何も知らない先生の話

隅田 天美

何も知らない先生の話

「すいません」

 私は黒板を背に、その場にいるクラス全員に謝る。

 議題は【隅田を変えるにはどうすればいいか?】

「私はおろかで醜くて馬鹿で万死に値する人間です。どうかお許しください」

 土下座をする。

 誰も止めない。


「隅田」

 呼ばれて目を覚ました。

 目の前にはたくさんの数式を書いたノートがあった。

――ああ、数学をやっていたんだ

 ぼんやり現実を理解する。

 所々がにじんでいるのは涙のせいだ。

 目の前には副担任の先生が心配そうに見ていた。


 ここは特別教室。

 とは言っても、簡単に書けば空いている会議室をそのまま流用した、私だけの特別教室だ。

 そこで私は老年の男性教師たち二人に勉強を教えてもらっている。


 副担任も見た目六十代に差し掛かった男性教師だ。

 すらりっと細い先生と比べると太い。

 私のように太っているわけではないが元々筋肉質なのだろう。

 その先生が対面するように立っている。

「すみません」

「……さすがに一日で数学百問はキツイか?」

「いえ、楽しいです」

「そうか」

「すみません」

 副担任は部屋を出ようとして、戻ってきた。

「隅田。お前、一々いちいち謝るのな」

「すみません」

「ほら、それ」

 先生は椅子を引いて座ると前に身を乗り出した。

「意味なく謝るな」

 その口調に私は先ほど夢に出た悪夢を思い出した。

 胸が軋む。

 脳が沸騰する。

 関節が悲鳴を上げる。

「ごめんなさい、すいません、許してください」

 無意識で私は頭を抱えて震えて泣いていた。

「どうした?」

「不快にさせてすいません。死ぬから許して……」

「だから、どうした?」

 私はキッと前を見た。

 きっと、私の目は怒りと狂気に満ちていたはずだ。

「『どうした?』 ふざけないでください! あなたたちは、私に『死ね』だの『消えろ』だの挙句の果ては『お前なんて生きている価値なんてない』って私の人格全てを否定しようとして癖に……今さら……今さら……」

 自分でもわかる。

 私の中で過去と今が混ざっている。


 病院の先生が言っていた。

「隅田天美さん。あなたの脳はとても賢い。特に言語関係は群を抜いています。でも、それは同時に過去の嫌な経験も忘れられないということです。残念なことですが、薬で緩和は出来ます。でも、嫌な経験、我々は心理的外傷PTSDと呼んでいますがそれは体の傷のように治癒することはできません。なんらかのストレスやショックで傷はうずき痛むでしょう」


 脳内で大合唱になる『死ね』『消えろ』『大嫌い』『迷惑』などの言葉。

 副担任の先生は関係ない。

 でも、口に出した。

「何も知らないくせに」


 副担任の先生は意外なことにノーリアクション、無反応だった。

 普通ならここで私に激怒するなり号泣するのが定番だ。

 は、そんな私に『幸せになれ』と言ってくれた。

 この副担任の先生はこう言った。

「そうだな、何も知らない俺が何か言うのもおこがましいのかもな……じゃあ、隅田。何も知らない俺にお前の話をしてくれ」

「は?」

 私は戸惑った。

「私のことは……」

「あの先生や通知表では知っているよ。でも、お前の心の中はお前にしか語れない」

「でも、私は過去と今が……」

「ああ、それなら大丈夫」

 副担任の先生は手を差し伸べた。

「不安になったり怖くなったら俺の手を握れ」

 恐る恐る副担任の手を握る。

 武骨で太く、厚い手はなぜか安心でした。


 私は話し始めた。

 過去、ある先生が不機嫌で教室にやってきて、いきなり私を黒板の前に呼び出し殴りつけこう言い放った。

「こいつは人間の屑だ。こいつをまっとうな人間にさせるためにお前たちの意見を言え!」

 そこから始まる罵詈雑言。

 その先生はそれを喜んだ。

 悔しかった。

 悲しかった。

 辛かった。

 最後に先生が言った。

「お前のためにこんなに素晴らしい意見が出たんだ。感謝を言え、土下座してな」

 そして、冒頭の行動をする。


 私は再び泣いていた。

 同時に怖かった。

――悲劇のヒロインぶっている

――その先生は本当に親切心で言っているんだよ

 そんな擁護をする言葉を何度も聞いた。

「何、そのクズは?」

 目の前の副担任の先生は静かだった。

 でも、怒っていた。

 私に対してではない。

 に対してだ。

「え? 私に対してヒロインぶっているとかその先生はいい先生みたいなこと言わないんですか? 過去と今が混ざっているとか言わないんですか?」

 今度は私が戸惑った。

「何で? 俺は隅田を悲しませた奴に教師は名乗って欲しくないし、ヒロインも何もそう心の傷を受けたなら、それが事実だろ?」

 副担任の先生はもう片方の手を出して私の手を両手で包んだ。

「でも、確かに過去と今が混ざると大変だよな。だからな、隅田。で一つ一つ過去を片付けていこう」

 ますます私は混乱した。

「え? 過去を忘れるのでも捨てるでもなく?」

 副担任の先生は不思議そうにしている。

「過去を早々簡単に忘れたり捨てろというほうが俺からすれば無責任だね……大変だと思う。だけど、それだけの価値がある」

「その価値が私にありますか?」

「……最初から価値があるものに意味はないけど、努力して得た価値なら誇っていい……しかし、お前さんも贅沢ものだね」

「は?」

「人たらし、と言いたいの」

「はあ」

「でもな、俺は厳しいから一つ条件を付ける」

 私は背筋を伸ばした。

「意味なく謝るな。お前が予防線で意味なく謝ることは、俺やあの先生にとって『ああ、自分も理不尽に虐めていた奴らだと思われているんだ』と感じる。これは辛いし、悲しい」

「……」

「担任の先生な、あれでナイーブでお前が意味なく謝るたびに自分のことを責めているんだ」

「……どう言葉にしていいか分かりません」

 副担任の先生は苦笑した。

「今は分からないでいい。でも、俺のように怒ることもある人もいるし、せめて理由はセットにしておけ」

「はい」

「以上、俺からのお説教は終わりだ」

 副担任の先生は明るく言う。

「あ、そうだ。一つだけ、俺とお前の秘密が出来た。あの先生な、ナイーブなんて言われた日にゃ自尊心プライドが崩れるから、俺が言ったことは秘密な」

「はい」

「それから、俺が説教したとも秘密にして欲しい」

「はい」

 そこに担任の先生が入ってきた。

「面倒な事務作業が終わったから早めの昼飯にしようや」

「お疲れ様です」

「午後の授業どうします? 隅田の話を聞いていたから途中までしか……」

「今日は、数学の日だから午後も引き続きやろう。隅田、出来るか?」

「やれるだけやります」

 担任の先生は満足げに頷く。

「さて、給食を取りに行こう」

 担任の先生の号令に私と副担任は顔を少し見合わせ笑った。

「何だよ、お前ら」

 不思議そうな先生に私は言った。

「何でもありません」

 そう言いながら立ち上がる。


 すでにカレーのいい匂いが教室まで来ていた。

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何も知らない先生の話 隅田 天美 @sumida-amami

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