07/31
18:58-21:07
私は、死者と対話などできない。
他人も、死者と対話などできないだろう。
この世界は、死者と対話することのできない世界だ。
死者と対話する世界の描かれる小説を読み漁っては、その世界が羨ましいと思った。
そう思うことすら、馬鹿げていることも、判っていた。
死者と対話できたなら。
できたならどうする?
できたところで、相手が何も応じてくれなければどうだ?
応じてくれる気がしない。
五歩離れた座椅子で姿勢を正し、鋭く嗄れた灰の眼がこちらを見ている。
眼光は冷たく、何も話してはくれない。
きっと、私が叔父に懐いたせいだ。
何故なら叔父は。
叔父の父は。
私の祖父は。
喉奥の熱さと、ぼやける照明に眉を顰めて、私は目を覚ました。
昨日から風邪を引き、今日も熱は下がらない。
隣で私を診ていた叔父が一言呟き、立ち上がって、寝室の扉へと消えた。
それからしばらくして、滋養食を手に扉を開けたのは、兄の光陽。
「朔のばーか」
ミニテーブルに食事をどすり。
何故ここに居るのかを訊ねると、光陽は呆れた顔で、私の額を指で弾いた。
「
明朗な声が少し煩い。
「君はさ、自分がやってることの自覚が足りないんじゃないの」
腕を引き、私のからだを起こす。
「早く食べなよ。僕も手伝ったんだから」
むくれた顔つきのまま、寝床の傍らで頬杖をつき、光陽は私が食事を摂るのを黙って見つめていた。
用意された食事の中には、夏野菜を使ったミネストローネ。
スパイスが効いているのか、ぴりっと辛い。
光陽が一番得意なスープ料理。
そのひと匙を口に運びながら、私は夢の記憶を思い出す。
「私は」
「何?」
楚々とした声がぶっきらぼうに相槌を打つ。
「仲直りできなかったよ」
「父さんと?」
私は首を振り、曽祖父の鋭い眼光がちらつく。
「三日月じーちゃんと?」
頷いた私に、光陽は二度目の呆れ顔でため息を吐く。
「それ、何年前の話?」
私は指折り数えてみた。
「いや、数えなくていいから」
手元の器を取り上げ、光陽は再び私の額を指で弾く。
「それとも、今際の際の日の丸じーちゃんになんか言われた?」
私は思わず唾を飲み込む。
「息を引き取る数日前に、君、呼ばれてたでしょ」
母方の曽祖父は、今年、即身仏のような姿で生涯を閉じた。
「それからじゃん。君の様子がおかしいの」
皿を盆にまとめて、光陽は立ち上がる。
「何言われたかは僕は聞かない。受験だし。君の問題だし」
水の入ったグラスと薬だけ置き去り、寝室の扉へ歩き出す。
「父さんにも八つ当たりしてさ。そっちの仲直りを先にしなよ」
ノブを回す音が語尾をかき消す。
「あと……あのひとも心配してるから」
扉が閉まりかけ、光陽の姿が隠れる。
「またね。お大事に」
ノブが戻り、叔父の寝室は静寂を取り戻した。
薬を飲み、再び寝床へ潜り込んで、ぼうとする意識の中で、私は曽祖父の赤い着物と澄み嗄れた声を思い出す。
『向こうで会うたら、其方のことは、能く能く言い含めておく』
背筋が凍りついた気がした。
私はやはり、疎まれたままなのではないか。
五年前に亡くなった父方の曽祖父とは、結局、ほとんど会話のないままだった。
ただ、あの眼光は、いつも鋭く私を睨み付けて、何も言わなかった。
冷たい灰の瞳が、こちらを見ている。
私を見ている。
いつも怖くて、五歩の距離より近くには寄れなかった。
朧となる意識の中で、二人の曽祖父の影が交互に震える。
本当は、もう少し話をしてみたかった。
見たことのない祖母の話を聞きたかった。
その機会を失うきっかけを作ったのは、私自身だ。
だが、死者と仲直りなどできない。
この世は死者と対話などできないのだから。
どうすればいいのだろう。
どうすれば、良かったのだろう。
薄れる意識の中で、楚々とした声が私を罵倒する。
そして、それまで明るかったまぶたの向こうが暗くなり、寝床の下方で布団をかぶる音がした。
「今日くらい、一緒に寝てあげるから」
不貞腐れた明るい声。
「お休み、朔」
その声に安堵して、私は眠気に従った。
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