第15話 紫陽花7

「ごめん、サラ。そんなに怒らないで?」


 サラがうつむいて黙り込んだのを、怒っているものと勘違いしたらしいオレールは、弱ったように眉尻を下げた。


「……怒っているわけでは……。少し、驚いただけです」

「それならいいんだけど。……ねぇ、サラ。まだ具合が悪そうだよ。部屋まで送ろうか?」

「いえ、体調はもう大丈夫ですから……」


 それ自体は嘘ではない。あれ以来、意識を失うことはないし、眩暈や頭痛もない。

 問題があるとすれば、心の方だ。 


「それなら……もしかして、僕との結婚に何か不安がある?」


 その言葉にはっと顔を上げれば、オレールの心配そうな瞳と目が合った。

 不安などない、そう即答すべきと分かっているのに、喉が詰まったように声を発することができない。

 エリーズの記憶が甦ったあの日まで、サラは結婚に対する不安などほとんど感じていなかった。

 けれど今は違う。沈黙は肯定を意味した。


「話してくれない? 僕に出来ることなら、サラの不安を取り除きたい」


 サラの不安。

 その形をはっきり捉えることは、サラ自身にもできてはいない。ただ、オレールに率直に打ち明けて良いものでないことは分かっている。かと言って、何も不安はないと口を噤むこともまた、サラにはできなかった。

 しばしの逡巡の後、サラはおずおずと口を開く。


「……あの、わたし、オレール様と結婚して、本当に大丈夫なのかって……」


 サラの言葉は漠然としたものだったが、オレールは心得たように頷いた。


「確かに商家から貴族の家に入るのは不安だろうけど、サラなら大丈夫だよ。すでにある程度社交界にも慣れているし。それに知ってのとおり、我が家は元々あまり社交に熱心な家ではないしね。サラに無理のない範囲で社交をして貰えれば十分だよ」

「はい……」

「ゆくゆくは子爵夫人として家の中のことを取り仕切ってもらうことにもなるだろうけど、それは母にゆっくり教わればいいことだから。まだまだ先の話だし、焦らなくて大丈夫だよ」


 平民でありながら貴族の家に嫁ぐことへの不安。それがないわけではないが、オレールとの婚約を決めたときに覚悟はしたつもりでいる。

 オレールはサラの表情を見て、さらに言葉を重ねた。


「父も母も、サラのことを歓迎しているよ。ようやく娘が出来ると喜んでる。ほら、我が家は男兄弟ばかりだから」


 オレールの両親に対して不満を持っていると誤解されたくなくて、サラは慌てて首を横に振った。


「オレール様のお父様とお母様には、本当に良くして頂いています。そうではなくて……」

「うん」

「わたし、ブロンデル家の一人娘なのに、その責任を何も負わなくていいのかと……。本当に今更、ですけど……」


 ジルと結婚してブロンデル家を継ぐ。それがサラの運命のはずだ。それなのにサラは、その運命を違えようとしている。

 そうとは口に出せずに取り繕ったサラの言葉を、オレールは真剣に受け取った様子だった。


「お父上が認めて下さった以上、サラが気に病む必要はないと思うけれど……。でも、そうだな、マイエ家に嫁いでも、サラがブロンデル家に貢献することはできるんじゃないかな。マイエ家の方には、ブロンデル家を利用する気はない……というより、そんな才覚はないというのが正直なところだけどね。だけど、ブロンデル家のためにマイエ家の人脈を利用するのは、サラの自由だよ」


 マイエ家の一員として、貴族階級に属する立場で、実家であるブロンデル家に貢献する。例えばサラ自身が広告塔となって、ブロンデル商会の商品を社交界で宣伝する。

 それは確かに現実的な方法だろう。あまり社交の得意でないサラにはかなりの努力が必要だろうけど、うまく立ち回ればブロンデル商会に利益をもたらすことができる。


「サラがブロンデル家のために社交を頑張るというなら、僕も協力するよ。夜会や茶会にも積極的に出よう。もちろん一緒にね。ああ、サラの応接室のように、我が家の応接室をブロンデル商会の商品で一新するのもいいな。一緒に見立てたら楽しそうだと思わない? それから……」


 サラの不安を和らげようというのだろう、オレールはいつも以上に親身で熱心だった。

 そんなオレールの顔を見、声を聞くうち、サラは不意に泣きたくなった。

 そして唐突に、不安の正体を悟った。


 サラは、この誠実で優しい婚約者を裏切るのが怖いのだ。


 サラはオレールとの婚約以来、オレールの浮気や心変わりの可能性を考えたことなどただの一度もない。

 そしてそれ以上に、自分が心変わりをすることなどありえないという確信があった。

 けれど、エリーズの記憶が甦って以来、その確信が揺らいでいる。


 前世の契りを知りながらオレールと結婚することは、ジルに対する裏切りではないか。そう思う程度には、ジルに対して特別な感情を抱いている。

 それは今はまだ、恋とか愛と呼べるものではない。


 けれどもし、ジルが前世の記憶を取り戻したら。

 ジルに熱の籠もった目で見つめられ、愛を囁かれたら――。


 ジルと不貞に及ぶなどという大それたことが自分にできるとは思えない。ジルもまた、そのような不実を働く人ではないように思う。

 けれど人の心は不確かだ。もしジルから愛情を向けられたとき、絶対に心を寄せずにいられるとは、もはや断言できなかった。サラの中には、ジャンを恋い慕うエリーズが確かにいるのだ。

 心の中で密かに想うだけならば、誰にも分からない。ジルにも、オレールにも。誰からも罰せられることはない。

 それでも、それは確かにオレールへの裏切りであり、罪だ。

 サラにはその罪を許すことができなかった。


「母から聞いたことだけど、女性は結婚式前に憂鬱になることがあるんだって。サラもそうなのかな……? またゆっくり話を聞くからね。とにかく、結婚式まではよく身体を休めて」


 時間を気にしながら足早に去るオレールを見送った後も、サラはしばらくガゼボにとどまり続けた。

 色とりどりの紫陽花が、無言でサラを取り囲む。

 それらをぐるりと見渡し、最後に手の中の紫陽花に挑むような目を向けてから、サラはぎゅっと口を引き結んだ。 

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