隼のテアン

メラー

隼のテアン

 蝉は、一切音も立てず、力なく低く飛んだ。彼女はそれを見るともなしに目で追っていた。青年もまた蝉に気がついていたが、ほとんど気にもかけなかった。夏は終わりかけている。


 青年の日課である夜の散歩は、彼女が唯一自由に羽を広げる時間だった。彼女の名はテアン、青年の飼うハヤブサは、彼の一番の友人であった。テアンは涼しくなり始めた空を楽しみにしているのか、いつになく強く彼の腕をつかんでいた。彼が景色を眺め立ち止まる度に、羽を広げ飛ぶ準備をした。テアンは賢い鳥だ。まだいつもの公園に着いていないことを知っていたはずだ。だが、彼女は青年の顔を見つめながら、ゆっくり羽を広げ、二、三度ゆっくりはばたいてみせる。すると彼は「まだだよ」と言い、テアンの頭を撫でる。


「君は悪夢ってどう思う?見たことってあるの」


 テアンは彼をしばらく見つめ、何か思い出したように体を震わせた。ちょうど水から上がったほとんどの動物がそうするように。


 星は見えず、遠くに新聞配達の単車のエンジンだけ、それ以外は全くの静寂だった。完全な夜であるに関わらず雲は明るかった。


 公園に着いてテアンの足に結ばれた紐をほどくと、彼女は振り向きもせずに勢い良く羽ばたいた。まず公園を二、三周して、それから彼の腕に戻り頭を撫でてもらう。それが彼女にとっての準備運動なのだ。そうするとテアンは裏山へ飛び立つ。この公園の裏手は山になっており、テアンは狩りの真似をして遊ぶ。


 テアンが飛び立つと彼は池を眺めながら、テアンと言う名の人間の女性を思い出そうとするのだ。テアンは彼の恋人、彼がかつて夢に見た恋人の名前だった。彼はそれまでの人生で、自分の会ったことのない人間に夢で出くわしたことがなかった。そして自分の聞いたことのない音のする名前を、夢で知ったことはなかった。テアンという女性に夢の中で出会うまでは。


 テアンは長い髪を織姫のように結っていた。オーロラ折り紙のようなピンク色の服を着ており、金色の耳飾りをつけていた。夢に始まりはない。彼は気づいた時、もうそのテアンという女性と親しい関係にあった。彼は自分よりもかなり背の高いテアンという女性と二人、採光のよい長い廊下に立っていた。


 テアンの顔立ちは彼にウズベクを想像させた。明るい色の皮膚の下に青黒い層を隠しているような、見入ってしまうような外国の肌に、黒く大きな瞳、その目の周りは鋭い縁があるように錯覚される。


 荒い板壁の隙間からは強い光と、体温よりも冷たい風が好きなだけ出入りしていた。彼はふと隙間から外を覗こうとするが、彼には強い光以外に何があるのかは分からない。彼は廊下を渡り切ることも、外を見ることも、テアンの声を聞くこともなく夢から覚めた。


 明け方、青年は鼠色の暗い部屋の中で夢を忘れまいと手帳にテアンと名を書き、記憶をたどって彼女の姿をスケッチしたのだった。織姫の髪は飛仙髻という中国漢王朝時代の髪型だと分かった。彼は毎朝、漁港でアルバイトをして、夢を見た二か月後にネットの通販で中国の隼を買った。段ボールに入れられた小さな隼のヒナは、目をぱちくり彼の顔を見て、すぐに懐いた。


 隼のテアンが彼のもとに来て十年が経っていた。当時高校生だった彼は、二十七歳だった。彼はテアンを恋人の様に愛し、丁寧に世話をした。夜の散歩も欠かさなかった。今日は彼女の十歳の誕生日だった。


 満足するまで飛び回ったテアンを腕に乗せ、帰り路に彼は水田の脇の小川に寄った。彼はテアンを地面におろしてやり、カエルを五匹捕まえた。もうすぐ秋が来る。川には一週間かけても捕まえきれないほどのカエルがいた。

彼は川から上がり、カエルをテアンに食わせてやった。


「本当は十匹あげたいところだけど、テアンのお腹はそんなに大きくないから。明日も五匹食べさせてあげる」


 テアンは他の隼に比べると少食であるようだった。だが、五匹はあっという間に平らげ眠たそうな顔で彼の腕に飛び乗った。


 次の日、彼の家に警察が来た。

その隼は絶滅危惧種であり、国の天然記念物でもあります、また外国産である場合は血統の明らかでない場合ワシントン条約に反しますし、また日本の自然環境に及ぼす影響が大きいことも近年の研究により明らかになっており、鷹狩を行うには資格・申請が必要になっております、無許可での飼育は室内飼い、放し飼いを問わず違法、また近隣住民から、深夜に猛禽類を連れて歩いている男がおり安心して眠れないとの通報もあり、よって、あなたご同行頂けますか、鳥は一旦預かりますので。

警察はテアンをただ、鳥、と呼んだ。

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隼のテアン メラー @borarasmerah

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