第44話 悪夢
あんまりよく覚えてはいないけれど。何時間にも及ぶ死闘を終えたチグリスは、それはもうぐちゃぐちゃな汚れがベッタリでひどい有り様だったはずだ。だいたい敵の体液とか、欠片とか、なのだと思うが。
あの白く輝いていた装甲にも随分と傷をつけたし、
格納庫から出てきたメンテ明けのチグリスは、あの汚れはどうしたというほど白い輝きを取り戻し、かつ目立った傷さえキレイさっぱり消えていて、多少は兵器らしい見た目になると期待していた僕をがっかりさせた。
まぁでも。ここまではいい。ここまでは。
なんで。なんでチグリスの右肩から胸部にかけての装甲だけが目も覚めるような真紅になってるんですかね。
「なぜって。ここの装甲は表面へ断裂入ってましたからね。さすがに
「自己修復機能?」
「
相変わらず妙なところに行き届いたギアローダーだ、チグリス。
「ともかく、そのままにすると防御力に関わる損傷だったので換装しました」
換装で赤くなるってのはどういうことだ。
「なぜって。
「そこは同じ白いのにしてくださいよ」
これじゃあゲラゲラ笑った先輩に「白ピカ赤筋入り」とか呼ばれそう。
上官は憮然とした顔になる。
「いちいち同色機を探すなんて、そんな手間は掛けられません。我が儘を言わないように」
すみませんと一応謝るが、白い機体にこの赤が入るのは、絶対変だと思う。ますますチグリスは目立つ。悪目立ちだ。
「……というか、そのバラされたチグリスは、もしかして全身がこの赤、ですか……?」
ものすっごい赤だし、まさかね。と思いつつ聞けば、上官はあっさりそうだと頷いた。
「他にも青とか黄とか紫とか、いろいろありますよ。ああ、ピンクもありましたね、確か」
まじか。チグリスは実はやっぱり兵器じゃないだろ、これ。あるいは僕は、真っ白なチグリスどころか真っ赤なチグリスに乗る羽目になっていたかもしれなかったのか。危なかった。
「さあ、時間が勿体ないのでさっさと乗ってもらえますかね?」
情け容赦のない上官にチグリスへ押し込まれる。
「絶対、絶対に声は繋いでください、絶対」
「あー。はいはい。大丈夫ですよ」
扉が閉じるまで、なんだか面倒臭そうな顔をしている上官を睨んでおく。まったく。とても大事だから面倒臭がらないでほしい。
それでも久しぶりに収まるチグリスの内部は相変わらずの居心地の良さで、僕は少しだけ落ち着いた。手順を踏んでチグリスへ接続。これも久しぶりの感覚だ。チグリスとしての視界がクリアになり、接続完了。
そして。
思い出す。
感覚が甦る。
少しも褪せていない。恐怖や怒りや悲しみをぶちこんだ衝動。快感、歓喜、純粋な殺意。
全部。夢のように忘れていたそれが、
ああ。僕はあの戦場で。僕がちゃんと戦った。
「どうかしましたか? 問題ですか?」
上官からの通信が入る。
「別に」
押し寄せる記憶に翻弄されていても、チグリスのフラットな合成音声は平然と応える。どれだけ僕が戦場の惨劇にうちひしがれようと、目も喉もない
「そうですか。知覚系統はどうですか? 異常はないですか?」
チグリスの知覚は戦闘の最中と変わらず研ぎ澄まされていた。すぐ外の上官の動きも分かるし、格納庫のあちこちで働く技術者も関知できる。なんなら基地全体の人間の息吹さえ分かりそうだ。
「特に。問題なく」
「……そうですか。駆動系統や挙動は? 反応しない部位はないですか?」
今すぐに戦えと言われるとしても、突然にスカイデーモンの群れの中へ投じられるとしても、
僕の“頭”は喜んでいる。はるかに優れた知覚と体力を持つ
僕の“体”も安息しきっている。静かで穏やかな
ただ僕だけ。僕だけは吐き出すことのできない苦しさに首を絞められているようで、とにかく暴れるかチグリスから降りて吐きたいと切に願う。
「どこかほかに問題はありますか?」
問題はない。チグリスに問題はない。
やっとテストが終わって僕は所定の手順でチグリスとの接続を切る。戻ってきた自分の体の感覚を確かめながらチグリスから這い出す。僕は体のコントロールを取り損なって床へへたりこんだ。
気持ち悪さが込み上げ、ずきずきと頭が痛くなり始める。
チグリスを降りれば、また戦場の光景は夢のように遠くなると思っていたのに。脳裏にちらつく映像は多少の鮮明さを欠いた程度で僕の記憶としてこびりついていた。
みかねた上官がバケツを差し出してくれる。吐けば少しは楽になるかもしれない。けれど“体”は吐く用意もなにもしていなくて吐いてくれず、かえって喉の奥が痛くなって
「これは機体ではなくて精神の問題ですかね。ワタシにはどうにもできないです」
観察するような上官の視線が怖くて、僕はバケツの底をひたすら見つめた。
「必要であれば医官に相談して向精神薬をもらいますけど、あれは神経接続系とは相性が悪いのでお勧めしません。どうします?」
よく分からなくて、恐くて、僕は首を振って必死に拒否した。なんにしろ本当に必要なら、どうせ僕に聞いたりしないで投与されるんだろうが。
「そうですか。ではしばらくは経過観察ですね」
ずきずき痛む頭は戦場の記憶を無限に再生しようとする。体はまったく言うことを聞かない。
上官の視線に見送られながら、無理矢理なだめすかして体を動かし、寮の部屋までの道を辿る。部屋に着いたら、すぐに寝袋を引っ張り出して寝よう。それだけを考えた。
なんとか潜り込んだ寝袋の中、目を閉じてもぐるぐると映像は巡る。飛びかかってくる敵。掠める爪。弾ける血肉。噛み砕かれるローダー。引き裂かれる人。これが自分の記憶だとやっと気づいた体が勝手に涙を垂れ流し始めて、今さら泣いてどうすると僕は思うのだが、止められるわけでもなく、ぐずぐずと鼻をすすり続ける。
疲れに意識を奪われて、ようやくうとうとした途端に先輩の千切られる姿を見て、何度も僕は飛び起きた。
息が苦しくて仕方ない。どうしたらこのしんどさから解放されるのか、僕には少しも分からない。ただ呻きながら記憶を見続けるしかなかった。
この部屋に殿下がいなくなっていて本当に良かったと思う。もしいたら、僕は夜の間中うるさくして、随分と迷惑をかけただろう。
ただ。僕はなんだか今ものすごく、皇女様に、会いたい。
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