トラウデル・ユンゲの日記(3)

 透明人間は頭を振りながら立ち上がった。浅く呼吸を繰り返して、一度大きく空を仰いだ。


「信じられねえ!」


 表情は見えなかったが、声に含まれた驚愕が伝わってきた。


「信じられねえよ! こんな靴屋の小人レプラコーンみたいな兄ちゃんに手も足も出ねえなんてよ!」


 透明人間の包帯はところどころがはずれて、向こう側がいくつも透けている。彼はその切れ端をつかみながらしゃべり続けた。


「そうかよ! そうかよ! 俺のレスリングじゃ、お前には歯が立たねえかよ!」


 巨人は包帯をぐるぐると取り外し始めた。濡れた布を次々に外へ放り投げ、彼は腹からの大声を出した。


「わかったよ! 堂々と勝ちたかったけど、もうしょうがねえ! どうしてもチョビ髭ヒトラーを仕留めて来いって、Vサインチャーチルからお願いされたからな! 処方されたお薬に頼るしかねえや!」


 包帯は風雨の中へ飛び去り、声の主が完全に見えなくなっていった。


 雨で体の外形はおぼろげにつかめたが、退いて屋根の下に移っていくと、どこにいるのか全くわからなくなっていく。私の部屋にひそんでいたときからだが、改めてこの不可解な現象に恐怖が沸き上がった。


 シオタはどうやって対処する気だろう?


 そちらを見ると、彼は小さく後ろに飛びのき、素早く振り返って私たちのほうに駆け寄った。しゃがみ込むと床に転がっていた荷物を固定するペグを拾い、するどく頭上に振りかぶった。


「エーイッ!」


 独特な気合を放ち、シオタがペグを投擲した。あてずっぽうで透明人間にぶつけるのかと思ったが、そうではない。シオタが狙ったのは透明人間ではなく、貨車の電灯だ。天井の一部は破られていたので、まともに動いているのは一つだけだ。その最後の電球がバリッと音を立てて消えた。


 暗闇が舞い降りた。破られた壁の向こうを流れる木々も、隣にだれがいるのかすらわからなくなった。


 遅れてシオタの意図を理解した。相手と自分の条件をそろえたのだ。暗闇の中でなら、透明であることの優位性は失われる。純粋な技術勝負ならシオタに軍配が上がる。


「そうかいそうかい。そういう手を使うのか」


 闇の中から透明人間の声。


「いいさ。なんでもやりな。こちらもそうさせてもらうからよ」


 シオタは答えない。私たちの耳を打つのは雨だけになった。

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