四章 無謀なる 愚人の鼻は 高々と 天を向けども 雲は穿(うが)たず   その3

 のっぽのヤツは嫌味な笑みを湛えたまま椅子に腰かけ、残った者達に言った。


「君達は部屋を片付けるであります。あの仙道先生のお孫さんが書をなさるのでありますから、十全の状態で臨めるよう余裕あるスペースを作り、塵一つ残さず掃除するでありますよ」

「了解です」


 委員達はすぐさま命令を行動に移し、部屋を片付けていく。

 美甘達は彼等の邪魔にならないよう、こちらへ寄ってきた。


「灯字ちゃん、どういうつもりなんですか?」

「あのアドバルーンの文字が気に入らなかったから、文句を言いに来た。それだけだ」

「マジであののっぽの勝負を受ける気なわけ?」

「もちろん。それでヤツを納得させることができるならな」


 のっぽを見やると、ヤツは挑戦的な視線をこちらに向けてきた。

 まもなく、使いに出ていった委員が戻ってきた。

 が、彼の手に持っていたものを一目見て、俺は目を疑った。

 のっぽはわざとらしい声で委員に尋ねた。


「おやおや、随分可愛らしい布でありますなあ?」


 そう、布だ。


 アドバルーンに使われていた布は縦に長い長方形だった。

 しかし委員の持っている物は縦横同じ程度の長さの、正方形のもの。

 特筆すべきは大きさだ。せいぜいアドバルーンに吊るされていた布の、文字一つが入ってちょっと余白が余るぐらいか。


 つまりサイズが足りなさすぎる。

 もしヤツの文字と同じ大きさで『第三十九回 スペシャル・ドリーム高等学校文化祭』と書くつもりなら『第』の時点で布が埋まってしまう。

 かといって小さく書けば、それは広告として使い物にならなくなる。アドバルーンで空に飛ばした時、字が小さかったら日本人の視力では到底見えない。例え視力がよかったとしても空に浮かぶ布切れの文字なんて、目を凝らしてまで見ようとはしないだろう。


 委員は俺の方を見て、すまなそうに言う。


「さ、探してみたんでやんすけど、これしかなくて……」

「そうか……」


 彼に悪気があるようには見えない。本当に準備室の中にあるものでアドバルーンに使えそうなのは、この布しかなかったんだろう。

 とりあえず彼から書道道具一式と、その小さな布を受け取った。

 のっぽが勝ち誇ったような笑い顔で言う。


「ああ、残念であります。非常に残念でありますなあ。さしもの仙道先生のお孫さんでもこのようなちんけな布では、どうしようもありますまい」


 俺が口を開く前に、美甘がのっぽに噛みついていった。


「こっ、こんなので勝負できるはずないじゃないですか!」

「では小生の不戦勝でありますなあ」

「どうしてそうなるんですか!? 勝負しないなら勝ち負けなんてないでしょッ!」


 いくら怒声を受けようともどこ吹く風、のっぽは涼しい顔で「チッ、チッ、チッ」と指を振った。


「小生は一度も、お孫さんにも同じ布を渡すとは言ってないであります。だから道具が想像していたものとは違うから勝負は無効だ、という論法は通らないであります」

「ひっ、卑怯ですっ、そんなの!」


 なお追求しようとする美甘の肩をつかみ、俺は言った。


「もういい、美甘」

「でも……!」

「ルールをしっかり確認しなかった俺が悪い。まあ、納得いくかどうかって言われたら微妙だが……」


 のっぽの野郎を睨みやったが、ヤツは蛙の面に水って感じだった。


「お前はこの布で勝負が決まって、満足か?」

「別にこの布でなくても構わないでありますよ? どこかから新しい道具を調達してくるのも一つの手段であります。ただし最初に言ったように、制限時間は今から三十分とさせてもらうであります」

「まさかアンタ、これを見越してそんなクソッたれなルールを……」

 久遠先輩に看破されても、ヤツは平然と白を切る。

「さあて、どうでありましょうなあ」


 俺は抗議を諦めて、準備を始めた。


 黒い絨毯みたいな毛氈(もうせん)を敷き、そこに布を広げる。

 主にパフォーマンス用で売られているような特大筆の毛並みを確かめて、深めの皿に墨汁を注ぐ。

 それから改めて布を見やった。

 普通に文章を書くには、スペースが足りなさすぎる。

 勝負の条件は『一目見て、ドリーム高校で文化祭が開かれていると分かる』広告。こんな窮屈な場所で、遠目から見ても分かるように表現するにはどうすればいいか。

 布を見ていても何も閃かず、時間ばかりが過ぎていく。


「灯字ちゃん、こんな勝負やめた方がいいですよ。ただ戯(あそ)ばれてるだけじゃないですか」

「書くと決めたら、どんな条件でも書き切る。それが書道家だ」

「だからって……」


 俺は藁にでもすがる思いで周囲を見回した。

 手掛かりを求め、塵一つ見逃さぬよう目を凝らす。

 しかしさすが委員が念入りに片しただけあって、目につくものは何もない。


「残り二十分でありますよ」


 残忍な処刑執行者の顔で告げてくるのっぽ。

 万事休すかと思われたその時、入口の戸が開いた。


「何だというのだ、我がせっかく聖祭を楽しんでいるというのに……」


 見やると、馴染みのドリーム高校治安維持委員会のメンバーが入ってきた。

 マイン、クジャク、まもると勢ぞろいだ。

 クジャクとまもるはクラスTシャツのようなものを着ていた。トップスに合わせるためか、クジャクは珍しくスカートを穿いていた。なかなかレアな姿だ。

 マインだけは室内でただ一人、いつも通り制服を着ていた。

 彼女を見た瞬間、その左胸に目が吸い込まれていった。


 背後ののっぽが慌てた声を出す。


「きっ、君……いや、貴方達は……」


 何かを言いかけていたようだが、それより先に俺はマインに詰め寄り、彼女の手を取っていた。


「なっ、何だ灯の字、藪から棒に……」


 驚き目を見張る彼女の手を引き、俺は言った。


「こっちに来てくれ」

「おっ、おい!」


 周囲が呆然としている中マインを連れて元の位置に戻り、彼女を布を挟んで眼前に立たせた。


「今からそこに二十分間いるんだ」

「なっ、なぜだ?」


「いいから。別に座っても構わないが、胸は隠さないでくれ」


「むっ、胸だと!? そっ、そっ、そなたはヘンタイであったか!?」

「頼むからあまり動くな。せっかくの小さな胸が台無しだ」

「とっ、灯の字! いい加減にしないと我の闇の力が……」

「動くな。後で何でも言うことを聞いてやるから」

「むう……」


 大人しくなったマインの胸をじっと凝視し、そこにあるものの形をしっかりと頭に刻み込んでいく。

 そして頭の中に出来上がったぼんやりしたイメージを、布に重ねていく。

 完成形がはっきりと幻視できた途端、自然と手が動き出した。

 筆の穂先を墨汁に浸し、布へ向かう。


 これは純粋な書道ではない。あくまでも宣伝用の広告だ。だから勢いよりも整った線を心掛け、慎重に、しかし素早く筆を走らせていく。


「なっ、何でありますかこれは。文字ではない……?」

「おいおい、副会長クン。キミは本当にここの学生かい?」

「ど、どういう意味でありますか?」

「ドリーム高校の生徒なら、今灯字クンが今何を書いているのかなんて、すぐに分かるはずだよ」


 しばらくしてのっぽが「ああッ!」と素っ頓狂な声を上げた。


「こっ、校章! 校章でありますぅう!!」

「そう、校章だ。彼はたった一本の筆だけであの大きな布に、校章を再現しているんだ。今の所、長さや角度のバランスもほぼ正確だ」

「しっ、しかしただの校章では文化祭の広告にはならないであります!」


「……副会長クン、なぜキミは灯字クンに文化祭の広告を書かせているんだい?」

「そっ、それは……」

「聞いてくださいクジャクちゃん。この副会長って人、灯字ちゃんに……」

「まっ、待つでありますぅッ!」


 外野がとやかく言っている間に校章の外側が出来上がった。中央の文字のスペースもきちんと残してある。

 そこを飾る一字はとっくに決めていた。

 後はそれをどう書くかだ。

 完成形はイメージできているが、本当にそれでいいのか一旦筆を止めて考える。

 校章の元型を壊さないなら篆書体……あの独特な柔らかさを持つ文字になる。しかし文化祭の広告として、それではあまりに地味すぎやしないだろうか。


「おい、文化祭の最高責任者は誰だ?」


 問いかけると、クジャクはマインの肩に手を置いて言った。


「文化祭の、となるとマインクンだね」

「うむ。我は文化祭実行委員会の長であるからな」

「……お前、何年生だっけ?」

「一年だ。しかし学年など些細なこと。我は我のやりたいことをする、それだけだ」

「治安維持委員会の委員長もやってますし……、すごい体力ですね」

「フッ、魔界の王を舐めるでない」

「……陛下、夏季休暇でバタンキュー。看病大変だった。のじゃ」

「こっ、これっ、余計なことを言うでない!」


 怒りつつもその場から動こうとはしない。そこにいろという俺の要求を守っているのだろう。なかなか律儀なヤツだ。


「それで文化祭実行委員長」

「何だ、灯の字よ?」

「お前はこの文化祭をどういう風にしたい? 何かイメージとかないのか?」


 ふむとマインは顎に手をやり、少し考えた後に言った。


「とにかく享楽に満ちた聖祭にしたいのだ」

「きょ、享楽……?」

「うむ、そうだ。来訪者の心を楽しみで満たし、祭りでの思い出を未来永劫の宝としてほしいのだ!」


 キラキラした瞳で語るマイン。まるで夢を見るような幼き少女のような、希望に満ち満ちた弾んだ声。

 それ等が源泉となり、俺の心中にあった文字を生まれ変わらせていく。


「ハッ、君はまだそんな夢みたいなことを言っているでありますか。所詮、文化祭など学校が知名度を上げるために開いているだけのイベントに過ぎないであります。そんなどこぞの夢の国みたいなキャッチフレーズなんぞ、戯言に過ぎないであります!」

「何を言うかッ! せっかく祭りを開くのだ、一生に一度の思い出を作ってもらいたいと思って何が悪い!」

「思うだけなら結構でありますよ。まあ、そんな絵空事、叶いっこないでありますがね」

「ぬぐぐぐぐぅ……」


 俺は心象に新たに生まれた文字を直視し、その書の筋を頭の中に叩き込む。

 さっきまでの書き心地と照らし合わせて、入りから抜きまで全てを計算しつくす。

 そうして完成された公式を瞬時に腕に覚え込ませ、筆を持ち上げた。


「……マイン」


 俺は無我の境地に入る前に、彼女に宣言した。


「お前の夢、叶えてやるよ。俺の書でな!」


 言い切った途端、視界が筆と布を残し、ブラックアウトする。


 あらゆる光景と音が消え、世界が書に最適化され再構築される。


 別に特異な能力を使ったわけではない。

 ただ俺の感覚神経が不要な情報をシャットアウトしただけのことだ。

 筆先を布地に触れさせ、軽やかに動かす。

 弾むように書を行い、筆で緩やかなアーチを描くように意識する。無論、入りと抜きをおろそかにしないようには心掛ける。


 やがて布状に、校章をバックにして一つの文字が書き上がる。

 世界に景色と音が戻り、室内にいる人々の会話が聞こえてきた。


「祭……って読む系?」

「はい、祭ですね」

「なかなか面白い字体。じゃがな」

「こっ、こんな文字が許されるでありますか! ただの落書きであります!!」

「しかし副会長クン、この字を見ていると何だか楽しい気分になってこないかい?」

「たっ、確かに、そんな気はするでありますが……」

「ええい、そなた等何を言っておる! この字のすごさは、そんなものではないであろうが!!」


 マインの言葉にのっぽが「ま、まさか……」と消え入りそうな声で言い、訊いた。


「君、文字が踊ってる……なんて言うつもりではないでありますな?」

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