第7話 死後硬直
生暖かいお湯が降り注ぐが、今にも腰が抜けそうな思いで立っていた。
あのあと、「一旦風呂でも入ろう」というヤルキンの一言がなければ、ずっとあの場に立っていたかもしれない。
「……はぁ」
息を吐くと、喉の奥から何かが迫り上がってくる。
お湯が体にまとわりつく泥や、垢を洗い流してくれる。石鹸の泡に包まれ、湯は下水管に流れて行った。流れ出たお湯は、またどこかで回収され、洗浄され、戻ってくる。
循環だ。
水は、命の巡りに似ている。
ずっと、忘れていたことだった。忘れていたほうが幸せだったことだ。中途半端に期待して、裏切られるのはもういやだった。
確かに、母親だった。アランの母親だ。
いやなことは、忘れかけていた頃に再びやってくる。
望んでいないことだった。
昔は会いたくて仕方がなかった。けれど、今は違う。
置いていかれた。
それなのに、悠々と戻ってきたことに腹が立った。
怒り? 怒りだろうか。
呆れの感情の方が正確である。
きゅ、と栓を閉めた。
湯が止まる。
髪から滴り落ちる滴が、胸を伝い、腹を伝い、足を伝い、床へと落ちた。
曇った鏡に写る己の顔は、いつもと変わらない薄ら笑いを浮かべていた。
「つまり、私たちの院長先生は、アランの母親だったということか?」
「そうなるな」
装備品を預け、簡素な格好になった二人は、水場の天幕近くでアランを待っていた。
「あれは本当に、そうなのだろうか? 勘違いという可能性もーー」
「子供がいてもおかしくない歳だったけれど」
「……信じられん。なぜ二階層であの人は死んでいた? こんなところであの人を殺せるようなものはない」
「他殺だな」
「本当に、そう思うか?」
「遺体を詳しく検分していないから、あくまで憶測だ」
「アランに聞けばわかるんだがな」
熱気が二人の体を包み、じわじわと汗が流れ出る。
「まるで蒸し風呂だな」
そう呟いた瞬間、天幕の中から、アランが出てきた。
「お待たせしました。行きましょうか」
三人は無言で、仮眠所まで歩いた。
「……ここで寝た後、竜の巣まで行きましょう」
仮眠所は、天幕ではなく一つの平家になっていた。入り口から右手は関係者用の部屋、左手は探索者用の大部屋だ。
大部屋に入ると、釣床がいくつも並べてあり、そのうちのいくつかはすでに人が入っていた。
靴を脱ぎ、釣床に横になると、天井の木目が目に入る。それを数えるまでもなく、三人は眠りについた。
「ヤルキン、ここを出ても達者でな。辛い時は、帰ってきてもいいんだからね」
院長先生とヤルキンが、最後にあったのは数年前のことだった。
訓練学校の鍛治師過程を卒業し、救児院を出ていく最後の日。
救児院の子供たち全員に見送られ、寮に入る前、院長先生はそう言って彼の頭を撫でた。
暖かい手だった。
確か、あの中にローゼリカもいたはずだ。
二人が救児院にいた年数は一年しか被っていない。
生まれてすぐに両親が死んだヤルキンとは違い、ローゼリカは両親の顔を覚えている。
ヤルキンもローゼリカも、同じように院長先生を慕っていたが、彼女の方はあまり院長先生を母親代わりとは思えなかったようだ。
探索者だった先生。
優しかった先生。
強かった先生。
黄金等級にまでたどり着いた生ける伝説。
院長室には二振りの大剣が飾られていた。
魔剣"マグニフィト"と、蒼炎剣"青薔薇"。
どちらも間近で振るわれるところを見たことがなかったが、一度だけ、頼み込んで刃を見せてもらったことがある。
呼吸をするのも躊躇うほどの美しさ、くもりひとつない、部屋の灯りに照らされ、二振りの剣は共鳴するように輝いていた。
「いつか君にも振れる時が来るよ」
そう言って笑って、重そうな剣を背負っていた。
(随分と懐かしい夢だったな……)
重い体を起こすと、あたりを見回す。
二人はまだ夢の中にいた。
遺体の顔を思い出そうとしたが、頭の中にモヤがかかったように思い出せない。
このままでいいのだろうか。目を覚ますと、否応にでも先ほどのことを考えなくてはいけない。
何も解決しないまま竜の巣に行ったところで、うまく連携を取れずにもたつくことは確実だ。
このひりついた空気をどうにかして変えなくてはいけない。
天井の木目の模様が、人の顔に見えて仕方がなかった。
「はい、それではここからどうしましょうか」
預かった荷物を受け取り、三人はキャンプの中央に集まった。
ローゼリカは目に見えて不機嫌で、アランは何事もなかったかのように平然とした表情を浮かべ、柱に寄りかかっていた。
よくない状況だ、とヤルキンはそれぞれの表情を窺った。
よそよそしい雰囲気を破ろうと、口を開いた。
「な、なぁ、あの死体はどうなるんだ? あれって、院長先生のだろう?」
ローゼリカの顔に青筋が浮き出た。
まゆが釣り上がり、見たこともない、鬼のような表情でヤルキンに詰め寄る。
「院長先生が、こんなところで死ぬわけないだろう。ヤルキン、お前の見間違いだ」
「いやでも、あれは先生だった。絶対にそうだ」
「……こんなところで……先生が……し、死ぬなんて……黄金等級なのに……そんなばかなこと、あるわけ……」
「ありますよ、十分にあり得ます」
アランは柱から体を離し、姿勢を正して歩み寄ってきた。
「どんな歴戦の冒険者でも、死ぬ時は死にます。ここは、そういう場所なんですよ。忘れたんですか?」
「……だが、こんな低階層であの人が死ぬなんて、何かおかしいと思わないか」
「今は理由を探るより、あの遺体をどう使うかを考えませんか? 俺は資格がないから今は無理ですが、蘇生術で蘇らせていいし、あのまま置いておいてもいいんですよ。幸い、死体は1ヶ月の間ならタダで安置しておいてくれますし」
「……遺体は復活させる。私たちの家に、あの人は必要だ」
「はい。でも今は出来ませんから、後日また伺いましょう。俺もここを出たら、資格を取りに行く予定です。その後でまた、二階層に降りてあの遺体を生き返らせますね」
「じゃあ、それでいいだろう。あと、質問をいいか? 院長先生は……ベルベネット・メムは、本当にアランの母親なのか?」
「そうですよ。彼女はサラマンダーでしょう? 俺は正真正銘、彼女の息子だ……まぁ、今まで会ったことはなかったんですけどね」
「なら、どうして分かったんだ?」
「叔母からよく話を聞いていたので。俺とそっくりなんですってね。それに、鎖骨のあたりに刺青があった……あれは、俺の故郷に古くからある風習です。成人を迎えると、あのあたりに部族の紋様を刻む……古臭い習慣ですがね、判別をするのには役に立つ」
「じゃあ、どうして一緒に暮らしていなかったんだ? 我々は、先生が独身だと聞いているが」
「さぁね。どうして一緒に住めなかったのかなんて、昔からずっと考えていた……なんでベルベネットが、あの人が俺を遠くの村に置き去りにしたのかなんて、俺が聞きたいくらいです」
アランは口調を荒げず、ただ淡々としていた。
ローゼリカは、わかりやすく動揺している。ヤルキン自身もひどく焦っていた。院長先生が? 子供を拾って育てていたような人が、実の子を捨てるわけがない。
騙そうとしているのか、それとも動揺を誘っているのか、本当にそうなのか……
全く見当がつかない。
ここで嘘をついても向こうに利点はないのだ。
本当に親子なのか確証がないが、そうでないと言い切るのは難しい。
「……先生が、子供を置き去りにするわけがない……あの人が、先生が……」
「えぇ、言いたいことはわかります。信じたくはありませんよね。けれど、これは事実です。人が変わったのでしょうかね。実の子を置いて迷宮に籠るような人間が、孤児院を経営するなんて、ねぇ」
「……わかった。あんたが先生の息子だということは、ひとまず信じよう。もう一つ聞きたいが、父親はわかっているのか?」
「全くわかりません。俺は混ざり物なので、きっと同族以外の、行きずりの相手でしょう。同じ探索者かもしれません。村にいた時から、あの人はあばずれだったそうですから、探ってもわからないでしょうね」
「……もう、結構だ」
「もうよろしいですか?じゃあ今から竜の巣に向かいましょう。感動の再会はおいておいて、ひとまずは金を稼がないと」
服のシワを伸ばし、アランは北へ向かって進み出す。
「……あいつがまた先生のこと"あばずれ"って言ったら、私はこいつで殺す」
ローゼリカが本気の目をしていたので、ヤルキンは思わず胸を押さえた。
「嫌なものを踏んだと思って、耐えろよ。それに、アランは殺されたら喜ぶぞ、逆に」
「先生に息子がいるわけないだろ、ちゃんと考えろ。あいつは出任せ言ってるだけだ」
「でも、今ここで嘘をついたところでアランに何があるんだよ。俺たちに嘘ついて、詐欺れるものも何もないだろ。ロゼ、ちゃんと頭冷やせ。ここでトチったら、終わりだ。わかるだろう?」
「でも、あいつ、先生のことをあばずれって言った……ひどいやつだ! 私たちへの侮辱だ!」
「本当に、家族に置き去りにされて、しかもそいつが自分以外の子供を可愛がっていた、なんてわかったら、誰だって嫌な気持ちになるはずだ。それに、今先生の蘇生代が俺たちに払えるか? 払えないだろ。今はそんなにかっかせずに、様子を伺おう。先生が生き返ったら、全部わかることだし、な?」
「……すまない、少し取り乱した。ひとまずは仕事をやる」
ローゼリカは、勢いを取り戻したようで、アランの方へ近づいた。
「先ほどは取り乱してしまってすまなかった。今日の遺体は、大物を狙いたいから、アランの協力が必要だ。頼んだぞ」
「いえ、俺こそ怒りに任せてひどいことを言ってしまいましたね。心より謝罪します。腹でも切りましょうか……東大陸で、刀使いはそうやってけじめをつけるそうですよ」
「ここで大道芸人のようなことをしたら、追い出す」
「えっへへ、すみませんね、癖で」
「癖で死ぬような奴があるか」
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