禁断の果実を食べなかった系

 「なんでも使っていいから」と脱衣所にペルさんを押し込んで、俺はせかせかと散らかった部屋を整える。

 人に見られて困るものを置いているつもりなどないが、しかし長い一人暮らしは客観的視点を失わさせることを知っているので入念にチェックする。

「洗濯物は……ギリセーフか?」

 いやどう考えてもアウトだわ。

 ベッドの上に散らかっているTシャツやらジーパン──近頃は休日に外出する気力がなかったから、最後に着たのはいつだっただろうか──それらを形骸化したタンスに突っ込んでいく。

 うわ、なんで大学のレポートがまだ落ちてるんだ。

 ……5年以上も気にせず暮らしてきたのが恐ろしい。

 部屋の角に何故か佇む、ここに入居した時の元カノが置いていったぬいぐるみや、いつ摘んだのか分からない一輪のコスモスが挿されたビール缶など、いつの間にか俺の日常になってしまっていたオブジェクトたちの異常性に気づいていく。

「……いらないモノかぁ」

 ──煩わしいとさえ思われない、この部屋世界のいらないモノ

 もうクソみたいな仕事の連絡と、それよりはちょっとマシなスパムメールしか来なくなった俺のスマホは、俺という存在の必要のなさを証明している。

 捨てられることもなく、疎まれることもなく飼い殺される。

 ……ならせめてこいつらは捨ててやらなくちゃ。

 一切躊躇せず”思い出だったハズの物たち”を纏めてゴミ袋へ突っ込んでいく。

 履きつぶして穴の開いた靴下、カビカビになった豆苗育成キッド、一万円で買ったきり全然触っていないギター──はちょっと大きいからいつか捨てよう。

 当然、そんな手間のかかることをやっていれば、余裕のない時間はあっという間に過ぎ去るわけで。

 ──ガチャ。

 結局何もできずバスルームの扉が開かれる音がした。

「ありがと、お兄ちゃん」

 ほかほかと熱気が漂う脱衣所の方を見れば。

 ──裸のペルさんがこちらへ歩いてきていた。

 黒がかった肌は褐色までに回復し、前髪のぱっつんがおでこに引っ付いていた。

「え、は? なんで裸?」

 俺は慌てて散らかった床をブルドーザーのようにかき分けて空間を作る。

「替えの服、なかったから」

 確かに部屋を何とかすることに気を取られて、ペルさんの衣服を用意し忘れた。

 ……しかし脱衣所から声を掛けてくれればいいのに。

 彼の体格に合いそうな服……ともう一度細めで彼を見た時。

「──ってええぇ!?」

 

 の身体にはがなかったのだ。


「どうかした? 着替えがないの?」

 ペルさんは何の気なしに尋ねてくるが、俺の心中は全く穏やかではなかった。

 秋の風を取り込んだ涼しい室内でも、尋常じゃない程の冷汗が湧き出てくる。

 よく見れば──よくは見ていないが彼──の痩せた胸は男だと言うには不自然に膨らみ、ピンク色のぽっちが──。

「──じ、じじっじじじじ児ポじゃんこれ」

 普通におまわりさん案件である。

 児ポと呼ぶかは知らんが。

「どうしてさ」

「お、おとこだと思ってた」

 中学生男子の裸体ならまあまだ良しとしても。

 中性的な声、中性的な体型、中性的な顔立ち──を見るまで性別が確定しないシュレディンガーの性別。お母さん、俺、性犯罪者になりそうです。

 実家にはもう7年も帰っていないけど。

「……あー。そういうこと。大丈夫、ボク23歳だからさ」

 それより着替えないの? とペルさんは問う。

「23? 俺と4つしか変わらない……?」

「中々ね。成長期に身長が伸びなかったのさ」

 ビシャビシャに濡れた髪のまま、ペルさんはベッドにダイブする。

「いやしかし最高だねこれ! ……ふかふかだよベッド!」

 彼女の身体にこびりついた汚れが取れると同時に、彼女は心が軽くなったかのようにはしゃぎだす。出会った数時間前のクールな印象とは程遠い。

 2つの意味で──性的な欲求の発露と過剰な痩躯への憐れみで、彼女の角ばった裸身を見ていられなくなり、雑に引っ張り出したパーカーとスポーツパンツを放り投げる。あと男物の下着も。

「すごくいい洗剤の香りがする。ありがと」

 生まれて初めて物を見たかのように、ペルさんは全身を使って幸せを表現した。

 一番安い洗剤なんだけどなぁ。

 自分が必要とされている事実に俺は、やぶさかでもない喜びを感じてしまう。

「ど、どういたしまして」

 ぶかぶかな俺の部屋着を着こんだペルさんは、どうしてそんなに嬉しいのかずっとニヤニヤを続けていた。

 単純に不気味で、そして不思議であるのだ。

「……どうしてこんな変な報酬システムなんだ?」

 彼女ほど素晴らしい映像を創る人間がこの世界にいるのかどうか──それこそ比べるのだとしたらジブリだとかその業界のトップオブザトップ。

 比類なき才能を持つ彼女であれば、巨万の富を築くことだって容易だろう。

「変かなぁ」

 そう言ってペタリとベッドにカエル座りをするペルさんが首を傾げた。

 ボサボサの髪の毛からはまだ水が滴る。

 ……ちゃんと拭いてくれないですかね。

「だってペルさん、ベッドが好きでしょ?」

「うん、大好き」

「食べることが好きでしょ?」

「そりゃあそうさ」

「だったら、もっと裕福に生きることだって出来るんじゃないか?」

 なにもこんな腐った人間のワンルームに居候することはないだろう。

 俺から200万を報酬として受け取ったなら、ここの家賃程度なら1年以上払うことができてしまう。

 何も野宿を続ける意味なんてない、毎日がそこそこ柔らかいベッドの上だ。

「……うーん。説明がむつかしいなあ」

 こめかみを指でつまんでペルさんは唸る。

「それは何もかも順番が違うよ。確かにふかふかのベッドは好きだけど──それは生きるために必要なことじゃないだろう?」

「必要?」

 俺からすれば充実した衣食住は何よりも必要不可欠だと思うが。

 それよりも重要なことがペルさんにはあるのか?

「そうそう、ボクはそれを『冥界のザクロを食べてしまった』と表現するn──」

 なにやら核心に触れることを言いかけて、しかし出し抜けにペルさんが指をさしたのはゴミ袋からこぼれ落ちたウノ。

「──あ、ウノ!」

「え、そこでやめるの?」

 無茶苦茶気になる……”冥界のザクロ”?

 しかしペルさんはもうこれっぽちも俺の言葉に耳は貸さず、いつ買ったか──きっと大学時代に買ったウノを小さなローテーブルの上に置いた。

「よいしょ。じゃあゲームをしよう」

「……そんなにウノ好きなの?」

「いや、ウノ自体はあんまり」

「おい」

 だったら話の続きを聞きたいのだけれど。

「でもね、ウノって本当に1人も同じルールで遊んでる人がいなくて」

「……ローカルルールのことか?」

 そう返すとペルさんの表情がパァっと咲いた。

 銅像のように不愛想で薄汚れていた彼女は、『お腹を満たす』『体を清める』などと、1つ1つタスクをクリアしていくごとに、いつの間にか銅メッキが剥がれて本物の人間になっていく。

 まるでハチ公を磨いたら動き出した、というような話だ。

「そう! お兄ちゃんのルール教えてよ。重複したカードは?」

「重ねて出せる」

「ドロー4にドロー2で返せる?」

「なんだそりゃ」

「じゃあ色が同じで数字が同じなら」

「まとめて全部処理できる」

「えー、一枚だけだよ」

「いや俺の知ってるルールにはないな」

「おっけい。じゃあ今日はそのレギュレーションで行こう」

「他に確認することあるか?」

「だったら───」

 ウノなんて子供の遊びだと思っていたけれど、遊んでみれば意外と楽しかった。

 明け方までウノ、トランプ、なぜか持っていたクアルトを俺たちは遊び倒した。

 久しぶりに本気で笑った。笑うことさえ忘れていたのが笑えない話だ。

 ただ隣人トラブルだけが不安の種だが。

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