ハノー=ブッデンブロークに捧ぐ今世紀初頭あるいは前世紀末期のある女子高生の物語(未完)

remono

 目覚まし時計が電子音を鳴らす。始めは小さく、だがすぐに大きくなった。小さくと言っても決して人に快い音ではなく、大きいのになるともう耐えられたものではない。その耳にうるさい音は、この朝の微睡みという彼女に許された優しい世界に挑戦するかのように、いつまでも鳴っていた。


 重厚さも荘厳さもない、薄っぺらい単音の電子の叫び。それを聞くと篠崎香奈は毎朝心が凍り付くのを感じた。特に今日は月曜日――であることを考えると彼女の心はいっそう寒々と冷え、重くなった。電子音の発生源は当然の事ながら、時計の役割を果たすことが出来る。彼女は寝ぼけ眼で枕元に転がっているそれを見た。――六時。彼女がいつも起きる時間より一時間ほどだけ早い。そう、昨日眠る前にそうセットしておいたのは自分なのだからそれは当然のことだった。


「……」


 彼女はそのやかましい音を止めてから無言で頭をポリポリ掻いた。布団から伸ばされた細い腕に冷気を感じる。幾層にも重ねられた布団の中がこの上もなく暖かかっただけに、その冷気はとりわけ彼女の身に堪えた。


 しかし、これから香奈はこの朝の僅かな時間を使って宿題を片づけるつもりだった。最もその宿題は一時間やそこらで片づくような代物ではなかったのだが。今現在、彼女が抱えている宿題は、今までやってこなかった宿題の上にさらに宿題が重ねられ、ついでにこの間の補習の際に出された宿題や、もはや遙か前のことになる冬季の課題、さらには今日の英語のグラマーの授業でやってこなければならない箇所もあって、全部まとめるとそれはそれは膨大な物になっていた。


 香奈は布団から出た手をぬくぬくとした布団に引っ込めると、彼女には珍しくまじめな顔で思案に耽る。いったい何から手を付けるべきだろうか。


 今日が提出期限である代数のプリント。しかし代数など彼女にはさっぱりわからないのだ。時間の無駄でしかない。香奈はあっさりとそのプリントのことを頭の隅へと放りやった。


 ……じゃあ今日の授業で回答させられる英語のグラマー。しかし、香奈は前の授業で次回の授業でこの箇所を回答するように指されたとき、ついぼんやりと別のことを考えてしまっていたので、どこを答えればよいのやらかわからない。


 土曜日に先生に呼び出されて注意された古文のプリント。あれはとうに提出期限を過ぎ、このままでは進級もおぼつかないとその時さんざんに説教されたのだ。


 それとも……。


 香奈は自己に課せられた様々な宿題の山を頭に浮かべる。しかも宿題はそれ以外にも彼女がとうに忘れてしまった物も多々あるのだ。しかし一時間!! 香奈は絶望的な気持ちで思う。わずか一時間で何が出来るというのだろうか。眠る前は一時間あればなんでもできるような気がしていたのだが、実際一時間という時間は短いものだ。ぼんやりと時計を見る。時間はもう六時十分になろうとしていた。……あと五十分。香奈は考える。何も出来はしない。ならば日曜日にやっておけば良かったのか。しかし日曜日は同人誌の即売会で彼女は一日中なにかと忙しかったし、帰ってからもその日の売り上げを数えたり、次の即売会の申し込みを記入したりとで頭と時間をすり減らし、記入が済む頃にはどうしても睡魔が襲ってきてしまっていた。それでも香奈はわずかに残った気力を振り絞って今日、月曜の朝の一時間という時間を確保したのだ。しかし布団にくるまってぬくもりを実感していると、この一時間は寝る前には進級のためどうしても必要な物と香奈には思えたのだが、今よくよく考えてみると進級ぐらいはいつものように先生に泣きを入れれば何とかなるのではと思ったし、進級できなくても別に構わないかも知れないと思うようになった。


 それでもなにかに駆られて香奈は勢いを付けるためにえいっと一声上げるとベットから跳ね起きる。その瞬間寒気がパジャマの隙間から忍び込んで香奈の体を震え上がらせた。


 とりあえず、机についてから考えようと思って香奈は立ち上がりそばでくしゃくしゃになっている白いガウンを着るとのろのろとそこまで歩く。ところが、香奈の勉強机にはマンガ道具やら何やらで埋まっていて、どこをどう整理すれば勉強場所を確保できるのか香奈自身にもさっぱりわからなかった。それではと、部屋にもう一つ置かれたいつもはマンガを書くのに使っている三角の座卓を見渡す。そこには昨日書いた次の即売会のための申込書が置かれてあった。香奈は寒さに震えながらそれを取り上げてもう一度子細を確認する。問題はない。しかしそれを確認しているうちにもう香奈には勉強する気持ちなどはほとんどどこかへ吹き飛んでしまっていた。彼女が期限通りに課題を提出しないのはいつものことだし、期限を過ぎている課題は今更一日や二日遅れても大した問題ではないように思えたし、グラマーの予習もどこをやれば良いのか知らないのでやるだけ無駄だと思い始めた。


 そこで香奈はそこいらへんに転がっている昨日終わったばかりの即売会のカタログを拾い上げて、ざっと斜め読みを始める。特に目を引くサークルカットが一つもないことに安心する頃には、もう時間は六時三十分を回っていた。香奈は壁の時計を見て唐突に自分がどうしてこんなに朝早く起きているのかに気がつく。そろそろ宿題を片づけなければと思うが、残された三十分ほどの時間では何一つ終わりまで、いや、一つの四分の一すらも出来るとは思えなかった。それでも頑張ってちょうど手の届くところにあったグラマーの予習をやろうとする。しかし香奈は英訳に必要な辞書がないことに気付く。辺りを探すこと約二分。先日買って、まだ封すら開けてないマンガ単行本が入っている袋の影からそれを発見した。それではと問題に取り組む。しかし、やっぱり何が何やらさっぱりわからないし、先生の話を聞いていなかったのでどこをやればいいのかもわからない。香奈は結局三分――それでも彼女にしては頑張った方――で諦め、気分転換と自分に言い聞かせてまたベッドに潜り込む。布団はまだ香奈自身の体温を僅かに留めていて、ふんわりと暖かかった。香奈はその温もりに身を委ねながら、さっきまで見ていた夢の続きを思い返そうと試みる。それはひどくロマンティックで、実際にはあり得ないような、本当に夢のような夢だった。




 ――体を揺さぶられる。そして、優しくはあったが、どことなくうんざりしたような女性の声。最初は小さく、すぐに大きく。香奈は薄目を開けて視界を確認した。すぐ枕もとに優しげな表情の香奈の母親の顔があった。


 眠り始めのところを起こされたこともあるが、その老いを帯びた、そしてあまりにも自分に似すぎている顔は朝一番には見たいものではなかった。さっきまでなんだかすごくいい夢を見ていたような気がしたのでその気持ちはなおさらで、香奈は、「……もう少し寝させてよぉ」と呟き、体を母親から背ける様に反転させて布団に潜りこむ。


「香奈ちゃん、これ以上寝てたら学校遅れるわよ」


 母親の声はあくまでも優しかった。掛け布団の上から本当に優しく香奈の体を揺り動かす。それで香奈は完全に目覚めてしまった。しかし、起き上がる気にはなれない。全く手をつけてない宿題と予習のことを思い出し気持ちが悪くなった。それは仮病だと言うことは彼女自身も承知していたが、逆にそれゆえに胸が苦しくなる。「……いいもーん、学校なんて。どうせ行ったって……」甘えるように母親に呟く。まどろみから覚めると同時に香奈は宿題のことと、自分がそれに全く手をつけずに二度寝してしまったことを思い出す。なぜ自分はわざわざ怒られに学校まで行かないといけないのだろうか。ある意味不条理ではある。しかし不条理であったが、それに反抗する気力は香奈にはなかった。それは不良のやることだと教えられていたし、事実香奈は不良があまり好きではなかった。いや、大嫌いだった。それでも、いけないことだとわかっていても、もう少しだけこのまま心地よい布団にくるまれていたい。ベッドの中で体を猫の様に丸める。本当に気持ちいい。


「香奈ちゃん……」


 困ったような母親の声。条件反射的にそれだけで胸が締め付けられ、泣きそうになる。それは彼女の豊かな感受性を象徴するものでもあったが、それがある意味彼女をいまだ普通の高校生という身分に縛り付けているものでもある。


「うー、起きる……起きるから……」


 根負けしたように香奈は呟いた。それでも胸に残るものは確実にある。学校なんて本当に行きたくないのだ。――誰もわかってくれない。本当に誰も。


「じゃあ、下で待っていますからね。朝ごはんの用意が出来ているわよ」


「……あさごはん……いらなぁい」


 香奈は言った。それが最後の抵抗だった。布団に身を潜めたまま、あと自分が何分こうしていられるか考える。いつも母親が起こしに来る時間から考えると、今は七時十五分。計算すると、大体五分。朝食抜きなら十五分。――十五分もまどろんでいられる。大きく息をつく。そんなに長い時間、まどろんでいられる。布団の中は優しい自分の匂いで一杯だった。なんて心地良いんだろう。少し潤んでいた目をゆっくりと閉じる。


 香奈の母親は、愛娘のそんな様子にそっとため息をつくと立ち上がり、先日までの修羅場のせいで小汚くなってしまった香奈の部屋のちらかった資料や道具などを避けるように出て行った。バタン。ドアが大きな音を立てて閉まる。


「……」


 一人残された香奈は、どういうわけか急に取り残されたような感覚を胸に抱いた。ベッドの中で体を丸くする。もしも家族に見捨てられたら? もう、自分のことなんて知らないと言われたら? あんなわがまま言う子は家の子じゃないと言われたら?


 どうしよう。


 どうしよう。


 どうしよう?


「嫌……だよぉ……」


 呟く。誰の耳にも届かない、その声。


 それでも、香奈がベッドから身を起こすのは、きっちり十五分後のことであった。


 階段をとぼとぼ下りる。まずトイレに行って、それから洗面所へ。歯を磨き、顔を洗い、髪を櫛で梳かす。女の子の朝の身だしなみ。最低限の身だしなみを整えるのは、彼女にとってごく当たり前のことだった。そうしない人間がむしろ彼女には信じられない。例えば、隣のクラスの山田さんとか――。話し掛ければ趣味も合いそうだと思うのだが、絶対に話し掛けようとは思わない。鏡を良く見て、父親からは可愛いと言われる自分の顔をチェックする。でも、他の人からはそう言われたことが無いのがとても気になる。自分でも悪くはないと思うのだけれど――。低いかなと思う鼻をちょっと摘んでみる。少しづつ映す顔の角度を変えながら、ぼんやりと鏡を見つめる。……。頭を振る。考えても仕方ないこと。それでもまた鏡を見てしまう。


「朝ごはんは?」


 鏡を見ているとたまたま通りかかった母親から声をかけられる。


「いらないって、いった」


 機嫌を害し、香奈は言う。本当は朝のことを謝りたいのだ。でも、いつもうやむやにしてしまう。本当の気持ち。本当の思い。本当にいつも言いたいのだけれど――。


「……そう」


 母親はそう言うと洗い物を胸いっぱいに抱えて、洗濯機のある勝手口の方に姿を消した。香奈は何か言いかけたが、口を噤む。そしてまた鏡に映る自分の顔を見つめ直す。


 アイロンがかかったばかりのシャツを階段前のハンガーから取って、また二階に上がる。パジャマをだらしなく脱ぎ、ベッドの上に放り投げる。シャツを着て、スカートを穿いて、セーターを着て、ブレザーを羽織る。コートは玄関。鞄を持って部屋を出た。階段の途中で気が付いて、香奈は一度部屋に戻り、昨日書いた次の即売会の申込書を鞄の奥にそっと入れる。準備はOK。そして今度こそ部屋を出た。


「――いって、きます」


 コートを身にまとい、手袋を嵌めて、香奈は小さな声で言った。


「いってらっしゃーい」


 それでも敏感に、母親は明るい応答の声を出す。しかし顔を出さなかった。やっぱり怒っているのだろうか? いや、きっと、洗濯が忙しいのだ。父親は香奈が起きる前にすでに家を出ていた。玄関を開けると、真冬の冷気が吹き込んでくる。


「さむ……」


 香奈はっその余りの寒さに小さな体を震わせる。そして、手袋を脱ぐと、かっこ悪いと思って開けて置いたコートの一番上のボタンを留めた。息が白い。今日は格別の寒さ。鼻息さえ僅かに白い。母親が言うには昔はもっと寒かったそうだ。だがそんなこと、香奈には関係ないことだった。寒いものは寒いのだ。体をそっと擦る。吐き出した息が白く淀んで世界と静かに混じり合う。


「綺麗……」香奈は心の中でそう思う。できることならずっと見つめていたい。もう一度息を吐く。香奈の白い息は渦を描き、冬の大気と交じり合い、幻の様に掻き消える。それで少しだけ香奈の機嫌がよくなった。


 それでもやはり外に飛び出すには僅かの勇気が必要だった。コートのポケットから時計を取り出す。もう、早足でないと、HRに間に合わない。――。突き動かされるように香奈は手袋を嵌めなおし、冬の世界に一歩を踏み出した。


 家の敷地を出て、白い息を吐きながら最寄の駅に向かう。最初は一人だったが、駅につくころには、周りに香奈と似たコートを着た学生の姿が見えるようになった。その大抵は自分と同じ学校に通う生徒。彼らはいつものように知り合いと出会い、互いに挨拶を交わす。そして止め処も無い会話があちらこちらで花を咲かせ始める。ここはもう小さな社交場。その話題は学校が休みの間に放送されたテレビ、ラジオとか、あるいはファッション、映画、休日の過ごし方。香奈は実のところその半分くらいの話題には付いていけた。いくつかの話題なら、彼女達よりも遥かに深いことを知っていた。――なぜなら、彼女達の会話はあまりにも浅すぎたから。だが、彼女に話し掛ける人間は誰もいない。歩く時も、電車を待っているときも。きっとコートのボタンを一番上まで留めているからいけないんだ。そう思い香奈は急いでボタンを外す。――あたりまえだが彼女に話し掛ける人間はいなかった。


 ――やっぱりそうなんだ。襟から入ってくる寒さを我慢しながら、香奈は一人考える。それでも、自分から話し掛けようとは思わない。いきなり話に割り込むのはみっともないから。きっかけがないから。話が合わないから。物の見方が違うから。――違う世界にいるから。そう、話したって仕方ない。いつものように、あんなに楽しそうな言葉のやりとりがだんだん減ってすれちがい、寂しい沈黙と会話の終わり、そして最後に話を壊した後悔が残るだけ。ビル風が吹き込んでくる中、香奈は必死に背筋を伸ばしてホームに一人立っていた。


 ――各停を待って、電車に乗る。


 学校までは約十五分。そこから歩いて五分。今の電車に乗る人は、大体朝のHRにぎりぎり滑り込むようなちょっと不真面目な生徒たち。男子、女子の区別なく集団でドア前に陣取り、ぺちゃくちゃと人の迷惑も考えずにおしゃべりに夢中だ。もうこの時間になると車内にはあまりサラリーマンの姿はなく、乗客のほとんどが香奈と同じ学生だった。香奈はそっと、そんな彼女達の会話に耳を澄ます。本当はやかましいと思いながら。でも耐え切れなくなる。彼らが学校の宿題について話し始めたからだ。側にいたのは同じクラスの生徒達だった。クラスの生徒達は香奈に気が付いて軽く会釈する。いきなり姿視線を合わせられて香奈は慌てて下を向く。そして朝に見た美しい夢を思い出そうとする。しかし思い出せない。何とか思い出した断片は今ではひどくつまらないものに感じられ、香奈はまた悲しくなった。心を紛らわすために中吊り広告を見上げてみる。目が止まるのはさすがに女の子らしく少女向けファッション誌の広告だ。見難いぴかぴかの文字で何か書いてある。香奈は漫画を描くせいであまり良く見えない目を凝らしてそれを読もうとした。


『みんなが気になる男の子のこと SEXのこと』


「ぁ……」


 顔をそむける。読んでしまった自分が恥ずかしい。同じ車両に乗っていた同じクラスの生徒の集団が、慌てる自分のことを見てみんなして笑った――様な気がした。俯く。じっと下を見つめる。座席に座っている大学生が広げているスポーツ新聞が目に入る。そして一瞬視界に映る、大写しで重なり合うカラーの裸体。真っ赤になってもっと下を向く。実際にはそれはプロレスの記事だったのだが、混乱した香奈にはそれがわからなかった。目をぎゅっと閉じる。閉じた視界に浮かぶのは、指を差して自分のこと笑う同じ学校の生徒。忘れてきた宿題。やってこなかった予習。夢見る、ロマンティックな夢のグロテスクな断片。どうしてあんなのに夢を見ていたのかわからない。――なんて恥ずかしい下劣な妄想。ガタン。急に電車が揺れる。香奈は想定していなかったその振動に対処できなかった。前に倒れ掛かり、前にいたお兄さんのスポーツ新聞を踏み潰し、膝をのし上げてしまう。


「……あ、ごめん、なさぃ」


 香奈の体重は軽いとは言え、突き出された膝はかなり痛かったのだろう、大学生らしいその男は無言で不愉快そうに新聞を折りたたみ、香奈のことを睨み付けた。その視線に香奈がまともに対抗できるわけはなく、俯いてしまう。それが失礼な態度であることはわかっていたのだが。


 アハハハハ。


 聞き覚えのある笑い声。さっきの同じクラスの集団だ。きっと、自分のことで笑ったに違いない。もう、駄目。香奈はこの電車からいますぐ飛び降りたかった。


 大学生は別に香奈を責める事は無く、また無言で畳んだ新聞を読み始める。


 その男は次の駅で降りた。大学が集まっている駅だった。歯抜けの様に座席が空く。私鉄と連結している駅なので結構な人がここで降り、また多くの人がこの駅で乗車する。香奈の前の席にはぽっかりと穴が開いていた。香奈はなんとなくその席に座る気にはなれずに、立ったままだった。しかしこの駅で乗る人はかなり多いのに、だれもその穴に座る人はいない。他の席には次々人が埋まるのに。ドアが閉まる。香奈は次の人が座りやすいように微妙に体をずらしてみた。それでも誰も座らない。車内は結構混んでいるし、スーツ姿のサラリーマンの姿もちらほらと視界に入る。


 ――どうしてなんだろう。


 香奈はここから逃げ出してドアの端に移ろうと考えた。しかし、そこには同じクラスの生徒達がいた。――動けない。彼らの視線の手前、不自然な動きは出来なかった。実際何を言われるかわからない。吐き気がこみ上げる。だから学校なんて行きたくなかったんだと、香奈は泣きそうになりながら思った。もしかしたらさっきのお兄さんも自分のことが不愉快で電車を降りたのではないだろうか。香奈は小さく咳き込む。そしてそれがまたこの席に誰も座らない理由なのではないかと思う。ここに自分がいるから。――ここに自分がいるから。まあ、それは半分事実なのだが。香奈の立っているところは空いた席に座るにはちょっと邪魔な位置にある。結局、香奈の前のその席は彼女が降りる駅まで空いたままだった。


 電車はようやく香奈の学校のある駅に着いた。その時には香奈は完全に打ちのめされていた。このまま電車に乗って終着駅の海のほうまで行ってしまいたい。しかし、それは他の生徒達の手前、絶対に出来ないことだった。香奈は後ろ髪を惹かれるように鞄を持って降車する。待っていたかのように電車のドアは閉まった。ゆっくりと動き出す。香奈は鞄をぎゅっと握り締めた。この鞄。網棚に載せていれば、忘れたといって電車を追いかけることもできたのに。でもそれは後で笑われるだけだろう。これでいいんだと言い聞かせて顔を上げる。他の生徒たちがルーチンワークの様に自然に東口の改札に向かうのが見えた。香奈もなるべく自然にその後を追う。――もっとも、彼女が一番最後だったが。

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