魔女集会で会いましょう

 僕が彼女を魔女だと知ったのは随分あとになってからだった。


 彼女と初めて出会ったのは、僕がまだ魔女と人間との区別がつかないくらい幼かった頃。

 家族と家とを失ったばかりの僕は降りしきる雪の中、助けを求めて歩き続けていた。けれど手を差し伸べてくれる人など誰も居らず、天気にまで拒絶され吹雪きはじめた日没前。

 疲れ果て、真っ白な闇に塗りつぶされそうになっていた僕は一面の灰色の中にちらり見えた紅い色を見つけた。その紅がとても綺麗で、霞む視界の中で僕はその色をじっと見つめようとした。


「そうかい。綺麗かい」


 僕は答えたかったけれど口はうまく動かせないし声も出てこなくて、そのまま意識を失ったのだと思う。

 次に気付いた時は彼女の家だった。彼女は口数が少なかったけれど、自身の日常の傍らに食べ物と居場所とを小さく分け与えてくれ、ここでは邪魔者ではないのだという安心感の中で僕は眠ることができた。


 彼女の家は窓から見渡す限りの荒野の真ん中にある。遠くにわずかに森が見えるのだが手前にある沼からはときおり黒い煙が噴き出していて、それに触れてはならないと彼女が忠告したので僕は家から出られないでいた。


 それでもさほど退屈はしなかったのは彼女の家の中が賑やかだったからかもしれない。

 いつも暖炉の前に居る黒猫以外、全てのものがいつも何かしら動いていた。食器から椅子や机から額物から玄関マットからベッドや暖炉の火に至るまで。彼女の家を訪れるものといえば、どこかから飛んできて窓を叩く鳥たちだけ。その鳥たちと彼女は親しそうに会話をしているようにも見えた。そんな場所で暮らしていたから、僕も大人になったら彼女みたいなこと……あとからそれを「魔法」と呼ぶのだと知ったが……それを使えるようになると信じていたし、この家のモノたちと同じように彼女の暮らしを支える一員であろうと考え、行動した。だけど結論から言えば、僕は大人になる前にその場所を去ることになった。


 霧の濃い寒い夜。隙間なく閉じたはずの窓から忍び込んでくる冷気がその夜は特に鋭くて、彼女と出遭ったあの夜のことを不意に思い出した。


「恋しいかい?」


 僕は慌てて首を横に振った。そうじゃない。ただ思い出してしまっただけでそこに感傷とか懐かしさみたいなものは欠片もない。


「いいや。思い出す、ということは頃合いなんだよ」


 頃合いというのは何の……そう聞きたいけれど答えを聞いてしまうのも怖くて黙っていたら彼女は箒を呼んだ。


「おいで」


 箒を手にした後も、彼女はそう言った。しかも僕の顔を見ながら。

 息を大きく吸い込むと、いつの間にか開いていたドアから堰を切ったようになだれ込んできた寒さが僕の中へ潜り込もうとする。このまま凍り付いてしまえれば僕はここに居続けられるのだろうか……いや、彼女が何かを決めたのならば、世界の何物もそれに逆らうことなど出来はしないだろう。

 僕は凍てつく風を肺から振り絞って外へと出して、彼女の方へと踏み出した。


 差し出された箒の先に触れると、急に体が軽くなるのを感じる。つま先で軽く地面を蹴っただけなのに次の瞬間にはもう箒にまたがっていた。足は地面を離れているのに自然とバランスは取れている。箒がこんなに乗りやすいものだったなんてと感心している間に僕らは音もなく夜空へと舞い上がった。


 想像していたような浮遊感はなく、まだ地面に立っているような感覚なのに雲を突き抜ける。月に照らされた雲海のおもては美しく凪いでいる。


「ね、これが海?」


 背後に問いかけたが返答はなく箒がわずかばかり震えて速度を増す。雲を左右に割りながらその奥底へと潜ってゆく。

 雲以外何も見えない状況に不安を感じた僕は思わず後ずさり、片方の手を後方へと伸ばして……彼女の手に触れた。

 声が出そうになったのをとっさに堪えた。彼女の肌は氷よりも冷たかったから。

 彼女に触れている指先から僕の温度がほどけてゆく。そういえば彼女はいつも僕に触れられるのを避けていた……でも今だけは、僕の手が触れたままでいさせてくれた。指先が痺れて感覚が薄れていったけれど、彼女が許してくれた手の甲に僕は手をずっと重ねていた。


 それまで足元に感じていた重力を、不意に右肩の斜め上から感じた時、僕の指は無情にも彼女から離れた。慌てて彼女へと手を伸ばそうとした僕は、すぐにその手をぎゅっと握りしめる……何もつかまずに。きっと彼女が望んだことだから。


 彼女が僕を捨てる可能性を考えたことがないと言えば嘘になる。それでも一緒に居ることがいつの間にか僕の日常になってしまっていたから、僕の心は皮膚を剥がれたように痛みだした。

 地面に打ち付けた背中より彼女に触れていた指先の痺れより深い深い痛み。

 もう二度と彼女には会えないのだろうか……そして大事なことを言いそびれている自分に気付いた。


 僕は人間の世界に「戻ってきた」のだと、周囲の人間たちは教えてくれた。

 それ以外にもたくさんのこと……僕の知らなかった「常識」というやつを。

 ただそのどれもが彼女の教えてくれたことに比べると本質を外している気がして、彼らが僕に施そうとした「人間の教育」というものからはすぐに興味を失った。


 僕は彼女との再会を望み、人間界に散らばっている魔女の情報を集め始めた。だけど手に入れられたものはろくでもないものばかり。魔女の変身を見破る方法、魔女の箒を折る方法、魔女の魔力を封じる方法、魔女の体を傷つける方法……こんな役に立たないものばかり大事にしている人間は愚かで可哀想でならなかった。

 あんなにも美しく、世界の理を知り、慈愛に満ちた存在に対し、どうして侵すことばかり考えるのだろう。


 彼女にもう一度会いたい。その想いが募った僕は世界の果てから果てまで旅をして彼女を探そうとした。

 その旅の中でようやく僕は、魔女という存在の稀有さに気付く。

 「魔女」と呼ばれている者たちには何人も会ったが、そのどれもが本当の魔女ではなく人間の世界を捨てたか追い出されたかしただけの人間に過ぎなかった。


 僕は無駄に年を重ねていった。

 それでも諦めきれなかった。

 もう一度。一目だけでいいから彼女に再び逢いたかったのだ。

 彼女にまだ伝えていないことがあるのだから。


 その想いだけを胸に僕はずっとずっとずっと歩き続けた。時には馬を御し、時には船を繰り、気球にも乗ったし、砂漠を彷徨い、鋭い山の尾根を、深い森の奥を、陽の届かぬ洞窟の中までも、僕は旅を続け……それからさらにまた長い長い時間をかけ、小さな島へと辿り着いた。


 こんな小さな島だと真水の補給など望めそうもないというのに、船を繋ぎ留めた僕は島の中へと分け入る。鬱蒼としたジャングルを抜けるとぬかるんだ沼地が現れた。歩きにくい上に何か嫌な臭いがする。これは吸い込んではいけない……そう感じた瞬間、僕の足が前へ前へ自然と進みだした。

 湿っていた足音がいつしか乾いていることに気付く。辺りはゴツゴツとした荒れ地。この島こんなに広かったっけ……あ。


 人の背丈くらいもある大岩に一人の少女が座っていた。


 少女の見上げている空はいつの間にか暮れていて、満天の星がさんざめいている。

 僕にはすぐにわかった。この少女は彼女と同じ本物の魔女だと。


 少女は僕を疎ましげに一瞥すると「出ていきな」と言い放った。その口調はどことなくあの人に似ていて、ひとたびそう考えてしまうと少女の仕草の一つ一つに彼女の面影を次々と探してしまう。

 この少女はもしかしたら、彼女と何かつながりがあるのかもしれない。魔女の中でも同じ一族なのかもしれない。

 どうにかして彼女の手がかりを授けてもらえないだろうか。


「すぐに出て行きます。出て行きますから……お願いします。一つだけ教えていただけないでしょうか」


「魔女から何かをもらう時には対価が必要だよ」


「私をかつて助けてくれたあの魔女にもう一度逢えるなら、そして伝えたかった一言を告げられるのであれば、どんなものでも私から奪ってもかまいません。お願いします」


 その魔女は僕を射るように見つめてから、語り始めた。


「魔女がどうして人を避けて暮らしているか知っているかい? 魔女はね、なんでも見通せる。それがゆえ人の心は毒に等しい。正確に言うならば、人の心にべったりと絡みついた欲が毒なんだよ。人に近づき過ぎた魔女は毒に侵されその力を蝕まれてゆく。対価としてその者が最も大切にしているものを要求するのも、そいつと二度と関わらないようにするためさ。再び魔女の力を借りようなどと決して思わないようにちゃんと奪っておくのさ。あんた、その魔女に惚れなさったね。愛は人にとっては尊いものだろうが、魔女にとっては魂が焦げ付くほどの猛毒さ。あんたがその魔女を想えば想うほど、その魔女を傷つけ弱らせる。かつては力の強かったその魔女も、いまや見る影もないね。魔女見習いほどのわずかな魔力しか残って」


 にゃあ、と遠くで猫の鳴き声が聞こえて彼女はしゃべるのをやめた。

 僕は少女をあらためて眺めた。この少女はやはり彼女のことを知っていた……いや、もしかしたら……もしも……そうなのだとしたら……僕は。


「対価をもらうよ。あんたが一番言いたかった言葉、それを」




 僕の前に一人の少女が立っていた。僕はその少女の前でなぜか涙を流していた。


「お兄さん、船が波にさらわれそうだ。急いで戻りなよ」


 少女が指さした先には僕が乗ってきた船があった。そうだ。僕にはやらなきゃいけないことがあったんだ……何をのんびりしていたのだろう。慌てて涙を拭うと少女に礼を言い、僕は船へと戻った。


 心地よい風が吹き、船は岸から離れて行く。真水の補給も出来そうにないこんな小島にどうして立ち寄ってしまったのかわからない。時間を無駄にしてしまった……なのになぜか名残惜しい。

 そういえば少女の手の甲に痛々しい痣があった。人の手の形をしたその痣を思い出しただけで、どうにもまた涙があふれた。




<終幕>

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