最終話 六十年前の雨って?

「そうそう、もう一つ放射性物質の話をしてあげるわ」

 それはまた恐ろしい話なのだろうか?

 お願いだからもうカンベンしてほしい。

「武蔵野台地に放射性物質が降り注いだのは、九年前だけじゃないのよ。六十年前にもあったの」


 六十年前!?

 父さんも母さんも生まれる前だ。

 それって昭和? いったい何があったんだろう?


「アメリカとソ連が水爆実験を繰り返したせいで、世界中にトリチウムの雨が降った」

 トリチウムって、僕もニュースで聞いたことがある。

 それって福島原発の汚染水とかなんとかって話だったような……。

「雨水のトリチウム濃度はね、最大で今の百倍以上に跳ね上がったのよ」

 ひゃ、百倍!?

 さっきの二倍を遥かに超える倍率じゃないか。

「残念ながらトリチウムは森に吸収されにくい成分。だからその痕跡を、今でも地下水に見ることができるの。さっき話した武蔵野三大湧水池って覚えてる?」

 えっと、善福寺池と井の頭池と、あと何だっけ?

「そこのトリチウム濃度を測定すると、周囲の河川よりもちょっとだけ高い値が出るんだって」

「それって、どういうことなんですか?」

「あら、今までの話を聞いていた少年なら、もう分かるんじゃない?」


 えー、僕に分かるかな?

 六十年前の雨水は、トリチウム濃度が百倍になったというのが今の話だった。

 そんでもって、善福寺池って昔の多摩川の砂利が関係しているって話だったっけ?

 善福寺池は三大湧水池で、砂利は湧き水の通り道。ということは――


「六十年前にしみ込んだ雨水が湧いている……とか?」

「正解! すごいじゃない少年。そうなの、昔の雨水がちょっと混ざってるんじゃないかって考えられてるの」


 それからお姉さんは詳しく解説してくれた。

 雨水のトリチウム濃度が高かった時代は、六十年前からしばらく続いたらしい。ということで、ちょうど六十年前というわけではなく、四十年前から六十年前という具合に幅があるんだそうだ。

 どちらにしても、数十年前に武蔵野台地に降った雨水が、台地の東で湧き出していることには変わりない。

 ということは、僕らがこの場所で行うことは、後の世界に影響を与えるかもしれないんだ……。


 それよりも僕は嬉しかった。お姉さんに褒められたことが。

 空堀川の秘密、そして狭山丘陵の成り立ち。

 僕にはまだまだ知らないことが沢山ある。空堀川みたいって言われて、くよくよしてる暇はないんだ。あの川底には、大昔の多摩川という潜在的な奔流が眠っているのだから。

 

「これでわかったでしょ? こんな風に何か異常があった時のために、何もないってことを観測しておかないといけないのよ」

「なにかすごく大切な研究に思えてきました。僕にも何か、手伝えることはないですか?」

「ありがとう。そういえば自己紹介がまだだったわね。私、のぞみっていうの。大学院一年生。じゃあこのボトルを持ち上げてくれるかな? 雨水って重くて、移し替えるのが大変で……」


 ――何もないことを観測する。

 とっても地味だけど、希さんと未来の世界の役に立てばいいなと思いながら、僕は白いプラスティックボトルに手を掛けた。



 おわり

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武蔵野樹林に降る雨は つとむュー @tsutomyu

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