背負う

増本キャロライン

背負う

あの頃、私はとにかく、何事も起こりませんように、と毎日祈り続けていた。

通勤の途中の神社で、教会の前で。

お願いだから、この一年が無事に過ぎますように。



親が生きたようにしか、その子供は生きられないのか、と思う。それが、精神的なものなのか、物理的なものなのか、ワカラナイけど。



うちの母親は最初に私の旦那を紹介した時、あからさまに、私の旦那を気に入らない態度を見せた。


旦那のお父さんは職人で、お母さんはその辺のパート。

そして、最悪なことに旦那はその時、転職したばかりだった。

自分の家だって、大したこと無いし、自分だって地方の高卒の専業主婦のくせに。たまたまうちの父親が大企業に勤めていた、ただ、それだけの事でうちの格は上、と思っていた。そして、今も、いる。


確かにうちは、外から見れば、大きな家に住んでいるし、不動産も持っている。子供二人もそれなりの所に勤める事が出来た。美味しいものを食べて、贅沢な旅行もできる。


旦那の家は、その辺の建売だ。

お母さんはパートで、外食も、旅行も滅多にしない。

贅沢は全くしない。毎日、お母さんがご飯を作って、お父さんはお母さんの作ったお弁当を持って仕事に行く。

旦那の子供の頃の話は、私とは雲泥の差だった。


おやつとは、お母さんが作って、それを食べるのだと、私は本当に思っていた。

インスタントラーメンや、自分で作ったチャーハン?

それがおやつ?

正直に驚いた。





でも、うちは、

手作りのお菓子だったけど、

表面は美しかったけど、






壊れていた。






高給取りの父親と正しく暮らす事だけを追求する母の間で、私は死にそうだった。



事が起こったのは、私が小学校5年生の時だった。

あんなに仲が良かったのに、父と母は毎日、喧嘩をするようになった。話もしなければ、食事も一緒にしない。と言うより、父の帰りが毎日遅かった。2人が揃う深夜に私は自分の部屋の真下にある、リビングの会話を床に耳をつけて聞いていた。



父親は不倫をしていた。




あんなにいい父親だったのに。

それから、我が家はまるで本当に90度に近い坂を一気に転げ落ちるように壊れていった。

もしくは、その天辺から家を落としたように下に向かって真っ逆さまに落ちて、粉々に壊れた。

かき集めても、もう絶対に直せないくらい、粉々に。






そして、父は自ら命を絶った。







こんな終わり方、誰が想像していただろう。


私は坂を急速度で落ちている間の記憶が無い。何も覚えていない。

どんな食事をして、学校で何をして、誰と遊んで、家で何をしていたのか、全く。

特に母親が何をしていたのか、全く覚えていない。

ただ、毎日暗い顔の母親。家の中は殺伐としていて、母親が口論の末に包丁を持ったりしていた事はおぼろげながら、覚えている。床に耳をくっつけていると玄関の開く音がする。

もう、二度と母親は戻ってこないかもしれない。と言う恐怖。

一方で、もう二度と口論を聞かなくてもいいかもしれないと言う、安堵感。



でも、私は知っていた。母親の居場所はここにしか無いことを。


そんな毎日でも母親は

「絶対に離婚しない」

と呪文のように唱えていた。


正確に言うと離婚は出来ない、だったと思う。

何しろ、父親はは高給取りだった。

一流企業に勤めていた。

何のステイタスも無い、高卒の田舎者の母親にとって、父親は唯一のステイタスだった。




あの年、下の子が小学5年生になった。

私は、夫婦仲が良いのは、せいぜい10年前後だ、とずっと信じてきた。

そして、10年目の今年、旦那はきっと父親のように、あっさりと家族を裏切るのだろうと思っていた。

あんなに、いい父親でも、起こった事だ。

ただ一つ違ったことは、私が経済的に完全に自立していることだ。

惨めなステイタスにすがる母親を見て、何があっても仕事を持って、旦那の稼ぎは全くあてにしない。これだけは私が心に誓った生きていくための、掟、だった。

掟。

絶対に破らない。



私の旦那は相も変わらず、毎日決まった家に、決まった時間に帰ってきて、食卓を囲んだ。

旦那の家族がほぼ、一日も欠かさずやってきた事だ。格が上らしい、うちには、無しえなかったことだ。

今も、義父母は、毎日食卓を二人で仲良く囲んでいる。もう、50年近く。





私は父親に似ている。外見も中身も。


だから、母親に疎まれた。

あの10年目からは、もう、隠しようが無かった。


今も都合のいいように使われている。だから、私も都合のいいようにそのお金を使う。だって、そのお金は父親の物なんだから。私の父親。


訳の分からない愚行を繰り返し、最終的には全て放り投げてトンずらした父親を酷く、恨んだ。

彼が稼いだお金で建てた家に住み、教育を受けて、物質的には何一つ、不自由なく育ったくせに。

父親が何を思って、何をして暮らしたのかも、想像すらしなかった。最後の方は、自宅から出て、マンションで一人暮らしをしていたから、なおさら。

どーでも良かった。離れて暮らしても相変わらず母親は、父親の給料の全てを握っていた。


誰も、母親をこれ以上、怒らせないで欲しい、それだけが私の願いだった。


父親は最後まで離婚を強く望んだけど、結局叶わなかった。


でも、20年近くの時を経て、私は、父親が愚行を犯した年齢になった。

そして、私も彼のように大きな会社に勤めて同じくらいの年数になった。



そして、そんな私をジワジワと影が覆っている。父親の影。

私の会社は父ほどの大企業では無い。でも、学閥があって。信じられないけど、ある。有名大学を出た奴らは固まって、出世していく。入るまでも学歴は大事だけど、入ってからもこれほどに物を言うなんて知らなかった。地方の大学出の父は大企業の中で激しく苦労したに違いない。バカにされたに違いない。辞めたい、と思ったことは数えきれないだろう。


「お父さんが、会社辞めたいって言ってる」

「そんな事、許されるわけ無いでしょ」

と私は答えた。何十年も前のことだ。母親に向かって。




許されたんだ。

辞めれば良かったんだ。

何をしても生きて行けるのに。

何をわかってそんな事を言えたんだろう。





それなりの年齢になれば、部下にごちそうしたり、したかったはずだ。

それなのに、うちの母親はほんの数万円しかお小遣いを与えなかった。

全部あげたって、何の問題も無いくらいうちにはお金があったのに。

当時は知らなかった。

うちの家計は火の車なんだろう、と思っていた。

だから、家計簿までしっかりつけて、こんなに窮屈に父親を締め上げるのだろう、と。

だけど、家族構成が同じ、そして、私よりも子供を持つのが早かった父母、私達夫婦が二人合わせたくらいの給料をもらっていた父親。そう思うと、お金なんか、たくさんあったはずなんだ。

でも、飲み会のお金は母にとっては、ただのムダ金だった。




私は母親と話をするのも苦痛だ。

緩みの無い、厳しすぎる人。

自分にも厳しい、潔癖な人。



私の大事な、私が作った家族には10年経って、15年が経っても何も起こらなかった。

私の親が建てた大きな家に住んでいる。

そして、中身も暖かさであふれている。

早く家に帰ろうと思う。飲み会に行きたいなんて思わない。

買いたい物は夫婦で相談して買う。争い何か無い。




でも、私自身が運命の10年目を迎えてから、父親の味わったであろう思いを味わっている。今もずっと。ほら、思い知れ、苦しいだろ?窮屈だろ?自由になりたいだろ?



厳しくて、暖かみの無い、顔も見たくない、窮屈な母親。

ステイタスを手放せなかった母親。

子供は完璧に育てた、と信じて疑わない母親。

私の記憶が全く無いことを知らない母親。

子供を全てから完璧に守ったと思っている母親。



父親の重い思い。

気づけなかった重い、苦しさ。

完璧に私たちを守った母親から離れられない私。


お母さんは、あんた達の為に生きてきた。



頼んでない。

私から父親を感じる母親。

私を執拗に追い詰める母親。







お願い、




私を生きさせて。








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