四章 無謀なる 愚人の鼻は 高々と 天を向けども 雲は穿(うが)たず   その5

「……なあ、灯の字よ。さっきからそなたは何をやっているのだ?」


 目を閉じてじっと座っているマインは不思議そうに問うてきた。今の彼女は眼帯を外しており、素の顔が露わになっていた。

 俺は刷毛を動かす手を止め、言った。


「急に口を開くなって。白粉が口に入るだろ」

「う、うむ」


 それからあごの辺りを塗り、刷毛を置いた。今回は顔のみを化粧するだけなので大して時間はかからない。とはいえ本格的にやったことはないから、本職の人間が実際どれだけの時間を要しているのかは知らないが。

 筆を手に取って、水に溶かした紅を穂先につける。そして目の辺りの白くなった肌に穂先をすっと走らせる。


「んむっ……」


 小さく上ずった声を漏らし、ぴくりとマインの体が震える。


「こそばゆいか?」

「あっ、ああ……。だがそれ以上に、何というか、こう……」


 もじもじと体をくねらせ、口ごもる。

 何だろうとじっと次の言葉を待っていると、やがてぽつりと彼女が言った。


「柔らかで優しい触りの先端が肌に溶け込むようで、何だか気持ちいいのだ」


 得心が行った。湿り気を持った筆先というのは、なかなか触り心地がいいものなのだ。


「そうか。丁寧におろしておいてよかった」

「何だ、大根か?」

「……筆を使える状態にすることをおろすって言うんだよ」


 それからもう一度筆を肌に入らせると。


「ふぁっ……はあんっ」


 甘ったるい声がマインの口から発せられた。


「おい……マイン?」

「わっ、わざとではないぞ!? 灯の字の筆の触れ心地があまりにも甘美すぎるがゆえ、つい声が……」

「分かったから声は我慢してくれないか? あと体を動かすのも……」

「善処しよう……」


 それからも「あっ……」だの「あん……」だの集中力を阻害するような吐息や声が時折聞こえたが、最初の頃よりはマシになった。


 何度か筆を持ち換え、紅の線を引いていく。いつもの墨とは違う色が広がっていく様はなかなか新鮮で面白い。

 目元の紅入れを終えて、油墨で眉や目元を描いていく。

 工程が進むにつれて周囲から「あれって……」「もしかして……」と正解を呟く声が聞こえたが、当のマインは筆の感触に翻弄されて耳に入っていないようだった。

 一通り済み、筆を置きつつゆっくり息を吐く。

 それから太めの筆に持ち替え、彼女に少し強めに言う。


「……今から唇を描くから、絶対に口を開くなよ。いいな?」

「くっ、唇!?」

「返事は?」

「わ、分かった」


 紅を穂先にたっぷり吸わせ、マインの唇を見やる。白粉で顔全体が均等に塗られているため、真っ白に染まっている。そこに俺は赤くなった穂を入れていく。

 ぴくんと肩を跳ねさせ、唇を突き出してくる。小鳥が餌をねだっているようだ。

 少しやりにくいが、まあ口を開いていないからセーフだ。


 穂先が湿り気たっぷりの音をさせて、慎重に赤い唇を描いていく。

 今まで以上にマインの様相が様変わりしていった。それを目の当たりにし、俺は今、自分の書で彼女の顔を飾り立てているのだと実感する。悦びが心の臓を震わせ、ぞくぞくと背筋を興奮が這い上ってくる。

 筆で触れる度に彼女の心の動きが直に伝わってきているような気がした。動揺や羞恥、緊張。……それによく分からない、疼きのようなもの。


 完成に近づく程に、俺は今まで覚えたことのない切なさのようなものを感じた。

 もっと彼女の肌で書を続けていたい。この穂先を触れさせていたい。

 しかしその思いが実るわけもなく、最後の線を描き終え、筆を置いた。


「お、終わったのか……?」


 目を薄っすらと開き、マインが問うてくる。

 俺はゆるりと首を振って言った。


「いや、まだ最後の仕上げが残っている」

「仕上げ……とな? ……んぅ」


 親指の腹で、マインの肌に軽く触れる。彼女の体温は想像していたよりも熱く、火傷するんじゃないかって一瞬思った。

 穂先のように指を滑らせ、紅を薄く広げていく。まるで花が開くように、彼女の顔に新しい色が生まれていく。

 肌を撫でる度、覚えのない胸の温もりを感じた。


 今まで俺にとって作品とは書いて終わりだった。

 全てが習作であり、出来上がった作品に愛着を抱くことはない。

 書道家はとにかく枚数を書いて腕を磨かなければならず、一作が完成するまでの時間も他の芸術と比べて短い場合が多い。ゆえに作品に対する執着が比較的薄い気がする。

 よほどの傑作でないと、自作に対して我が子のような情を持つことはないと祖父も言っていた。

 だが今、マインの顔を見て俺はかつてない満足感を抱いてた。これは純粋な書ですらないのに、彼女の顔に書かれた作品に愛おしさを覚え、いずれ失われることに一抹の寂しさすら感じるのだ。


 指を肌から放し、額の汗を拭く。止めていた息を吐くと、頭の中の張り詰めていた糸が緩んだような感じがあった。

 仕上がりを眺めて仕損じがないことを確認した後、俺はマインの青い瞳を見据え、万感の思いで言った。


「……できたぞ」

「誠か!? どのように仕上がったのだ!?」

「あ、わたしコンパクト持ってますよ」


 美甘が袖からコンパクトを取り出し、開いてマインの前にやった。

 ミラーを覗き込んだマインは愉快そうに笑い、手を叩いた。


「これは見事だ! 歌舞伎役者ではないか!」


 真っ白な顔に、紅い隈取。

 俺が今まで長い時間をかけて作り上げたのは、歌舞伎の顔だった。


「ほう、素晴らしいね」

「……大した出来栄え。じゃ」


 久遠先輩は口笛とギターで儀礼囃子のようなものを再現していた。器用な人だ。

 他の委員の評価も上々なようで、感嘆の声が上がっている。


「歌舞伎のメイクにはいくつかあるが、今回選んだのはむきみ隈っていうものだ。若々しさとか正義感を象徴するものだな」

「ほほう。燃え上がるようなこの紅は、さながら玉鋼を熱す炉の炎のようであるな」


 マインは目尻から跳ね上がる紅を指して言った。


「そうだな。視覚的に一番インパクトがあるものって言われて浮かんだのがこれだったわけだが、どうだ?」

「うむうむ、気に入ったぞ。灯の字はこのような芸も持っていたのだな」

「祖父ちゃんの知り合いに、歌舞伎役者のメイクを仕事にしている人がいてな。その人にちょっと教えてもらったことがあるんだ」

「ほう。そなたの祖父君は顔が広いのだな」

「他にも居合道の達人とか、浮世絵師に会わせてもらったよ」


 俺とマインが話している横で、美甘は軽く肩を竦めて言った。


「……何も、ここまで凝ったものにしなくても……」

「いや、引き受けたからには全力を尽くさなきゃだろ? それにマインは俺の筆の腕を見込んで頼んでくれたんだ、手を抜いたら期待を裏切ることになる」

「腕を見込んでって……報酬が出るわけじゃないんですよ?」

「灯の字は金銭を欲しているのか? それなら用意するが」

「いや、いいって。それに交換条件って話だったろ? な、美甘」

「……そうですね」


 美甘は小さく溜息を吐いた後、表情を引き締めて切り出した。


「マインちゃん達にお話があるのですが……」

「重要な話か?」

「はい。わたし達治安維持委員会……いえ、この近隣の学校全部の今後を大きく左右する問題についてです」


 マインも真面目な顔になり、「ふむ」と少し考えてから言った。


「ひとまず落ち着ける場所に参ろう。話はそこで聞く」

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