城砦の囚われ人
第39話 事故
寮の自室へ戻れるのは、ずいぶんと久しぶりだった。
押し寄せたスカイデーモンが残らず駆逐され、本部の偉い人が戦闘終息を宣言。そうしてやっと兵士は基地へ帰れる。
たった一人戦場に残された僕は、暫くしてやって来た掃討班とかいう人たちに回収され、チグリスから引っ張り出され、終息宣言と共に基地へ送られた。そのまま白い病室へ入れられて、血を採られたり脳波を測られたり。よく分からない検査が続いた。別に僕は大丈夫だと言っても誰も聞いてくれない。
そう、僕は大丈夫だった。しかも戦場でのことを思い出せなくなっていた。
僕はチグリスで見て、感じて、動いて、敵を殺した。でもチグリスを降りた体には、その感覚も記憶もちっともなくて、時間が経てば経つほどに、なんとなく夢でも見ていたような、覚えているのに覚えていない、そういう感覚になった。
かえって僕が覚えていたことといえば、見張り台で先輩と呑んだ時のことだ。照りつけた太陽や乾いた空気、先輩のニヤニヤ笑い、まずい酒、遠く指差された地平線。それを僕の心臓が覚えているんだろう。思い出すと胸がきゅうきゅう締め付けられる。
とにかく僕はもう早く部屋へ戻りたかった。戻って皇女様に無事に帰ってきたことを教えたかった。けれどじたばた暴れてもベッドへ縛り付けられるだけだから、努めて大人しく従順を装うこと数日。
「460301番、寮へ帰って良し。自室にて休息後、明日午後より通常業務へ戻れ」
やっと僕は帰れる。
もう時間も遅く、寮の廊下は静まり返っていた。僕は部屋の扉の前で立ち止まる。
どんな顔でただいまって言おうか。
僕に生きて帰ってこいと言ってくれた皇女様は、きっと僕が戻ってきたことを喜んでくれるだろう。それに対して素っ気ないただいまでは気取りすぎだし。はしゃぐのも格好悪い。さりげない自然な微笑みで、静かに落ち着いた明るいただいまが言いたい。
ちょっと心の準備をして僕は扉を開けた。
「ただいま」
……部屋の中は静かだった。あれ、皇女様が。いない。いつも僕が戻ってくるときは必ずいる皇女様が。
ロフトの上を見ても、机の下を覗いても、クローゼットを開いても、どこにも姿はない。なんで。当然のように出迎えてもらえると思っていた僕は動揺した。
もう一度あちこちを探す。なにか書き置きとか、あるいはポテチの袋みたいな痕跡でもないかと思ってうろうろする。そうしてみれば、確かに彼女は僕の留守中もここで過ごしていただろうことは分かった。僕が出る前にきっちり整頓しておいた机の物が勝手に動かされている。でもじゃあ、皇女様はどこだ。なんで僕が戻ってきたのにいないんだ。
どうすればいいか分からなくなってしまった僕は、とうとうクローゼットへ潜り込んで中で小さく丸まった。そのままずっと閉じこもった。
カラカラと音をたててクローゼットの扉が外から開けられた。
重たい頭をもたげてみれば、そこに皇女殿下が立っていた。部屋はもう消灯していて、小さな机の明かりを背にしたお顔はどんな表情かよく見えない。
「そんなところでなにをしておるのだ、お前」
訝しげな声。皇女様だ。なにをしてるって、先にこうしてクローゼットへ入っていたのは君だ。
僕はクローゼットから飛び出して皇女様を抱きすくめた。皇女様は小さくて柔らかい。
「どこ、行ってたの? なんで、いなかったんだよ? どうして、備品なのに、この部屋の備品のくせして勝手にどっか行っちゃうんだよ!」
こみ上げるまま言葉にしてぶつけると、皇女様は腕の中でびくりと体を強ばらせた。僕はますますぎゅっと強く抱きしめる。
「突然いなくなったら、困るだろ」
「すまない。別に、どこかへ行くとか、そういうつもりでは、なかった」
そう言う皇女様の声は微かに震えていた。ああ、ごめん。怒ってるわけじゃないのに。ただ、いると思った皇女様がいなかったから、僕は驚いて、なんだか不安になって、……うまく言葉にならない。
「私はちゃんといるつもりだったのだが。戦場から戻ったばかりの者に近づくのは危ないと諫められてしまって、振り切るのに手間取った」
「……」
「あ、すまない。気を悪くするだろうな。しかし私は大丈夫だと思ったし、そう言ったのだが」
いや、僕はちょっと驚いている。皇女様の周りにそんな常識的なことを言える人間がいただなんて。というか、なんでその常識的な人は皇女様が男子の部屋で備品ごっこするのを止めない。まずそこを止めろよ。びっくりだ。
でも、皇女様は、僕のことを「大丈夫」だと思ってくれているわけか。
僕は少しずつ腕の力を抜いて、今度はそっと皇女様を抱きしめる。この方が皇女様の柔らかい感触がよく伝わってきた。
「……ただいま、殿下」
「おかえり。アオイ・カゼ」
僕は久しぶりに名前を呼ばれた。
「それにしても、よく生きて帰ってこられたな、お前」
……ん、ちょっと想像してたのと皇女様の喜び方が、違う。なんか、若干驚かれている。
皇女様の手が動いて、ぎこちなく僕の背を撫でてくれる。
「戻るためによく努力したのだろうな、お前は」
「うん。ずいぶん頑張ったと思う。から、もっと褒めて」
皇女様の手が止まった。
「……なぜ私が褒めねばならんのだ。お前が一人で勝手に努力したのに」
その声はどこか憮然としていて、どうやらまだ僕が約束しなかったことを怒っているらしかった。意外と根に持つタイプなのか。
「だがまぁ、今回はその努力に免じて勝手に抱きついてきたことは特別に許してやろう」
その一言に僕ははっと我に返る。そうだ、なんで抱きついたりしてるんだ、僕。え、うわあ。この腕の中の皇女殿下、どうしよう。どうしたら、いいですか。
いつまで抱きしめていればいいのか、その止め時も止め方も分からず、かといって次のフェーズがあるのかどうかもさっぱり分からず、困ったまま僕は硬直して皇女殿下を抱きしめ続け、とうとう終いに皇女様に「暑い。いい加減にしろ」と怒られるまでそのままだった。
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