第30話 アイリッシュコーヒー

 十一月も残り一週間。

 去年の今頃は寒風の吹き込む部屋で薄い布団にくるまっていた。

 今年はオイルヒーターの利いたマンションでぬくぬくしている。

 真夜中一時、ルキと向かい合って珈琲のウイスキー割りを舐める。

 生まれて初めてのアイリッシュコーヒーを、生まれて初めて入った女性の部屋で味わう。

 夢やドッキリ企画でないことを願うのみ。


 ルキの部屋着は大き目のスウェット、上下とも明るい黄色だ。

 スーツ姿が戦闘服としたら、見るからに柔らかで防御力ゼロな感じ。

 俺は来がけにディスカウントストアで買った黒いジャージ。

 洗ってないせいか、うなじ辺りがチクチクする。

 引っ越したばかりの2LDKで、リビングの小さなテーブルで向かい合う。

 少し照れながらマグカップに唇をあてる。

「メイジ君。初めて会った日のことだけど」

「秋葉原の?」

「じゃなくて、子供の時」

 記憶のはるか彼方に赤いスカートの女の子が蘇る。

「小学校の時分、日本にいたのはあの一週間だけなの。カナダにずっといてね」

 彼女は珈琲をすすって、息を吐く。

 すっぴんの頬が紅くなる。

「親の都合でイギリスへ越す予定だったのに、なんか行き違いがあったのね。私だけ数日宙に浮いちゃったの。で、パパとママはイギリスへ。私は東京のおばさん家へ」

 俺はあの頃、どうしてたっけ。

 いってても八才くらいか。記憶あやふや。

 毎日、親が職場から戻るまで児童公園にいて、虫と雲ばかり見てたな。

 あの頃から人付き合いが苦手。ノー友達。

 誰にも心を開いてなかった。

 そこへあのお姉さん。

 つまり、目の前のこのお姉さん。

「【声】に公園へ行くといいことがある…と言われたの。生まれた時から聞こえてて。親が忙しかったから、私には家族より近い相手だったな」

 いきなり話しかけられてビビったのを思い出す。

「小学校から高校までで、日本にいたのはあの数日だけ。日本人の男の子と仲良くなったのも君だけ。はぁあ……メイジ君、まっすぐな目で見てくれて、何を言っても感動してくれて、可愛かったよお」

 思い出の中の俺、美化されてる疑惑。

「カナダでもイギリスでも【声】がそばにあったから、何の不安もなかったわ。いじめられても、ふられても【声】が助けてくれた。日本に帰国してからも導いてくれた。でもね」

 スウェットのポケットをごそごそ。

 テーブルに置いたのは石の欠片が入った小袋。

「もう、なくて平気なの。メイジ君となら」

 微笑む。

 あの公園の少女と同じ笑顔。

 抱きしめた過ぎっ。

「夜のアイリッシュコーヒーってさ。眠くなるような、シャキッとするような。変な感覚よね。私、好き」

「あの」

「メイジ君、口つけただけじゃん。飲み終えたらさ。向こう行こ」

 イッキ飲みしましょか?


  ☆


 朝八時半。

 シリアルの簡単な朝食を済ませて、二人で家を出る。

「気合入れていきましょう。これからクリスマスもあるし、大晦日、正月。イベントが目白押しよ」

「うん、精一杯、楽しもう」

 この季節に付き合い始めたのはラッキー。

 夏スタートだと、この手の恋人イベントまで持つか不安だし。

「何、言ってるの?」

 笑われながら、背中をかなり強めに叩かれちゃって。

「アミガちゃんのライブよ。企画どんどん考えなきゃね。さ、会社行くわよ」

 二人でドアを開けて徒歩五分のウラノスへ。

 いやー、いやー、いやーまー、俺の人生にも一度くらいはこんな瞬間があってもいいよな。

 エレベーターの中でも嬉しみが湧き止まらない。

 ニヤニヤを噛み潰す。

「メイジ君、ちょっと顔を出して」

 え、キス?

 おでこにゴツンと衝撃音。

「うちを出たらニヤニヤは止めてよ。いやらしい」

 頭突き、ありがとうございました。目が覚めました!

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