ユニコーン

狐火

第1話

 「赤間先生、こんにちは」


 私は自分の勤める病院の精神科を訪れた。もう何年も通っているその精神科の新島先生は私の来訪を喜んでいる様子だった。


「今日もよろしくお願いします。」


 私は新島先生に頭を下げた。新島先生は私の20歳ほど年上で今年60歳になるそうだ。


「毎週赤間先生とお話しできるのを私は楽しみにしているんですよ。」


 そう言ってカルテを広げる新島先生。もう何年もこの精神科に通っているが私の記憶はいまだ戻らない。私が記憶を失ったのは20歳の頃でもう20年も前のことだ。医者を目指していた私にとって記憶をなくすことはとても辛い出来事であったが不思議と学問に関しての記憶は失うことがなかった。家族や、いたであろう友人ことなど人間関係については何も覚えていない。


 20年前、ふと目を覚ますと私はベッドで寝ていた。起き上がり自分の体を見ても自分がどこの誰なのか見当もつかず、ひどく混乱した。私はパジャマを着たまま外に飛び出したが、頭痛と吐き気が体を襲いその場にしゃがみこんだ。そこをたまたま通りかかった同級生に助けられこの病院に送られたのだった。


 病院で寝ていると何人かの人間が私の病室を訪れたがどの人間の記憶も思い出すことが出来ず、きっと母親なのであろうと思しき人も訪れたが、私はまるで他人であるかのように立ち振る舞った。その日その人は泣きながら病室を出て行ったがそれからほぼ毎日私の病室を訪れた。しかし私の記憶は少しもよみがえることのないまま、私は退院の日を迎えた。


「何か困ったことがあったら連絡してね」


 そうその人は言った。


「ありがとうございます」


 私が頭を下げてそう言うと何かを悟ったような表情を浮かべ、その人はその場を去った。それから私はその人に一度も連絡することはなかった。連絡先も全て削除してしまったので、今更連絡を取ることもできず、今ご存命であるのかどうかすら分からない。


 記憶を取り戻したいと思っていた私は退院後この病院の精神科に通い今もその習慣は続けていた。記憶は取り戻せないものの医者になりたいという野望は捨てきれず私は必死に勉強し、新島先生が勤める病院の小児科で医師として働くことが出来ている。


「赤間先生、この間の手術素晴らしかったですね。親御さんもたいそう喜んでいましたよ」

 

 ここの病院の小児科は完治が難しいとされる子供たちが訪れる病院で、私の手術の腕前は日本中に知れ渡るほど有名であった。


「経過観察中なので、まだまだ油断はできませんが」


「赤間先生は本当にクールですね」


 この新島先生はとても温厚な女性であった。精神科医としてももちろん優秀であるが私はカウンセラーとして彼女を尊敬していた。私は新島先生にならなんでも自分の心根を話せた。


「赤間先生が初めてこの精神科に来てから、もう20年も経つのですね」


 新島先生は昔を思い出し目を細めた。


「もう20年になりますね。早いものです」


「天音ちゃんはお元気ですか?」


 天音というのはこの病院に運ばれてきた孤児で私が引き取った子だった。


「ええ、元気です。もうそろそろ12歳になります」


「大きくなりましたねぇ」


 今日もきっと私は新島先生と他愛もない話をして時間を終えるのだろうな、と思った。最近私はもう、自分の昔の記憶を取り戻そうとする活力すら失われ始めていた。でも新島先生は自分の中で数少ない信頼できる人間であったため、私はここの精神科に訪れることをやめようとは思わなかった。


 私にはこの世界で生きることがほかの人間よりも苦である。なぜなら私には、『なぜ生まれたのか分からない得体のしれない美の定義』が自分の中にあったからだった。


 私はこの世の中の女性の美しさは処女であるか非処女であるかで決まると思っている。私自身も処女であるし、性行為に非常に嫌悪感を持ち、非処女である女を美しいと私は思えない。だから私は自分の好きな人間である、純粋な子供が集う小児科の医師になることを選んだ。


 産婦人科の前を通ると鳥肌が止まらなくなる。それでも生まれてくる子供の命を尊いと感じ、またその命を救いたいと思う。子供を美しいと思いその子供を産んだ母親を醜いと思う、不思議なものだ。私の『美しい』の定義は矛盾している。勿論、自分が医師でありながらこんな思考を持っていることの危険さは承知している。だからこそ私には自分の悪を話すことで、少しでも自分の悪を自分から追い出すために新島先生の精神科に通うことを選んでいるのだ。


「赤間先生」


 新島先生が私の名前を呼んだ。


「はい」


 私は気軽に返事をした。しかし私の軽率な返事とは打って変わって新島先生は深刻な顔をしていた。


「実は、私そろそろこの仕事を降りようと思っているんです。」


 急に告げられた、別れの言葉に変わる一言。私は目の前が真っ暗になったような気がした。


「そんな、新島先生……」


「でもね、私はこの仕事で赤間先生の記憶を取り戻すことが出来なかった。これが一番の心残りなんです」


「じゃあやめないで下さい」


 私の必死の頼みに新島先生は細く微笑んだ。その微笑みは初めて会った時から変わっていない。


 新島先生はデスクの引き出しからある書類を取り出し、私に見せた。私はその書類を一目見て、全てを悟った。唇を噛み締め、すぐには変えられない現状を悔やんだ。


「去年から体調がすぐれなくて病院にかかっていました。私はステージ2の胃がんです」


 私は冗談だと言ってほしくて新島先生を見た。けれど新島先生は落ち着いた表情で笑顔を見せた。その笑顔で私はこの事実を受け入れなければならないのだと分かり、一気に涙腺が崩壊する。


「薬も飲んでいるせいで体がとても辛いんです。でもね、私は赤間先生のことが心残りで仕方ないの」


 肩を震わせて泣く私の背中を新島先生は優しく摩った。何か言わなければと思うがうまく言葉が出てこなかった。


「赤間先生には記憶を取り戻してほしいなって思うのよ」


 私は首を横に振った。


「もう今更、こんな歳になってしまったし記憶は取り戻さなくていいかなって思うんです」


 私は嗚咽を我慢しながら言った。


「いいえ。赤間先生は苦しんでいるはず。その苦しみの根源は無くした記憶の中にあると思うの」


 私はようやく落ち着いてきた呼吸を整えようと息を吸った。新島先生は私にティッシュを差し出した。そのティッシュを受け取り、私は自分が泣いてしまった不甲斐なさでつい笑ってしまった。


「でもどうやっても私は自分の記憶を思い出せないんです。どんなに自分に問いかけても昔住んでいたと言われる場所に行ってみても何も思い出せない」


 私は新島先生から渡された書類を返した。


「今まで私は赤間先生の頭の中にあるかもしれない記憶の断片を掴もうとしていたけれど、そうじゃなくて事実を確認するのが一番だと思うの」


 私は新島先生の言っていることがよく分からなかった。


「つまり、どういうことですか? 新島先生」


「赤間先生の思い出せないことを全てご家族に聞けばよいのよ」


「でも私は母の連絡先も全て削除してしまったんです」


「調査してくれる人なんて山ほど居るわよ」


 そう言うと新島先生はまたデスクの引き出しから書類を出した。その書類は探偵事務所のパンフレットだった。


「センシティブな問題だから信用度が高いところのパンフレットを集めてみたわ。お金もそれなりにかかるけれど、もしかしたら事実を知ることで赤間先生の心の闇が晴れるかもしれない」


 私はパンフレットをじっと見た。強制的に過去を調べること、それは今までやろうと思えば取れた手段だった。けれどそれを避けていたことは新島先生も薄々気が付いていただろう。


「考えてみます。ありがとうございます」


 私はそう言ってパンフレットをカバンにしまった。


「本当はあまりとってはいけない手段なの。事実を知る衝撃が大きくてパニックになってしまう人もいるから。だからもし付き添いが欲しければ私も携わるし、なんでも言って下さい」


「わかりました」


 時計を見れば30分が経っていた。そろそろ私に与えられた新島先生との会話の時間が終わる。


「新島先生、いつまでこのお仕事を続けるのですか?」


「今月いっぱいかしら」


「そんなに早く……」


 本当ならば新島先生の体を労わるべきなのだが、私はショックを隠し切れなかった。


「赤間先生とは連絡先も交換しているし、いつでも家に遊びに来てくださいな」


「ええ、もちろん」


 私は立ち上がり荷物を持った。


「来週はどうします?」


 新島先生はカレンダーを見ながら言った。そのカレンダーには空いている診療時間の記載があった。


「……来週はちょっと忙しくて」


 私は嘘を付いた。


「あら、じゃあ来れる日があったら気軽に教えてくださいね」


 新島先生は疑いもせずカレンダーから目をそらし私に笑顔を向けた。


「はい、また来ます」


 私はそう言うと頭を下げた。


「ではまた会える日を楽しみにしていますね」


 新島先生は別れ際にいつもそう言う。けれど今日ほどその言葉を重く受け止めた日はなかった。私はもう一度だけ軽く頭を下げて精神科を後にした。


 咄嗟についた嘘は本当に条件反射のようなものだった。新島先生とあと何回会えるのかとカウントしてしまう自分を悲しく思い、あえて会うことを回避した。悲しみを助長させてしまうだけなのに私は新島先生を忘れようとしている。


 医者になっても死というものにいまだに慣れることはない。勿論、ステージ2ぐらいなら直ぐに死ぬとは思えないけれど、確実に新島先生の命は病魔に削られている。そのことを思うだけでひどく悲しいのだ。


 私の姿を見て頭を下げる看護師たち。大体の人間に嫌悪感を持ってしまう私の、数少ない憩いの場だったあの精神科がもうすぐ無くなってしまう。その事実はなんて悲しいのだろうか。


 この嫌悪感も全て払拭できるのなら私はどれほど楽に生きることが出来るだろう。心のよりどころを一つ失う私は少し気弱になっていた。先ほどのパンフレットが脳裏にありながらも、急患がいるという看護師の呼びかけによって私は帰宅することをあきらめてまた白衣に袖を通したのだった。


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