第2話 未知の世界

「おっ!着くぞ~、ここが塔里郷でっせ、弟者おとじゃよ」


――ここが、塔里郷。

 ショルダーバッグの肩紐を両手で握り締める。


 電車の揺れが止まると、ドアの開閉ボタンが光りだす。「押してみ」と兄が急かす。

 右手で開閉ボタンを押すと、一瞬、左肩を暖かい風が通り抜けた。僕は自ずと、前へ二歩、三歩、進める。


 こじんまりとした木製の駅舎は、レトロ感を漂わせる。青々とした空が広く、近い。木々の緑は、ここからは見えないが、すぐ傍で揺れている、やはりそんな気配がする。


 出口には、レトロな駅舎に似つかわしくない自動改札機が一台、取り残されたかのように置かれている。その奥は、扉などなく、向こう側の景色が見渡せる。


 奥に見えるのは、タイル地の歩道とアスファルトな道路、ロータリーのようなものだろうか。その中心部に見えるのは、大ぶりの枝に数多の蕾をつけた、一本の木――。何の木なのか、ここからだと分からない。そもそも、花が咲かないと分からないのだが……。


「あれは、桜の木だ。もう少しで花が咲くんじゃないか?」


 後ろから兄の声。「そっちは後だから。先にこっち行くぞ」僕の肩をぽぽんと叩き、後ろへ歩いて行った。


 振り向くと、一両電車の向こうに、駅舎の反対側が垣間見えた。

――いや、ぼーっとしている場合ではない。足の速い兄を僕はただ追う。


 駅前は二車線道路であったが、進んでいくうちに車一台がやっと通れる幅に……入り組んではいないので、迷うことはないだろうが、都市部で育ってきた僕にとっては、見る光景全てが異世界なものに感じられる。


「塔里郷駅の北側には商店街と学校、南側に僕の男友達の妹ちゃんが住むアパートがあるんだ。美月もそこにお世話になるんだぜ~。」


「塔里郷ハイムってアパートだけど、そこには、その妹ちゃん以外にもいろんな子がいてな、その子たちも登校支援クラスに通っててさ~。」


「ああっ、ここが商店街!八百屋さんとか、理髪店とかお花屋さんとか、、お店って言ったら大概ここにあるんだぜ~」


「学校はもう少し先にあってね~、小・中・高・大、全部ここにあるんだ~。昔からある学校なんだけど、だんだん規模が増えていって、今や建物が新しくなってなぁ~」


 兄って、こんなにしゃべる人だったっけ。

 意気揚々と紹介してくれる姿は、どこか頼もしく見える。

 僕はただついて行くのに精一杯、移り変わる景色に自分を合わせていくので必死だ。


 それにしても塔里郷について、よく知っているものだ。その兄の男友達という人が、兄を陽気に変えたのかもしれない。。


「約束は14時半だな、10分前に着くのは、オトナの常識ってやつだ(どや顔)。ってことで、着いたぞ~、中学校!」


 塔里郷中学校――おもての石板に刻まれている。校門は厳重に門扉が閉められ、人ひとりいない。今は春休みだからか、先生のみが出勤している状況なのだろう。


 建物はきれいな乳白色で、見たところ三階建て。思ったよりも小さいが、もしかしたら奥にも建物があるのかもしれない。


 兄は校門の傍にあるインターフォンを鳴らす。「本日14時から戸瀬先生と面談予定の、卉原と申します」と話した直後、カチャっという音がした。目の前にある通用口が開いたらしい。兄がサッと入るのに僕も続く。


 入って左側には、大きなガラス扉。その向こうには靴箱の列。昇降口だろうか。生徒がいない昇降口は、どこか広く感じる。そう思いながら横目に通過し、職員・客人用の入り口に進む。


「あぁ~戸瀬先生!先日はどぉ~も~ぉ」兄の軽快な話し声が聞こえる。僕は兄の背後にそっと身を寄せる。


 兄の話している相手は、青のスーツをびしっと着た男性、兄より若く見える。ひょろっとしている容姿だが、張りがあり落ち着いた声のトーンで、どこか芯が感じられる。邪気のない笑顔がキラキラと、まぶしくてまともに見れない。


「……っておい、美月?後ろに居んのかぁ?隠れてないで出ておいでな~ほいほいっ」


 急に名前を呼ばれ、僕はたじろぐ。ますます兄の背中に僕の姿形を隠そうとしてしまう。


「お!今日はご本人お連れになったとですか!まぁそれは嬉しい!顔合わせても、大丈夫ですかなっ?」


「いや先生、今日は先生とお話しするために連れてきたんですから、ほらぁ美月ぃ?」


「いやいやいや!無理にはいいんですよ?ここにたどり着いただけでも満点ですから!」


 満点――?

 兄の影に隠れてる、僕が――?

 僕の頭には、疑問符しかない――。


 満点――そんな、訳ない。僕には、そんな資格、ないのに……

 ――何だろう、満たされていく、この気持ちは……


「――でも、よりしていく為に、僕から…」


 戸瀬先生と呼ばれた男性は、足早に外用スリッパに履き替え、兄の横から、ひょこっと顔を出した。


 中腰で僕に目を合わせ、柔和な笑顔で――。

「はじめまして。僕は戸瀬とせ先生です」

 思わず息を呑む。


「今日遠路はるばるここまで来たこと、とても凄いことです!」


 思っているよりも、穏やかに――。


「ここまで来た自分を褒めてあげてくださいね、美月くん」


 その言葉が――僕の心を静めた。


――ここは安心していい。


 吸い込んだ空気が、美味しい。


「ちょっと落ち着いてきたかな?では20分だけ、中でお話ししましょうか」


 どうぞお入りください~。軽やかに戸瀬先生は招き入れた。



 学校で扉付きの靴入れを使うのは初めてだったが、お客さんとして居ることは慣れているので、その方が不思議と落ち着けるようだった。


 客用入り口の目の前は職員室のようで、小さな窓からは、先生らしき数人が書類を持ち、せかせかと歩き回っているのが見える。


 職員室の左壁には、一面のホワイトボード、部活動や委員会の名前が連なっている。休みだからか、ほぼ真っ白である。ホワイトボード端に隣接したシルバーの扉は閉ざされていて、暖かな日差しが差し込んでいる。


「二階にある相談室まで行きますね」先生や兄はボードの反対側にある階段に向かっていく。床や階段の手すりに木のタイルが敷かれており、ほのかにヒノキのにおいがする。


 履き替えたワインレッドのスリッパは、僕の足よりサイズが大きく、つるつる滑る。階段を一段一段登るにつれてスリッパがずれ、つまづきそうになるが、そのたびぐっとこらえる。


 二階に着くと、すぐ手前に『相談室』と書かれた看板が見えた。兄と僕はそこに通される。四人掛けの机の奥に二人並んで座る。先生は僕と兄の真ん中に位置するよう椅子を調整し、腰かけた。


「良い天気ですね!晴れているのは心地良い!」快活に先生は口を開く。笑顔が眩しい。


「そうですね!旅行日和で、良かったです!」兄がにんまりと応える。「な、美月!」その眼はどこか僕を案ずるように、かすかに揺れたまま僕に向けられる。


「美月くんは初めてですっけ、塔里郷に来るのは……?」


 先生が僕に問いかけている。僕の視線は、机の木目調もくめちょうをなぞる。

 黙って頷くと、先生の表情がぱぁっと和らいだ。


「そうですよね~。どう?塔里郷に来てみて…」


 どう…とは――、どう、と問われると、どう答えたらいいのか分からず、返答に困ってしまう。どんどんと長くなる静寂の中に、不安げな空気が漂う。

 沈黙は僕の言葉にならない、もやもやとした思いを首元に上らせ、僕はますます焦りを覚える。


――と、先生は、暖かな口調で、


「美月くんの思ったままの言葉で、いいよ」


 先生は自然な微笑みを崩さず、僕を見たり、外を見たり…

 前のめりな体勢だが、返答を急かす様子はまるでなく、じっくり僕の言葉を待ってくれているように見える。


 その様子を見ると、心なしか息が喉を通るようにさせていく。

 僕は、首元に詰まった言葉たちを、少しずつかみ砕き、息に混じらせる。


「……空気が、きれいで……、自然が、近くて……」


「うん」


「………桜が、咲いてるの……観たいなって………思います…」


「おお!桜か!そうだね~あと数日で咲くと思うな~」


 先生は気の抜けた声で、それはまぁ満面の笑みで応える。


「駅前にもあるし……、そうだ!校門の傍にある木も、桜の木なんだぞ~。入学式前には満開になるから、先生もうっとりしちゃうね~」


 はははっ、先生の笑う声が暖かな空気に響いていった。



 その後は、戸瀬先生から、学校や登校支援クラスのシステム、日課、予定の話を聞き、塔里郷中学校に今後どのように通っていくか、丁寧に確認した。

 主に質問や、話をするのは先生と兄であったが、要所の確認や話の理解度は、僕の進度や反応に合わせて進めてくれていた。


 戸瀬先生と話していると、この場所に居ていいと言われているようで……。僕の言葉も滞りはあるが発しにくさは少なく、どことなく安心感を持ちながら座って居られた。



 要点をまとめると、このようなことを聞き、話し合った。


〔システム〕

・登校支援クラスは、通常クラスへの通学の難しい生徒が、別室登校できる場所である。

・学年関係なく、別室登校専用の教室(ルーム)に通うのが基本だが、場合により柔軟に対応可能(例:保健室、相談室で過ごすなど)。

・登校支援クラスに在籍する生徒は、通常の教室に復帰することを目的としているため、通常クラスにも籍を置き、クラスの一員として認識される。

・登校支援クラス独自の時間割があり、登校支援クラス又は通常クラスどちらでも授業を受けても出席を認められる。

・遅刻、早退、欠席の認定は、通常生徒と同様にカウントされるが、登校支援クラスの生徒はその日の調子や目標に応じ、通学形態(頻度、時間帯、場所など)や学校での過ごし方への意思を尊重される。


〔今後の方針〕

・時期的に、4月から登校支援クラスに転入学する。

・学校への通学が久しぶりな僕なので、ひとまず具体的目標は決めず、どんなものか体験する気持ちで、学校に来ることを続ける。

・登校支援クラスに通う他の生徒たちと仲良くなり、通学に慣れてきた頃に日々の目標を決めていくことにする。



 話が一通り済んだ後、学校内を一周する。生徒は誰もいない中、落ち着いて学校内を歩く。


 職員室や保健室、相談室があるのは本館、職員室の反対側の廊下を進むと、通常教室がある教室棟、昇降口に面している。さっき気になっていた、ホワイトボード端にあるシルバーの扉の先には渡り廊下があり、特別教室棟、その先には体育館が、渡り廊下で結ばれている。特別教室棟と体育館の間の渡り廊下に短い分かれ道があり、旧棟と繋がっている。


 旧棟は通常授業では使われないため、人が立ち入ることは少ないらしい。旧棟の建物は色あせているが、内装は比較的綺麗な方に見える。


 その旧棟の中に、登校支援クラスの子が通う教室(通称ルームと呼ぶらしい)がある。通常教室と同じくらいの広さに、三個ずつ三列に机と椅子が並び、黒板の前には教卓が置かれている。

 窓際には観葉植物、ぷにぷにとして、水を含んだ葉のたくさんついた、初めて見る植物。黒板の反対側にはロッカーがあり、その一部に文庫本や教科書などが並べられている。昼間の暖かな陽射しが、窓際の席を照らしている。


――4月から、この場所で過ごす……。


 緊張は感じるが、それよりもこの教室に居ると心地よく感じる。学校に居るけど、居ないような……。不思議と……、いや、初めて塔里郷に降り立った時といい、先生といい、取り囲む雰囲気がそう感じさせているのかもしれない。


 一周し終わり、校門前で先生と挨拶を交わす。


「次来るときにはこの桜も咲いているだろうな。楽しみに来るんだぞ!」


 桜の幹にちょん、と触れながら、先生は、ひひっと笑う。僕は桜に目を向けながら、はい、と頷いた。

 そして、僕と兄は学校を後にした。



 次に向かう場所は、僕が住む予定の場所らしい。そのアパートは『塔里郷ハイム』。

 小規模なアパートで、家族世帯や独り暮らしの若者などが住まえる場所らしいが、僕と同世代の子たちが部屋をシェアしながら暮らしている部屋もあるらしい。

 その中には、兄の親友の妹さんも居るようである。


 駅の傍にある脇道を進むと、駅の南側。横書きに『塔里郷駅』と書かれた木板が掲げられた駅舎を見る。

 駅舎に面するのは、先程プラットフォームから見たロータリー。歩道のタイルが円形の車道に沿って敷かれ、駅前が広場のようになっている。


 車道が囲む中心には、一本の桜の木が、堂々と立ち、枝を広げている。


――と、その傍らに、少女が一人。

 淡い藍色のワンピースが、微かな風に揺らめく。


 先程までは居なかった、少女の輪郭。

   無数の蕾に視線を向ける、その姿――


 なぜだろう。

  どこか、その佇む姿に、その存在感に、僕は目を奪われる。


 気配が空気を伝ったのか、

  その少女は、ゆっくりと僕を振り向いた。


 僕の立つ場所からは、距離が離れているのに、

   少女は確かに僕を捉えている、ように感じる。

 

  少女は一歩ずつ、僕に向けて歩を進める。


 ワンピースの紺色が、周りの空気をなびかせ、桜の枝を揺らす。

 

  彼女の姿に、見入る自分がいる。肌が熱くなる。


  気がつけば、目の前に――


「あなたが、卉原美月くん?」


 透き通る、緑青ろくしょうの瞳――

  耳に伝う、優しい声――


 じいっとのぞき込まれ―

   目を逸らすことを忘れ―

        瞳に呑み込まれ――


  「そう、あなたが……」


 少女は一度、まばたきをし、目を細める。

  何だろう――一目ひとめで何かを悟ったような、少女の物知り顔。


 僕が返答できないでいるのに、

    余りに理解が早いような――


 自分に心を引き寄せられている、

    ――


   ――でも何で。



「私は、フジサキトウハ。これから、よろしくね。美月くん」


 ふわり、と、ショートカットの少女は微笑んだ。



  ― 第2話 了 ―

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