最終話 『エピローグ:それぞれの世界で』

 「……暑いな」


 冷房の効いた帰宅ラッシュの車内から押し出された啓太の口から、思わずそんな言葉がこぼれた。


 そよ風一つない終電間際のプラットフォームは、昼間の残滓を残したアスファルトの熱によって暖められた空気に満たされていた。

 じんわりとシャツの胸が濡れていくのを感じながら、啓太はポケットの中で携帯電話が鳴っているのに気が付いた。


 「はい、一ノ瀬です」


 改札に向かってゆっくりと歩きだしながら、電話に応対する。

 発信元は、上司だった。


 「いや、今回は本当に一ノ瀬君のおかげだよ。ありがとう」


 電話の向こうで、上機嫌そうな上司は啓太に対する賛辞の言葉を並びたてた。曰く、啓太のおかげで今回のプロジェクトが上手く行ったと。

 褒めるべき時は褒める良い上司だな、とぼんやり考えながら相槌を打っているうちに次もよろしく、と一言添えて電話は切れた。


 (よしっ!)


 啓太は電話をポケットにしまいながら、小さくガッツポーズする。

 異世界から帰還して以来、啓太の仕事は全て順調である。


 あの世界から戻ってきてもう半年が経過した。

 最初は冷たく透き通っていた空気も、季節の移ろいによってすっかり変わった。

 鼻から大きく息を吸い込むと、湿ったアスファルトや土の匂いにむせかえるような草いきれ。


 夏の匂いだ。



 「早く家に帰ってクーラーを入れたいぜ」


 そんなことを呟きながら、シャツの胸元をぱたぱたさせて夜道を歩く。

 急がずに、ゆっくりと。


 それでも、自宅に着いた頃には全身がべたべたした汗にぐっしょりと濡れていた。



 「ここも暑いな」


 窓を開け忘れたままで掛けたため、室内は外に比べて一段階気温が高く感じられた。

 これはクーラーをつける前に一度部屋の空気を入れ替えた方がいいかもしれないな、と考えながら啓太はてきぱきと窓を開ける。


 その瞬間、ひんやりと心地よい風が部屋に流れ込んできた。


 部屋に溜まった淀んだ空気を、涼しい風がまるで霧を晴らすかのように吹き飛ばしていく。

 同時に、啓太の体からも汗がスッと引いていくように感じられた。


 (この分なら、クーラーをつけずとも今夜は快適に眠れるかもしれないな)



 そう結論を下した啓太がひとり頷いてカーテンを掴もうとした時――

 ひときわ強い風が部屋に吹き込んできた。


 「うおっ」


 急な突風に顔を撫でられた啓太は、思わず目をつむってそんな声を漏らしてしまう。

 突風は一瞬で、すぐにまた元の穏やかなそよ風に戻った。

 

 (台風みたいにやたら強い風だったな)


 肩を竦めながら室内を振り返ると、机の上に積まれていた書類が床に散乱していた。

 先ほどの風に吹き飛ばされたのだろう。

 

 「はぁ……」


 小さくため息。

 どうやら、布団に入る前にもう一仕事しなくてはいけないようだ。


 啓太は肩を竦めながら、床に散らばった書類を片付け始めた。



 「ん?」


 書類の隙間で、小さな石のようなものが手に触れる。

 取り出してみると、それは青い石のついた革ひものペンダントだった。


 (懐かしいな)


 ペンダントを持ち上げ、蛍光灯の光に透かして見る。

 光が当たったことで、石の輝きが増した。


 「こうしてみると、ただの石にしか見えないな」


 こうして手で持って、透かして見たところで何の力も感じない。

 まるで、既に力を使い果たしたかのように。


 啓太は苦笑いをしながら、ペンダントを元々置かれていた場所――書棚にそっと戻した。

 もう魔力を失っていたとしても、今となってはこれだけが唯一啓太が異世界にいたという証拠である。


 腰に差していた剣も、懐に入れていた羊皮紙やお金もこの世界に戻った時にはなくなっていた。

 あのペンダントに込められていたのはきっとそういう魔法なんだろう。


 もしかしたら、この魔法を開発した初代ナジャ法国国王は、地球にに異世界の物を持ち込ませたくなかったのかもしれない。

 その気持ちも、なんとなく理解できる。



 (ティア達は、元気にやっているんだろうか)


 久しぶりにペンダントを見たからだろうか。ふと、そんなことを考えた。


 時間も空間も離れたあちらとこちら。

 毎日のように共に過ごしていたというのに、今となっては二度とたどり着けない程遠い所に離れ離れになってしまった。


 「……」


 今日は、やたらとあの時の出来事を思い出す日だ。

 ためらいながらも、啓太は再び棚に手を伸ばしてペンダントを手に取った。


 ペンダントを握りしめたまま目を閉じると、今でもあの駆け抜けたような日々がありありと思い出される。

 

 「エレナ、アダム、カルラ、エマそしてガブリエラ」


 ナジャ法国で啓太達を手助けしてくれた人たちの顔が脳裏に浮かぶ。


 「プレディガー、メルキオール、エーベルハルト」


 かつては対立した帝国も、今はヘリアンサス王国のよき隣国となっていることだろう。


 「デニス、フィルマン」


 旅の途中では、ずいぶん世話になった。

 結局、碌にお礼も出来ずにこっちの世界に戻ってきてしまったな。


 「ヘリオス、ポール、セシル」


 ヘリアンサス王国は、異世界から来た啓太にとっては本当に頼れる国だった。

 ティアが召喚した『賢者』という肩書を超えて、色々と手を貸してくれたことには感謝しかない。



 「ニーナ、クロエ、シルヴィ」


 最もたくさんの時間を共に過ごし、多くの壁を一緒に乗り越えてきた仲間達だ。

 今でも、彼女たちとの出会いや過ごした時間は昨日のことのように思い出される。


 「……あいつらに、ちゃんとお別れを言えなかったのは残念だったな」


 大体は、急かしたティアが悪い。

 だが一方で、三人に挨拶をしたらきっと啓太の決心が鈍るだろうことを、ティアが見越していたような気もする。


 「ティア」


 そう、ティアだ。

 ティア・ローズ・クラリス・シャリ―エール。

 ヘリアンサス王国第一王女にして大陸最強の魔法使い。


 輝く金髪や吸い込まれそうになる瞳を持ち、いつも弾けんばかりの笑顔を見せてくれる、そんな少女だった。

 

 啓太や仲間が危なくなると、後先考えずに戦場に躍り出てその魔法ですべての敵を打ち砕く、そんな少女だった。


 一見無邪気で何も考えていないようで、そのくせ一番に皆の幸せを考えてくれる、そんな少女だった。


 (きっと、良い女王になるだろうな)


 自然と、啓太の頬が緩んだ。


 

 「『大好きよ、啓太』か」


 最後にティアから聞いた台詞を脳内で反芻する。

 涙にぬれた顔で言われたその言葉が何を意味していたのかは、今となってはもう訊くことができない。



 答えを探るように、啓太はペンダントの革ひもを首に通す。

 半年ぶりのペンダントは、不思議なほどずっしりと重く感じられた。


 自然と、言葉が口からこぼれる。


 「もう一度、ティアに会いたいな」












 「――だれに会いたいって?」


 




 夢だと思った。


 それは、決して聞こえるはずのない声だ。

 鈴のような綺麗な声。

 半年間、啓太が何よりももう一度聞きたいと思い続けていた声。


 


 ゆっくりと、振り返る。





 「久しぶりね、ケータ!」


 開け放たれた窓の前で、風に金髪をたなびかせた一人の少女が立っている。

 その顔には、依然と全く変わらない笑顔が弾けていた。


 ティア・ローズ・クラリス・シャリエールが、そこにいた。



 「ティア! どうしてここに!?」

 

 ティアは、微笑みながら啓太の胸元を指さす。


 「私ちゃんと言ったでしょ? そのペンダントは二つの世界を自由にようにするものだって」

 「……まじか」


 流石にあの場面で、効果の詳細を確かめる余裕なんて無かったぞ。


 「もう、私ずっとケータがそのペンダント着けるのを待ってたのよ!? どうして着けてくれなかったの?」

 「いや、このペンダントはこっちの世界だとやたらと目立つんだよ。流石にそんなのつけて仕事も行けないし」


 若干バツの悪そうな表情になりながら、啓太が言う。


 「というかティア、自由に行き来できるんならなんであんな今生の別れみたいなこと言ったんだよ!」

 「それはまあ、なんていうか……雰囲気?」


 こいつ。


 (まあでも、そんなところを含めてのティアなんだろうな)


 久しぶりに話しても、ティアはやっぱりティアだった。


 「そもそも、私とケータの間には魂レベルでのつながりがあるって知ってるでしょ? ケータがそのペンダントをつけてさえいれば私も自由に行き来できるのよ」


 なんて? 

 意外と近かったぞ異世界。


 「……まさか、こっちに居座る気じゃないだろうな」


 恐る恐る尋ねてみる。

 ティアのことだから、なんなら一週間ぐらい観光したいと言いかねない。

 まあ、まんざらでもないが。


 「そんなわけないじゃない。今日来たのは、またケータに協力してほしいことがあるからよ」

 「協力? 王国で何かあったのか?」


 ヘリアンサス王国がまた啓太の助けを必要とするということは、再び何か事件が起きたのかもしれない。

 啓太は襟を正して話を聞こうと――


 「ううん、王国は何にもないわよ? 平和そのものって感じ」

 「じゃあ、俺に助けて欲しいのは?」

 「ヒータのことなのよ!」



 ……ヒータ?

 それって確か――


 「忘れたの!? 羊のヒータよ!」

 「……ああ、そんなのもいたな」


 そう言えば、法国に出発する前にティアがペットにしていた羊の名前だ。

 なんとなく、この先の展開がわかる気がする。


 「そのヒータがね、最近元気が無いのよ! ケータ、助けて!」

 「……それだけ?」

 「それだけよ! さあ早く!」


 一方的に要件を伝えると、ティアはぐいぐいと啓太の腕を引っ張った。


 (どこの世の中に羊の食欲を改善するために異世界に行く奴がいるんだよ)


 心の中ではそんなツッコミを入れつつ、啓太は苦笑いを浮かべながら引っ張られるに任せる。


 どんな理由であれ、再びあの世界に行き、皆に会えるのだ。

 断ったらバチが当たるというものだ。


 「ほら、急がないとヒータがどんどん痩せちゃうわ!」

 「ちょっ、急かすな! 羊がそう簡単に痩せてたまるか!」



 そんな軽口をたたきながら、啓太はティアと手をつなぐ。

 固く、しっかりと。


 

 きっと今度も、羊の食欲を直すだけじゃすまないのだろう。

 まったく、やれやれだ。



 「ティア、来てくれてありがとうな」

 「ん? 何か言った?」

 

 聞かれないように小声で発したお礼の言葉を、こういうときだけ耳ざとく聞きとめるティアに笑顔で返しながら。



 「何でもない。ほら、行くならさっさと行こう」


 

 啓太の視界は眩い光に包まれていく。


 (あ。羊の飼い方ぐらいネットで調べてから行けばよかった)



 ちっぽけな後悔を携えて。

 


 啓太はティアと一緒に再び世界の境界を跨ぐ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

賢者に間違えられましたが、何とか国を立て直します!~王女に召喚されたコンサルタントが国を改革します~ おうさまペンギン @King-Penguin

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ