欧州回顧録「透明人間になる」

 彼のすべての思いは、その態度から伝わってきました。

 武術では思考を読ませないことも腕のうちですが、彼の場合は真逆でした。

 言葉の通じない私に、全身でその思いを表現してきたのです。


 頭の中で、これまでの彼の戦法を反芻しました。


 最初に拳で勝負してきた。

 これは私を侮っていたのでしょう。


 次に組打ちで勝負してきた。

 これは私を、レスリングの選手と同格と考えたのでしょう。


 そして包帯をはずし、透明人間となった。

 これは使えるものはすべて使うという、最終段階に入ったということに違いありません。


 尋常な勝負をあきらめ、勝ちを取ったのです。


 いよいよ油断できない状況になりました。

 しかし、こちらもそれなら手段はあります。

 私が選んだのは、床に落ちたかすがいを電灯に投げつけ、車両全体を真っ暗にしてしまうことでした。


 普通の武術道場ではそんなことはそうそうやらないでしょうが、私は植芝先生の闇夜の合宿で、暗闇を走り、戦う経験もしました。

 砂利や切り株のある深夜に、木刀を持った先生と真剣勝負を繰り返してきたのです。


 レスリングではそんな練習はしないでしょう。


 相手が透明人間なら、こちらも透明人間になってしまえばいい。

 うまい具合に投げた金属は照明に命中しました。


 暗闇の中で、私たちは最後の駆け引きを始めました。

 折しも降ってきた雨で、音も匂いも消されています。

 空気の動きを感じることもできません。

 それでも私の心の中には、たしかにうなずくものがありました。

 必勝の想念がありました。


 鞍馬山の丑三つ時、闇夜で待ち構える植芝先生の稽古に比べれば。

 

 姿勢を保ち、気配を断ち、精神を集中します。

 今はお互いに透明人間。

 今はお互いに五分と五分。

 明鏡止水へ至り、心眼に従うのみ。

 そう思って、直立不動で相手を感じようとしました。


 そのときです。


 アッ、と、思わず声が出そうになりました。

 私の両目に光が届いたのです。


 これか。

 これがあの、光なのか。


 光が透明人間の輪郭を、明確に浮き上がらせています。

 植芝先生が銃弾をかわしたときに見えた光とは、これに違いありません。

 透明人間が体を揺らしながら、暗闇に潜む私を手探りで探しています。

 ばかりか、その思いまで手に取って伝わってきます。

 暗闇を飛び越えて、彼の葛藤が伝わってきます。

 

 勝利への確信がありました。

 こうなればこちらのもの。

 仕掛けてきた瞬間をしとめるのみ。


 透明人間は左腕を伸ばし、私の位置を探っています。

 強引に突っ込むのは避け、確実にとらえようというのでしょう。

 向こうもこちらの動きを待つことにしたようです。


 膠着が始まりました。


 相手も慎重に動いていますから、こちらもうかつに動けません。

 ですがこの光の感覚さえあれば、いずれは私に分が良くなるはず。

 さすれば根競こんくらべです。


 私にも光が見えた。

 植芝先生の境地に到達した。

 これが合気術の神髄なのだ。

 小躍りして喜びたい気持ちを隠して待ち構えました。


 ところが、その直後。


 透明人間を示す光が、徐々に薄くなっていきました。


「うん……?」


 目を凝らしましたが、その光は線香のようにおぼろげになり、やがて、ふっと消えてしまいました。


 豈図あにはからんや。

 相手の気配が完全になくなってしまいました。

 息をひそめてましたが、感じるのは刺すような豪雨だけです。


「うむっ……」


 そうつぶやいた時には、金色の光など影も形もなくなってしまいました。


 どうしたことでしょう。

 相手も私と同じような稽古を積んできたのでしょうか。

 それとも天性の才能のなせる業でしょうか。


 それとも、もしかしたら……


 光など、最初から何も見えていなかったのでしょうか。

 ただの思い込みだったのでしょうか。


 考えてみれば、鞍馬で植芝先生は自由自在に私を打ち付けていましたが、私は植芝先生を叩きのめしたことなど一度もなかったはずです。


 暗闇で戦ったことがある。

 ただ、その経験だけに頼ってしまったのです。


 最後の最後で、とてつもない失策をやらかしました。


 植芝先生の弟子だから私にも光が見える?

 そんなバカな話はありません。

 私は私でしかないのです。


 透明人間は見えません。

 暗闇の中も見えるわけがありません。

 ただの人間なのだから当たり前です。


 窮地に陥り、ありもしない力にすがってしまう。

 武術家など名乗れぬ大失態です。

 合気術がいかに神秘的であっても、神秘そのものではないのです。


 私の相手はそれまでの大袈裟な態度を豹変させ、この勝負に賭けてきました。

 真の透明人間になっていました。

 たとえ立場が互角であっても、暗闇の中で触れ合い、取っ組み合いになったら勝てるでしょうか。


 のぼせあがった私の頭に浮かんだ必勝の思いが、霞のように消えていきました。


 滝のように熱かった汗が、氷のようになっていきます。

 代わってついに意識が疲労を始めました。

 怒涛のような恐怖が襲ってきました。


 なんと愚かな。

 なんと間抜けな。


 お互いの距離は、この瞬間にも一寸ずつ縮まっているはず。

 あせってはいけません。

 手の内をさらけ出してはなりません。


 そう自分に言い聞かせ、もう一度、暗闇の中へ目を凝らします。

 それでも気配は読み取れませんでした。


 何も見えませんでした。


 なにもみえませんでした。

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