後書 学生と社会の狭間で

生まれて初めて、後書きというものを執筆直後に書く。

無論、高校時代は幾度も「編集後記」を書いたものであるが、あくまでもそれは作品集全体に対する話であった。

自分の作品自体に対する付け加えの話など、書いたことはなかったのである。

そこには、言いたい事は全て文章に起こしたという気持ちがあったからである。

と、言うことができるような文章力があればよいのだが、生憎、そのような力はまだ私の中にはない。

故に、その真相は自分の書いたものを冷静に見直すなど恥ずかしいという、ごく文章家らしからぬ気持ちによるのである。


それにしても、この「長崎」を書こうと決めてから一年と三ヶ月が過ぎた。

序段に書いたが、私は長崎から離れる前に自分を知るべく書こうと思ったのである。

それが、完成の場所が神戸になろうとは、恥ずかしい限りである。

それに、紆余曲折があって文章の展開も様々に変化し、最初の土地と成長を描いてゆくという形から、思うままに文章を書くという形に変わってしまっている。

第三十四段など、土地とは何の関係もない。

実際、パソコンのファイル上には段毎に副題をつけているのであるが、地名が入っていないのは、第二章の最初の段を除けば、この段だけである。


その上、段によって文章の濃密さは様々であり、段によってはあまり中身のない段もあった。

告白すれば、書き直したい段もある。

それでも、恥を承知で公開(後悔とも言う)したい。

それによって、私という人格はより鮮明に浮かび上がってくると思うからである。


少なくとも、この三章三十六段で構成されている随想は、私の分身である。

歪で、変で、不器用で、悩み、苦しみ、笑い、色々と忘れる。

文章で書くと格好良さそうにも見えるが、実際にはゴミ屋敷となっている自分の部屋を世間に公開しているようなものであり、格好悪いことこの上ない。

ただ、この格好の悪さも私そのものなのである。

隠したところで意味はないのである。

ある意味ではやけくそで公開したといってもいい。

そして、この公開によって、私は「自分とは何か」ということが少し分かったような気がする。

同時に、残る不明な部分はこれから先、この文章を読んでいただいた皆様から話や感想を頂くことで分かってくるように考える。

勝手に公開し、人にものを求めるとは馬鹿げた話であり、それこそ人をなめていると断罪されてもおかしくはないが、それでも、私は恥を承知でお願いしたい。


さて、この雑文を綴っている間に、様々な出来事が起きた。

世界情勢・国内情勢の変化というものは慌しく、その荒波に翻弄されているところである。

特に、東北で起きた震災は地獄絵図を現実にしたかのようなものであり、あまりの惨状に目を覆ってしまったほどであった。

それこそ、現実で生き続けてゆくと自我が壊れてしまうのではないか。

そのような時、人は頑張ることで我武者羅に進んで行くように思う。


しかし、そのような時は静かに夢を見るのもありではないかと私は思う。

見ることができるような状況にないと言われるかもしれない。

だが、敢えて、見るべきだと主張したい。

元々人は夢と現の生き物であり、バランスが取れなければ、これ以上に辛いことはない。

頑張ることも大切ではあるが、頑張り過ぎないように。

モラトリアムの愚かさかもしれないが、私はそう願い、言葉を綴ってゆく。


もう、次回作の執筆を始めている。本作とは大いに異なり、くだけた文章になる予定である。

皆様に一服の徒然を提供できればと願いながら、後書とさせていただく。


 梅雨空に一筋の光の差す 二〇一一年六月


(以降、書下ろしの第四章に続く)

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