた。猫の体は思ったよりも軽くて。想像していたよりも、よっぽど冷たかった。


「意外と冷静なんですね」


 無感情な声が耳の近くで聞こえた。なのにどこか遠くから、川か谷越しに話しかけられているような気がした。


「……そう見えるか?」

「比較的」

「比較的……?」


 水香は袖から扇子を取り出し、それで口元を隠して言った。


「わたくしが初めて目にした時は、涙と吐しゃ物で顔をぐちゃぐちゃにしたものです」


 一瞬、彼女の言ったことが理解できなかった。


「……これが初めてじゃないのか?」

「今月で五匹目でしょうか」

「嘘だろ……」

「今年度で二十七匹目ですね」


 まるで書かれている文字を読むような淡々とした調子。その目もガラス玉のように無機質な光を放っている。


 今、水香は心を殺しているのだと俺は悟った。


「あの三人が……二十七匹も?」

「いいえ。常習犯はいるとは思いますが、それでもおそらく十を越える方達が猫達を殺めているでしょう」


 胸の内が、きつく締めあげられる。唇がどうしようもなく震えて、視界が熱いものでジワリと滲んだ。


「何で……何でっ、こんな……惨いことをするんだ……」

「灯字さまもすでにご存じでしょうが、この学校の規則はとても厳格な場合があります」

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