妄想

秋野大地

第1話

 東京地裁の四二六号法廷は、一つの空席もなく盛況だった。

 傍聴人は抽選で選ばれている。傍聴希望者が多数いるため、中に入ることのできる確率はいつでも低いようだ。

 もっとも私は、法廷に入るのに抽選など不要だ。私は、裁判の証人として出廷したのだから。

 注目裁判の法廷は色めきたち、場の空気は肌を突き刺すようにびりびりしている。本来の裁判が纏う厳粛な空気に加え、水面下に潜んだ異様な熱気が上昇し、それが部屋に満遍なく漂っているという感じだ。

 被告席には池田信夫がいる。

 その顔は神妙で、目が座り落ち着いていた。

 おそらく今の彼には、そういった人格が降りているのだろう。そうであるなら、彼は淡々と裁判の成り行きを眺め、内容を理解し、全てを黙って受け入れるはずだ。

 その彼の姿に、大勢の好奇の眼差しが注がれている。しかし池田信夫は、そんなことや私が出廷したことを気にも止めない様子だ。まるで彼が、私のことなどとうに忘れてしまったかのようだ。

 逆に多くの傍聴人は、私に対しても興味深々のようだった。

 それは当然だった。私の証言は、裁判の結果に大きな影響を及ぼすかもしれないのだ。

 池田信夫も、そのことを認識しているはずだ。しかし肝心の彼は、私に対しまるで無関心を装っている。いや、彼は本当に、裁判の結果などどうでもよいのかもしれない。

 結局私には、彼の深層部に潜む思惑などさっぱり理解できない。思惑どころか、彼の感情の動きすら察知できないのだ。

 本件の審理に際し裁判所は、自ら選出した鑑定人による被告の鑑定書を取り寄せている。

 被告池田信夫の精神鑑定結果だ。その結果が被告にとって芳しくない内容であることが明らかになると、弁護人は精神科医の私に、彼の主治医として意見書の提出と証言を依頼してきた。

 つまり裁判所が要請した鑑定の結論は、池田信夫が起こした事件に対し、彼に責任能力が十分あるというものだったのだ。

 私はテレビや新聞の報道を通しそのことを知っていたし、自分が鑑定したところでその結果は大して変わらないだろうという確信めいたものも持っていた。

 弁護人が依頼した私の鑑定書は裁判で意見書として扱われるが、その内容は先の鑑定書と何ら変わらない種類である。

 私は依頼を受けた時、迷った挙句、自分の正直な意見を述べさせてもらうという条件でこの役目を引き受けた。

 この証言を引き受けるのは、勇気のいることだった。世間から決定的な反感を買った池田信夫を公の場で擁護することにでもなれば、反感の矛先が自分にも向けられる。

 それに私は既に、池田信夫が私の患者だったという理由だけで、この件では嫌というほど世間から攻撃されていた。

 そして鑑定結果も、結果の予測がついている。それは決して、池田信夫を助ける内容にはならない。

 しかし鑑定結果がどうであれ、彼が特異であることに変わりないと私は信じている。

 私はその辺りの真実を述べたいという衝動に駆られていた。

 裁判所が選定した鑑定人にしても、池田信夫の精神鑑定にはすっきりしない後味の悪さを感じているのではないかと思っている。


 池田信夫が引き起こした事件は、約一年前にさかのぼる。彼が私の病院へ来たのが、更に半年遡った頃だった。つまり彼は、通院中にその事件を起こしたということだ。

 池田信夫は、朝の通勤で混み合う東京JR渋谷駅前のスクランブル交差点に自分の運転する車で突っ込み、大勢の人を死傷させたのだ。

 後の調べで、アスファルト上に一切のブレーキ痕がなかったことから、車が何の躊躇もなく人垣を目掛けて突進したことが分かっている。

 つまり彼は過失で事故を起こしたのではなく、人を殺傷する意思を持って車を運転していたとみなされた。

 それは、彼が事件を起こした際の様子からも明らかだった。

 事件当時、周囲にいた人間は、最初にそれを単なる事故だと思った。しかし当該車は自分のなぎ倒した人に乗り上げ、速度が落ちても車体を揺らしながら強引に進もうとし、居合わせる人たちに対する攻撃の手を緩めなかった。

 運転手が通行人を狙っていることに気付いた人たちは、恐怖に顔を引き攣らせて車から逃げることになった。それが周囲のパニックを誘い、騒ぎの輪が拡大した。

 ある者は速度の落ちた車から池田信夫を引きずり出そうと試みたけれど、ロックの掛かったドアは堅牢な金庫のように決して開かなかった。手持ちの鞄で窓を割ろうとするサラリーマンはそれが成功せず、車の標的となり返り討ちにあった者もいた。

 駅前交番が異変に気付いた時、第一現場は既に修羅場と化していた。車が殺意をむき出して攻撃すれば、居合わせた人々に為す術はない。

 動けなくなった大勢の怪我人がうめき声を出してうずくまり、中には微動ださえしない血まみれの人も路上に転がった。

 その周囲を、大勢の人々が白目を向いて逃げ惑う。

 車は人々を追い掛け回して方向転換を繰り返し、歩道にも平気で乗り上げ体当たりする。

 もう誰の手にも負えなかった。

 巡査が血のこびり付く車の前に到達すると、車内は既に無人だった。

 すると今度警官は、自分たちがやって来た駅入口方面から、人々の恐怖に慄くざわめきを感じることになった。

 巡査は無線機で所轄署に状況報告を入れながら、人混みをかき分け必死に騒ぎの中心へと向かった。

 その頃ようやく、応援のパトカーのサイレンが聞こえ始めた。巡査の無線連絡に加え、多くの緊急通報から、複数のパトカーや救急車が現場へ急行していたのだ。

 そこへ居合わせた人たちは、ワイドショーのインタビューで、その地獄絵を生々しく語っている。

 裁判でもそれらは詳しく語られたが、当時テレビで様子を見ていた私は、静かな居間に突然出現した映画シーンを見るような気持ちで画面に釘付けとなった。まさか自分が、後にその事件と深く関わることになろうとは、むろん夢にも思わない。

 その時の私は、単なるお茶の間の一傍観者だったのだ。

 テレビではインタビューで得た情報を元に多くの解説用パネルが作製され、カメラがそれらをクローズアップし、事件現場が刻々と再現されていた。

 それによれば、車が縁石に乗り上げて身動きが取れなくなると、池田信夫は優雅に降車したようだ。

 取り巻く大勢の人たちが、呆然とその様子を見守った。勇敢な三人の男がその狂人を取り抑えようと飛びかかったが、次の瞬間、周囲の人たちが一斉に息を飲む。

 池田信夫は今度、刃渡り十五センチのミリタリーナイフで、それらの人を切りつけ刺したのだ。

 不意をつかれた三人の内二人は呆気なく彼の足元に崩れ落ち、一人は腕に軽傷を負いながら次の刃をかわして逃げた。

 この時池田信夫は、倒れた相手の首筋へ念入れにナイフを滑らせるという、まさに狂人的行動を取っている。その時の狂気に満ちた彼の目と、口元がわずかに歪んだ彼の顔は、まるで殺人を楽しむかのようだったと報告されている。

 ここで第二のパニックが起きた。

 彼は返り血を浴びた顔で、血糊の着いたナイフを高々とかざし、群がる人々に襲いかかったのだ。

 我に返った観衆が、慌てて一斉に動く。彼は逃げ惑い将棋倒しになった人々へ馬乗りになり、躊躇なく次々とナイフを突き立てた。

 彼の通った後に、血の海ができていく。そうなると、誰も狂人を押さえ付ける勇気を持てなかった。

 警官が集まり出したことを察知した池田信夫は、突然駅構内に逃げ込み、無差別に人を切りつけながら階段を上った。そして通路の端に追い詰められ、彼は一人の女子高生を人質に取り、壁を背にして警官に取り囲まれた。

 この時彼は、事もあろうに、人質解放を説得する警官の目の前で、顔に薄ら笑いを浮かべて人質を滅多刺したのだ。

 その凶行を機会に警官らが一斉に飛び掛り、池田信夫は殺人未遂の現行犯逮捕となったが、人質の女性は搬送先の病院であえなく死亡した。

 被害が把握されると、彼の容疑はすぐさま殺人に切り替えられた。

 駅前の交差点には何台ものパトカーと救急車が集まり事態の収拾に努めていたが、それだけの大惨事は簡単に収まるはずもなく、その様子はテレビカメラを通し世間の人々にショックを与え、大きな後遺症をも残すことになった。

 結局それは、死者二十六人、重症五十三人、重体十五人、軽傷者百十八人の被害者を作り出した、史上空前の大事件となった。

 テレビワイドショーや週刊誌は、競い合ってこの凶行を報道した。その中で犯人の名前が明かされ、私は驚愕した。

 狂人が、私の患者だったからだ。断片的に出る犯人の写真も、紛れもなく見慣れた患者の顔だった。

 どこから聞きつけるのか、私の病院の前にテレビカメラが集まり出した。自宅や病院の電話はひっきりなしに鳴り、取材の申し出が絶え間なく続いたが、私はそれらを無視した。

 その内報道は、なぜそのような異常者を病院が放置していたのかという論調となり、我が病院は世間の冷たい目に晒されることになった。

 この空前絶後の騒ぎは二週間程で一旦落ち着いたが、池田信夫の起訴や初公判というイベント毎に、息を吹き返すように私の周囲を騒がしくさせている。

 院長であり主治医である私は、様々な報道の中で憎悪に満ちた糾弾の対象となり、世間の悪感情は増長するばかりだった。


 刑事たちも、私の元へ足繁く通った。もちろん私は、それにはきちんと対応した。

 刑事たちの質問は、池田信夫の疾患が、刑事責任を問えるレベルのものかどうかに焦点が絞られた。刑事たちの心情には、これだけの被害者を出した犯人が精神異常で責任を問えないということになれば、被害者やその遺族は報われないという前提があるように思われた。私はそれを理解しながらも、聴き取りに対しては一人の医者として、できるだけ客観的事実を述べるように努めた。

 私の回答は、時に刑事らを喜ばせ、時に落胆させたようだ。私には、彼らの反応が一つの決まった方向を持たない理由を、よく理解できた。つまり池田信夫は、医学的見地から、精神的に異常であり正常でもあったからだ。

 伝える私が混迷しているのだから、聞いている医学素人の刑事たちが混乱するのも無理はない。そのことで、聴き取りはすんなり運ばず、刑事たちは私の元へ何度も足を運ぶことになった。

 刑事らは同じ質問を、形を変えて何度も私に投げた。そうすることで彼らは、私の回答に矛盾がないかを検討し、私に嘘や勘違い、あるいは間違いがないかを確認しているようだった。


 私の病院は、東京都O市の町外れにある。鉄格子のはまる窓を持つこうした種類の病院は、町の真ん中に堂々と存在しづらい空気があった。患者やその家族にとっても、人目に触れにくい郊外型病院の方が、敷居が低いようだ。

 閉鎖病棟は厳重に管理され、仮にそれが町中にあっても事実上差し障りはないが、近隣の心証を考慮すれば自ずとそうした郊外型の病院が多くなるのが現実であり、我が病院も例外ではない。

 病院は町外れから丘へ上る細い道に入り、曲がりくねる上り坂を車で五分走った所にある。丘陵のてっぺんに位置し、病院の屋上からはO市の中心までを一望できる。

 正門から病院の敷地へ入ると、芝生に囲まれた通路が本館の正面玄関まで繋がっている。駐車場が建物の裏手にあるため、正面からの景観は広々とする芝生が広がり、病院としては恵まれた環境にあった。

 その長閑で平和的な病院に池田信夫が初めて訪れたのは、春の陽だまりが眠気を誘う穏やかな日だった。

 その日、通いの医師が病欠で、たまたま院長兼病院オーナーである私が診察室に入っていた。そこへ池田信夫が、痩けた頬の栄養失調のような顔付きでぬらりと現れたのだ。

 彼の第一印象を、私は昨日のことのように覚えている。

 診察室に入った彼は猫背でおどおどし、顔色は冴えず比較的長身の身体は痩せ、特に目の動きに落ち着きがなかった。少し罵倒しただけで自殺を図りそうなくらい、弱々しい印象だった。

 私は出来る限り温和に、目の前に座わる彼をいたわるくらいの気持ちで訪ねた。

「今日はどうしましたか?」 

 しかし彼は無言だった。

 勿論、最初は何も話せない患者がいる。逆に仰々しくあれこれ話し過ぎる患者もいる。それが何れであっても、それだけなら珍しくない。

 しかし、上手く話せないタイプの患者は、何をどう説明してよいか分からず困惑の表情を見せたり、伝えたいことを上手く表現できず顔に苦しい表情を浮かべたりするものだ。

 しかし、池田信夫の場合は少し違った。

 彼は、私が彼に何かを問いかけたという事実がまるでなかったように無反応だった。

 そこで私は、彼が他人の言葉を理解できないのだろうかと疑った。

 仕方なくもう一度声を掛けようとすると、彼は横を向き、診察室の白い壁に神経を集中し出した。私もつられて、何かあるのだろうかと壁を見る。

 しかし壁は、いつもと同じように、何もないただの白い壁だった。

 私が彼に視線を戻しても、池田信夫は首を横に向けたまま、何の特徴もないただの壁を凝視し続けた。

 彼にはそもそも、私に何かを伝えようとする意思がないのだろうか。

 診察には何かしらの会話が必要だという認識がないような、あるいは自ら来院しておきながら、まるでそのことを忘れているような状態だった。

 その時私に、これはいささか厄介な患者かもしれないという直感が働いた。私は彼を見つめ、ただの壁を見つめる彼の様子を無言で観察した。

 彼は完全に上の空だった。私は二分か三分くらい、その状態で彼が話し出すの待った。

 仕事柄、待つことに慣れている私にも、その時間は随分長かった。それが、何の期待も持てない待ち時間だったからだ。そして私の方がその無意味な時間に耐え切れなくなり、仕方なく次の言葉を吐くことになった。

 私は名前と住所、生年月日と年齢、性別の書かれたカルテを手に取り、それを確認してから横を向く彼に言った。

 自己申告によれば、彼は三十二歳だった。

「池田信夫さん、ここでは言いたくないことは無理に言わなくてもいいんです。普通の世間話でもいいんですよ。少し気楽に話してみませんか」

 その言葉で彼はようやく我に返り、視線を私に戻した。

 彼の困惑が、その目の動きから読み取れた。ようやく彼から人間らしい反応を得たことで、私は肩で息を吐き出した。

 彼はかすかに口を開き、自信がなさそうに何かを言った。

 しかし私は、まるでそれを聞き取れなかった。声が小さいのと、滑舌が悪いせいだ。それは、異国の言葉を発したのかと思うくらいだった。

「今、何とおっしゃいました?」

 彼はみるみる泣き出しそうに顔を曇らせ、うついて言った。

「よくあるんです」

 前後脈絡のない言葉を吐いて、彼の口はまた止まる。

 私は勢いをそがれた気がして少し心が塞いだが、気を取り直して言った。

「よくあるんですね……」

 私の適当な相槌あいづちに、彼は口を半開きにし、今度は驚いたような表情を顔に張り付かせた。

「先生には、分かるんですか?」

 如何にも不思議だという口調だった。

 私は、何が? という言葉を飲み込み言った。

「実のところ、何がどうなのかよく分かっていません。それであなたには、一体どんな問題があるのでしょう?」

 彼は私のその言葉に一瞬目を見開き、それからすぐに突然落ち着きを取り戻す。

「精神科の先生なら、当ててみませんか?」

 静まり返った部屋で、彼の声と台詞は一瞬、輝きを見せるくらい理知的な響きを伴った。高みから私を見下ろすような態度の変化に、正直私は面食らい、同時に違和感を覚えた。

 言葉に挑発的な匂いを含ませながらも、顔や態度に不遜な様子は見受けられない。

 垣間見えた彼の自信は瞬間蒸発するように消え、彼は再び怯える目をした。それは、私の反応を探る目だったのかもしれない。

 瞬間的に感じた彼の尊大さを、その時の私は自分の気のせいだろうと思うことにした。しかし私の中に、何かしらの警戒心が芽生えたのも事実だった。

 私は思い切って、正直に言ってみた。普通はこれ程単刀直入に、初診の患者に言わないことだ。

「私はあなたに、一種の解離症性同一性障害を感じているのですが、如何ですか?」

 つまり人格が目まぐるしく入れ替われば、彼の不可解な態度も理解できそうな気がしたのだ。同一人物であっても、人格Aは人格Bや人格Cのしていることを含めた記憶を共有できないケースが多い。

 彼は眉根を寄せ、「つまり先生は僕に、多重人格の疑いを持っている、ということですかね?」と静かに落ち着き払って言った。

 会話を継続させるため、敢えて素人には分かりにくい専門用語を使ったにも関わらず、彼は平然と私の言葉を理解した。しかもそれを言う彼は、再び内に秘めた自信を覗かせている。もっと極端な言い方をすれば、彼の言葉はやはり挑発的なのだ。

「まあ、その辺のことは、これからじっくり検査を含めて見極めていきましょう。ところで、普段よく眠れないとか、不安でどうにかなりそうなどの具体的症状はありますか?」

 私は得体の知れない彼と交わす会話に区切りを付けようと、そんなふうに訊いた。

「今先生がおっしゃった症状で、私に当てはまるものはありません」

 やはり彼から、先程の弱々しい印象は消えている。言葉の最後も、はっきりとした言い切り調だ。

「では、他に何か症状と呼べるものがありますか?」

「そうですねえ、妄想癖があります。自分でも気付かないうちに、何かをきっかけに妄想の世界に入り込んでしまうようです」

 私はカルテに、デリュージョン(妄想)とマルチパーソナリティ(多重人格)の二つの文字を英語で走り書きし、それを一本の線で繋いだ。彼は別の人格に移行した際、それを妄想と誤解している疑いがあるためだ。つまり彼の中に存在する複数の人格は、記憶の共有を含めた何らかの繋がりがあるのかもしれない。

「私にも似たようなことがありますよ。多かれ少なかれ、みんなにありますがね、そんなことは」

 池田信夫は、ようやく理解者を得ることができたというふうに安堵した表情でゆっくり頷く。

 私はその時、彼を少し揺さぶってみたい衝動に駆られた。

「しかしお見受けしたところ、あなたの場合は他と少し違うかもしれませんが」

 上げた後に下げてみるという、一種の陽動作戦を仕掛け、私は彼の表情を更に注視した。

 私はこの時、彼が瞬間目を見開いて、動揺を悟られまいとその顔を咄嗟に封じ込めたのを見逃さなかった。彼は私の言葉に怯えたのだ。診察室を訪れた時の最初の人格が、再び顔を覗かせているようにも思われた。

「僕はやはり、何か変ですかね?」

「それはまだ何とも言えません。これから診断を続け、きちんと結果を確認することになりますから、今から余計な心配はなさらないで下さい」

 彼の顔に、今度は焦燥が浮かぶ。

 今の彼は、どうやら気の弱い人間らしい。しかし、何かが分断されているようで、その反面、記憶や状況判断の継続性はあるようだ。私は分断と継続という二つの言葉を、やはり英語でカルテに書いた。

 いつも気弱で素直なら、それは比較的与み易い患者だ。患者をこちらの意のままに誘導できるのは治療が楽だ。

 しかし途中で見せた彼の人格は、まるでその反対だった。人を試し、相手の底の丈を確認し、主導権を握る術を知っている。そんな患者と対峙することは、これまで何度もあったように、こちらの神経が摩耗する。

 職業柄致し方ないことだという諦めがあっても、その頃の自分は、そんな仕事環境から解放されたいという願望が心の隅にあった。長年こんな商売をしていると、ウイルスが感染するように、どうしても自分の精神が疲弊するのだ。だから私はある時期から、出来るだけ治療の前線に立たないよう努めていた。

 それでも池田信夫の件は、その後も私が受け持つことにした。それには、私が彼に少し特異な印象を持ったことが関係していた。久しぶりに学者魂に火が着いたと言えば聞こえはいいが、彼に不思議な興味をそそられたと言った方が理由は正しい。

 池田信夫はそれから、私の患者として定期的に病院へ通った。基本的に診察は、週二回のペースとなった。


 ここまでを二人の刑事に話した時、彼らの顔には明らかな困惑の表情が浮かんでいた。

「それで結局、池田は精神異常ですか? それともまともなんですか?」

 肩幅が広く、如何にも柔道有段者という風情の角刈りの刑事が、冗長で結論の曖昧な私の話に苛立ちを隠さず訊ねた。

「それが、彼の様子には異常性が見え隠れするのですが、テストの結果はまるでまともです。知能だけを言えば、彼は人並み以上に優れています」

 そう言いながら私は刑事たちに、気になっていた質問を投げてみた。

「池田信夫は、取り調べに対してどんな態度ですか? 彼は自分の異常性を自らアピールしましたか?」

 二人の刑事は顔を見合わせ、苦々しい表情を顔に浮かべた。リーダー格と見られる角刈りが口を開いた。

「奴は取り調べに対し、自分のした事を全て素直に認めています。態度は従順で、どちらかと言えば我々を恐れているように見える。そこまでは問題ありません。もっともあれだけ派手にやらかしたのだから、言い逃れは全くできないのですが。ただし動機の部分になると、全く話しにならない。例えば、自分は地球外から神の遣いとして地球にやってきたと言うんです。やってきた目的は、地球の浄化ということでした。そんなふうに、話が全くまともでない。それ以上問い詰めると、こちらをじっと見て口を閉ざす。しかしその時の彼は、強行に黙秘を貫くというふうでもない。その部分になると上の空になり、突然暖簾に腕押し状態となります。こちらがいくら怒鳴ろうが、逆に優しくしようが全く感じないし動じない。しかもこちらが無理やり何かをこじ開けようとすると、今度は急に落ち着いた表情で切り返してくる。それも怒りに任せて何かを言うのとは少し違います。冷静沈着に、あなた方が私の話を信じられないことは理解できますと言うんです。それでも切り込むと、これだけの物的証拠や証人がいれば、動機など曖昧でも公判でつまずく心配はないはずだと、しれっと言うのですよ。それもぞっとするくらい冷ややかに。いや、本人に責任能力があるなら、全くその通りです。これは間違いなく死刑判決が出るケースでしょう。しかし奴は、裁判の結果などまるで気にしていない。死刑判決が出ようがお構いなしという具合ですから、自分の病院通いもまるでアピールしない」

 なるほど彼は、取り調べ室でも掴みどころのなさを発揮しているようだ。

 私は彼について、もう少し説明を試みた。

「先程も申し上げたように、彼は最初、随分おどおどして、精神を病んでいるように見えました。これは最近増えている、自律神経失調症かと思ったくらいです。しかし私はそんな彼に、初診から翻弄された。これも先程申し上げた通りです。どうも奇異な感じでした。表面的には見えにくい何かが、彼の中にあるように思えたんです。それは彼の治療を進める上で、次第に顕著になりました。いや、顕著になったというよりも、混迷を深めたといった方が妥当かもしれません」

 池田信夫の場合、治療の過程で少し問題があった。

 池田信夫は私の元へ通院しながら、普段から私の一挙手一投足に反応を示した。私が元気付ける事を言えば笑顔になり、私が脅せば不安になる。

 実はそれは、彼がある程度まともであることを示しているのだ。私の言う事を理解し、話の先を予想し、喜怒哀楽という形で反応を示すことができるのだから、その部分では至極真っ当だった。

 しかし私は、やはり彼に違和感を抱き続け、彼の何かを疑っていた。それでも私は、その何かの正体を解き明かすことができなかった。

 しかし私は、そのことを自分の胸にしまっておいた。初診の際に彼が見せた私を試すような態度が、心の隅に引っ掛かっていたからだ。

 私は医者としての威厳を保つため、自分の底を彼に見せまいと抵抗しながら、いつか池田信夫の正体を暴いてやると躍起になっていた。

 しかし気付けば私は、池田信夫と腹を割って話すようになっていた。つまり医者と患者の間にある診断という意味を持つ会話ではなく、友人と食事をしながら共通する興味深い話に花を咲かせるといったふうにだ。

 ある日私は池田信夫に言った。

「多くの患者は、脳の問題と心の問題が同じ根幹に根ざしていることを理解できないんです。いや、正確に言えば、理解できるけれど理解しない、ということかもしれません。多くの人はあたかも身体の中に、心という臓器があるかのように考えてしまうのですよ。それは脳という、身体の中で唯一の知能体が作り出す罠であり、それが精神疾患というものを複雑化しています。つまり、通常の臓器のように、悪い部分に薬剤を投入したり、取り除いたり、あるいは人工物に置き換えるという治療法が取れないばかりか、自身がその病を理解できないところにこの手の病の厄介さがあるんです」

 そして人は、身体の中に心という個体が存在し、その部分が病んでいるという概念を捨て切れない。これはある意味、神秘的な現象だ。

 その証拠に、自分には何も問題がないはずだと主張する多くの患者は、重症になるほど自分の精神疾患を自覚できない。そのことは、絶妙なトラップを含んだ沢山の質問に対する回答に、多くの矛盾点があることから露見する。あるいは、第三者が気付いてくれる。

「しかしあなたの場合、あなたは自分のことをしっかり把握しているように見えるのです。それも人並み以上に」

 私は池田信夫の前に、鑑定テストの結果を広げていた。

 実際彼は、自分には何かしらの問題があると主張しながら、そして多重人格の様子を見せながら、鑑定テストではいつも完璧な回答を差し出した。それは設問に隠されたトラップを見抜き、正解が何であるかを初めから知っているような回答だった。結果はテストの度にばらつきを見せることもなく、全く正常であることを示す好成績で安定していた。元々知能と精神疾患との相関は認められないが、彼の知能は通常よりも遥かに高いという結果も出ている。

「このようなことを申し上げるのは甚だ失礼ですが、あなたの態度の全てが、何かの計算に基づく芝居ではないかと疑いたくなることもしばしばです」

 ぼんやり聞いていた彼が、口元ににやりとした微笑を浮かべた。

「先生、芝居などしておりません。そもそも芝居をする理由もありませんよ。それと先程の先生の発言を、一つだけ訂正させて下さい。脳を取り替えることが不可能というのは、もはや過去のことになりそうです。ある脳外科の権威が今度中国で、脳の移植手術を行う予定です。彼に拠れば、脳移植は他の臓器移植に比べ遥かに安全だということです。脳を取り替えるということが何を意味するか、先生なら分かりますよね。それは記憶も含め、心を取り替えることになるんです。人格を入れ替えるということですよ。つまりその医者は、いよいよ神の領域を犯そうとしているのではないでしょうか?」

 ここで刑事たちの顔が反応した。池田信夫の自供に出てきた、自分は神の遣い、という内容と関連しそうだからだ。

「それで先生は、池田信夫に何と答えたのですか?」

「その通りだと答えました。私は脳移植の話が、彼の人格の一つが創作した話だと思っていましたが、暫くしてそれが事実であることを知り驚きました。ある高名な海外ドクターが、それを発表したのです。しかも、手術が中国で行われることまで池田信夫の話と一致していた。一体彼は、どうやってその情報を手に入れたのか不思議でした。それを知った時、もちろん私は池田信夫の話を思い出したのですが、人格を入れ替える手術に一体何の意味があるのだろうかと、私は今でも疑問に思っています」

「つまり先生も、その手術は神の領域を犯す内容だと思うわけですね?」

 私は頷いた。脳移植に限って言えば、まさにその通りだと思う。

「後に私は、池田信夫に脳移植の情報をどこから仕入れたのかを尋ねました。しかし彼は、そんな話をしたこと自体、すっかり忘れていましたよ。わざととぼけているのでもなさそうでした」

 それだけではなく、池田信夫の話には、興味深いものが多かった。

 例えば彼の話は、人類の道徳的背信行為に焦点を当てている節があった。彼は人類が原爆開発を行い実際にそれを使ったこと、自動車拡販により世界中で事故が起こっている事実、武器輸出を維持するためのでまかせ、世界覇権を目指した米国や中国の謀略とその延長線上にある戦争等々、話のスケールも大きかった。

 会社を大きくするため、成熟した文化を持たない国に懸命に車の拡販を続けた結果、それらの国々に何が起こったかを語った本人が、その車で大量殺戮を実行したのだ。その行動は、彼一流の当てつけだったのかと勘ぐりたくもなった。

 角刈りの刑事が、やはり口を挟んだ。

「ちょっと待って下さい。通院中の彼には、そういった風刺絡みの話が多かったのですか?」

「いつものことではありませんし、彼から積極的に話し出すわけでもありません。例えば先程の脳移植の話題のように、私と彼の会話から、そういった風刺の効いた内容に自然と話題が流れるというのが大半でした。そういったことでしたから、私はいつも、彼の持つ引き出しの多さに驚かされましたよ。何せそれぞれの話には具体性があり奥も深い。そうなると彼は私の患者というより、格好の話し相手になりました。それだけ興味深い話ばかりなのです。しかしそれらの話を通して、彼から思想じみたことを感じることはありませんでした。まるで彼は、学者が研究した内容を客観的かつ論理的に語るようでしたし、実際納得のいく話ばかりでした」

「そういったことから、何かを糾弾しなければならないという話は、彼の口から一度も出ませんでしたか?」

 角刈りの刑事は上体を前のめりにし、相変わらず上目遣いでこちらを鋭く覗き込むようにしている。

「それは一つもありませんでしたし、彼の話し方に気負ったところは感じられませんでした。とても教養の深い人間と話をしているという印象しかないのです」

「例えば彼の話はどんなことですか? もう少し詳しく伺いたいのですが」

「例えばですか……」私は少し考えて続けた。「世界における携帯電話の年間製造台数が何台くらいかご存知ですか?」

 刑事たちは私の突然の質問に顔を見合わせ、その後想像もつかないと言った。

「池田信夫の話に拠ると、携帯電話は世界中で年間十四億も製造されるらしいのです。一年に世界人口の五分の一もの数が作られるのですから、とてつもない製品です。携帯電話は世の人の生活スタイルを激的に変え、産業界の勢力分布を塗り替えました。その製品には、プラスチックや金属、ガラス等の材料がふんだんに使われていますよね。それらの材料の総量を想像すると、気が遠のくほどの大量の物資が実際に使われている。それらや完成品を運ぶためのトラック燃料も相当な量に上り、更に製造現場で使う電気もばかにならない。それらの資源は奪い合いになっているほどですが、一方で毎年大量の携帯電話が捨てられる。一部の大手は、そこから材料を再利用する活動も進めていますが、かなりの部分が各家庭や倉庫に埋もれていたり、どこかのゴミの山に紛れている。こんなことが続けば、地球上の資源がどんどんゴミに変わり、しまいに資源は枯渇し、地上はゴミだらけになる。あくまでこれは、携帯電話の例のみで言えることですが、車や家電製品等の産業全体で考えれば、地球のそうした破壊行為が大手を振って行われ続けているということです。我々は便利で快適な暮らしを手に入れるため、生産者として、あるいは消費者として、そういったことから目を逸らしていると池田信夫は指摘するんです。しかも問題は、主にご利益を享受するのは先進国で、何らかのしわ寄せはいつでも貧しい国々の上に降りかかる。実は、そう仕向けられているのだと彼は言いました」

「なるほど、一理ある気がしますな」

 角刈り刑事は仕事を忘れ、どこか感心しているふうでもあった。それは間の抜けた感じでもあった。

「全くです。彼の話には、まだ続きがあります。これだけ生産活動が活発であれば、いずれにしても様々な資源が必要となり、それを調達すれば確実に売れます。しかも、それをある程度独占できれば莫大な利益に繋がる。大手の商社というのは、そういったことをマクロ的に見て動いていると言うのです。売れて利益を生み出すものなら、彼らは世界中のどんな奥地にでも出掛け、手持ちの資金力で相手をねじ伏せ欲しい物を手に入れる。そうやって世界中の僻地が近代資本の網の下に囲われ、自然や現地の文化的生活習慣が壊されていく。だから地球の有様が刻々と変化を遂げていると彼は言います。彼の話には、いつもそんな具体性と説得力がある。普段何かにびくついてばかりなのに、突然彼の中に自信が垣間見られるようになる。実際は自信というより、もっと地に足が着いた深みのようなもです。その変わりようは、彼の中に複数の人間が潜んでいるようにしか思えないのです。しかし彼はいつも、事実を述べるだけです。私は一度、それで人類はどうすべきなのかねと彼に尋ねたことがあるのです」

 刑事たちは、いっそう身を乗り出した。

「その時彼は、何と言いましたか?」

「ただ憂いて見ているしかないと言いました。これは自分のような小さな存在がどうにかできる問題ではなく、国際政治の枠組みの中で各国が真剣に話し合うべきだろうと言うのです。しかし、自分が生きている間は実現しないだろうと笑っていました」

 刑事たちは、そこでしばらく腕組みをして思案した。頭の整理が必要になったのだろう。

 やはり、眉間に深い皺を寄せていた角刈りが口を開いた。

「お話を聞いただけでも、何かこう、複雑そうですなあ。つまり、彼の中には複数の人間が存在し、事件を起こした彼はその中の一人と解釈すべきなのでしょうか?」

 私も少し思案した。しかしいくら思案しても上手い表現が思いつかない。

「そのような解釈は有り得ます。しかし私は、彼の中にただの一度も凶暴な人格を見たことがありません。強い意思も思想も感じません。だから池田信夫が、あのような凶悪な事件を引き起こしたことが未だ信じられないのです。あるいは私が、たまたま見逃していたのかもしれません。そうなると一体私は、夢の中にでもいたのだろうかと疑いたくなります」

 こんな素人くさいことを言わざるを得ないことに、彼の主治医として、あるいは一介の精神科医として、私は自分が情けなくなる。世間のどんな誹謗中傷を浴びた時よりも、悲痛な感情が湧き起こるのだ。

 私は度々、病院にやってきた刑事とそんなやり取りを交わした。

 刑事たちも、池田信夫に関する調査結果をたまに私に漏らした。

 それによると池田信夫は、東京のある医者の息子として生まれたらしかった。しかも親は私と同じ精神科医で、彼の通った大学も医学部であったようだ。

 それで私は合点がいった。彼が医学の専門的知識に精通していそうな様子が、ようやく理解できたのだ。

 果たして彼の専門は何だろうか。まさか彼も、精神科医ということはあるまい。

 彼に対し父親は教育熱心かつ厳格で、池田信夫はいつでも父親の顔色を伺いながら、幼少、青年時代を送ったようだ。

 その部分に、私は思わず共感を覚える。自分も全く同じだったからだ。

 私はそのせいで、自分を他人と少し違う感性の持ち主ではないかと疑うこともあるが、池田信夫の場合もそういった家庭環境が、彼の精神的歪みを培った可能性は否めない。

 一見普通で、どこか部分的に歪んでいるというケースは少なくない。それが過去の強いショックやトラウマから来ているものであれば、他人には歪みの原因がさっぱり分からない。

 いや、本人でさえ気付く事が難しいのだ。

 身体の中で生じた何らかの歪みに上手く自分が対応できなくなれば、身体が勝手に意識分離の道を選ぶことがある。それは一種の防衛反応だ。過度のストレスやトラウマの侵入を防ぐため、心が勝手に身代わりを立てる。それが解離性同一性障害の原点である。

 解離だけなら、しばしば普通の人も普通に体験する。

 普段人間は、自分の思考や記憶や感覚が自分のものであるという確信を抱いて日々過ごしている。これを自己同一性と呼ぶが、それに対する解離とは、自己同一性の感覚が崩れてしまう状態を言う。それは過去の記憶や感情や行動が、自分の意識から勝手に切り離される状態だ。

 例えば電車内で読書やゲームに夢中になり、いつの間にか目的地を過ぎてしまうことも、解離状態にあったと言える。

 このように、自分の意識でコントロールされていた状態が、いつの間にか意識外にあることは珍しくない。遊びに夢中になる子供にも、頻繁に見られる現象だ。

 しかしこの症状が重度になり、日常生活に支障が出るようになると、それを解離症と呼ぶことになる。そして解離症の最も重い症状が、解離性同一性障害である。

 池田信夫の生い立ちを知ってから、私は彼に少し同情的になった。いや、実はそれ以前から、私は彼にある種のシンパシーを抱いていたのだ。

 映画に現れた最初はぱっとしない女優が、物語が終わる頃にはその表情や仕草にすっかり魅了され、女優の顔も飛び切りの美人に見えて仕方ないということがある。池田信夫に対する私の感情は、認めたくはなくてもそれに似ている。そうでありながら、私はそれを認めまいとしていた。

 そういったことが、私と池田信夫の距離感だったような気がする。


 いよいよ証人尋問が始まった。

 私はまず、池田信夫の精神鑑定結果、及び私の彼に対する所見を述べることを求められた。

 鑑定は、IQテスト、注意力や観察力テスト、集中力テスト、人格判断テスト、性格特性診断、日本語能力、血液検査、脳波測定等が含まれる。

 私は彼の客観的鑑定結果を述べ、その結果は池田信夫が正常であることを示しながら、自分の所見は正常か異常において極めてグレイであることを述べた。

 つまり刑事に話した通り、池田信夫は正常であり、異常だということだ。ある面で飛び抜けて優秀過ぎることが、彼の異常性の一部でもあった。彼に接したことのある人間ならば、私の言わんとすることを理解できるはずだという自信もある。

 それに対し原告側反対尋問の前に、裁判長から質問が出た。

「被告の責任能力について、あなたは言及することができますか?」

「敢えて言うなら、彼が正常な時は十分な責任能力があり、異常な時は責任を問えないというのが私の意見です」

 四角い顔をした穏やかな物腰の裁判長は、柔和な顔をそのままに、隣に座る陪審員と小さな声で何やら相談してから言った。

「それでは、異常な時というものを、もっと具体的に定義できますか?」

「それは簡単ではありません。論理的に述べることは不可能ですが、直感的に、何か変だということは見分けることができます。例えば、彼の人格が変わったというようなことは分かります。しかし、どれがオリジナルかは分かりません。厳密にはどれもオリジナルかもしれませんが、彼本来の人格については彼を良く知る人にご判断頂くことになります。しかし、池田信夫に接してきた自分にとって、犯行に及んだ時の彼の所業は、彼の異常な部分がさせていたように思います」

 私のこの言葉で、法廷内がざわめいた。その犯行は、彼の精神が異常であるから実行されたとも取れるからだ。

 裁判長が再び陪審員と相談して言った。

「その根拠は何ですか?」

「診察期間を通して見た彼の中に、凶暴性や残虐性が全く見えなかったからです。逆に彼に潜んでいる人格は、穏やかで臆病で理知的です。池田信夫があの様な事件を起こしたことが、私にはまだ信じられないほどです」

 裁判長がゆっくり頷いてから、検察官の方を向いた。

「それでは原告側、反対尋問はありますか?」

 その言葉で、三人並ぶ検察官の内、銀縁眼鏡をかけた痩身の、狐顔の一人が立ち上がった。

 末永という名の彼はゆっくりと私に近寄り、静かに話し出した。

「先生は精神科医をやられて、もう何年くらい経つのでしょうか?」

「二十年になります」

「これまで先生の二十年間のご経験で、鑑定結果と実際の印象があまり結び付かないといった事例は、どの程度ありましたか?」

「三割か四割程度は結びつきません」

「鑑定結果と実際の印象が違う場合、これまで先生はどちらを優先して治療を進められましたか?」

「大体は鑑定結果を信じて治療方針を決めます」

「それは何故ですか?」

「通常、表に見えない何かを印象に頼って判断するのは危険だからです。そのために鑑定検査があります」

「つまり、普通は印象では分からない部分を鑑定に頼るというふうに聞こえますが、そうですか?」

 私は、池田信夫の場合は違うかもしれないと思いつつ、従来の事実を述べるしかなかった。

「はい、その通りです」

 末永は法廷の前方を向いた。

「裁判長、以上です」

 反対尋問は、とてもシンプルに終った。

 もちろん私には分かっている。末永は、鑑定結果の有効性を強調したかったのだ。鑑定結果が正常という結論であれば、それは池田信夫に責任能力が十分あることを示すのだと、彼は裁判官に印象付けようとした。それ以上余計な問答を続ければ、今回は鑑定結果だけでは語りきれない何かがあるという話になだれ込む。そのことを末永はよく知っている。流石に切れ者と噂されるだけのことはある。

 私はそれで、証人席に戻った。重要な何かが欠落したままこの証言を終わらせるのは忍びないが、私にこれ以上、何が言えるのだろう。

 裁判長が、私のそんな心境を汲んだように、声を掛けてくれた。

「医者としてあるいは人として、正直で良心のあるお話をありがとうございました。池田信夫に内在する複雑さが分かりました。必要があればまたお話をお聞かせ下さい」

 弁護士によると、反対尋問が済んだあと、そのような声を掛けてくれるは、異例中の異例だそうだ。

 私はその言葉に幾分救われた。

 

 私は実際、池田信夫のテスト結果と、実際の人物から見て取れる症状との同一性と乖離性を見せられ、そのことに酷く翻弄された。

 精神科医としてこれまで拠り所にしてきた理論やテスト法は、全て嘘だったのではないかと、医者である私の方が混乱した。

 あるいは自分に自信が持てなくなり、私は、自分が医者だと思い込んでいるだけで、実は患者側の人間ではないかと疑いたくなることもあった。池田信夫が時折見せる、あの自信に満ちた深みのある言葉や態度が次第に私を萎縮させるようになり、彼に対する従属心理が自分の中に芽生えていることを意識するようになった。

 それから私の自信喪失は、顕著になった。

 最初は自分が池田信夫に対し、医者として圧倒的な高みにいたはずなのに、一体どこでその関係性が逆転したのだろうと不思議だった。気味が悪いほど、その変化は滑らかで気付きにくいものだったのだ。

 あるいは池田信夫は、そのことをしっかり認識しながら、影でほくそ笑んでいたのだろうか。それすら私には分からない。

 事情聴取を重ねるうちに、刑事たちの私を見る目に哀れみが宿っていくように思えた。最初は獲物を狙う虎のように湿り気を伴う座った目付きが、いつの間にか生気のない淀んだものになっていった。

 そしてしばらく話すと、いつも私は刑事たちに言った。

「今日は少し疲れました。続きは日を改めてお願いできませんか?」

 刑事はそれを了承してくれ、思わず長居したことを詫びる。

 そして部屋のドアロックの外れる音が聞こえ、鉄の重苦しい板が向こう側へと開く。

 刑事たちが部屋から去った後、ドアが重厚な音を出して再び閉じられ、私は中断していた自分の重要な研究に取り掛かる。

 論文のタイトルは、「デリュージョン(妄想)とマルチパーソナリティ(多重人格)の相互作用による重篤症状」だ。

 この研究が完成すれば、私は裁判官や刑事たちに、もっと明快な説明を与えることができるかもしれない。

 それにしてもあの刑事たちは、余り頼りにならない人たちに思えた。いつも人の名前を間違えるからだ。

 彼らは私の部屋を去る時に、いつもこう言った。

「長々とありがとうございました、池田先生」



 

 

 


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妄想 秋野大地 @akidai

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