闇鍋【一話完結短編集】

だんぞう

あんまり甘くないアイス

 ある日、バイトから戻ったら彼女が消えていた。

 それだけならまだ仕方ないで済む。

 気持ちはとっくに離れていたから。

 ただ彼女は、いやモトカノは、うちの家電をあらかた持っていってしまっていた。

 コンセントに挿さるもので残っていたのは携帯の充電器と電気シェーバーだけ。

 こうして部屋の中を見回してみると、僕だけの持ち物ってずいぶん少なかったんだなって思う。

 ベッドとちゃぶ台、そして僕の服が入ったカラーボックスくらいしか残っていない部屋は随分と広く感じる。

 でも「哀しい」のとはちょっと違うかな。

 心なしかスッキリとしているかも。


 ぐぅぅ。


 ああ、カラッポなのは僕の腹もか。

 とりあえず何か食べよう、と、そのままコンビニへと出かけたその途中の道端に冷蔵庫が落ちていた。

 モトカノに持って行かれた冷蔵庫より一回りは大きくて、冷蔵室と冷凍室とが分かれている2ドアの冷蔵庫。

 捨てられているってことは壊れているのかな。

 でもまあ中も綺麗だったし、氷でも入れておけばクーラーボックス代わりくらいには使えるかなと頑張って持ち帰ってみた。


 扉を開けてコンセントを挿し込んでみるとなんだかほんのり冷たさを感じる。

 これ、使えるじゃないか。

 別れは出会いの始まりって言うけれど、本当だな。


 ぐぅぅぅぅ。


 僕の腹の虫が「そうだね」と答える。

 ああ、お腹空いていたんだっけ。

 冷蔵庫を運んだから余計にお腹が空いた。

 とりあえずまたコンビニへ行こう。


 道すがら、目が道の端ばかり追っているのに気付く。

 そうだよね。

 そう都合よくは落ちてないよね。

 あとは洗濯機とテレビも欲しいんだけど。

 あわよくばBDプレーヤーと……パソコンはもともとモトカノのだったしなぁ。

 あ、MP3プレイヤーがポケットに残っている――けど、二人お揃いで買ってACアダプターは共用だったから今の充電切れたら音楽も当分なしか。

 そんなことを考えているうちにコンビニに着く。

 適当に食料とお茶、あとマヨネーズとカップアイスとを買った。

 

 帰宅してすぐにお湯を沸かし、その間に買ってきたものを冷蔵庫の中にしまおうとして。


「うわ!」


 思わず声が出てしまった。

 まずはアイスを入れようと開けた冷凍室に、女の頭が横向きに入っていた。


 出かける前に冷蔵庫を開けた時は何も入ってなかったよね。

 いや、空けたのは冷蔵室だけだっけ。

 いや、拾ったときはどっちも空けたはず。

 じゃあ今、コンビニに行っている間に――そんなやりとりが自分の頭の中を巡っているというのに、それがどこか遠い世界の他人の会話のようにも聞こえて。

 あまりにも現実離れしていたから。

 気のせいだよねと心の中で何度か唱える。

 それから開けっ放しの冷凍室のドアを急いで閉じた。

 その一瞬、僕の横目が冷凍室の中に何も入っていないことを確認した……と思う。


 消えてる? それとも本当に気のせい?


 疲れてるのかなと深呼吸してから、また開ける。

 女と目が合ってすぐに閉める。

 呼吸が浅くなる。

 でも、初回よりも少しは落ち着いて接することが出来た。

 今度は冷蔵室のほうをおそるおそる開けてみる。

 良かった。こっちは何もない。

 少し迷いはしたけれど、アイス以外のものを冷蔵室へしまった。

 さて。

 コンビニ袋の中に残ったカップアイスが二つ。

 いつものクセでつい二個買っちゃったんだな。

 一個は食べきったとしても、さすがに二つは無理。

 放置して溶けて無駄にするくらいなら試してみる価値はあるかな。

 息を止める。

 僕は目を閉じたまま、カップアイスを片方、冷凍室へと入れてみた。

 なんの抵抗もなく入る。

 そして安心の冷たさ。

 冷凍室は女の頭でいっぱいいっぱいだったような気がしたけれど、手が入るということはやっぱりさっきのは気のせいだったのかな。

 目は開かずにアイスを放すと、コツッと冷凍室の底に着地する音が聞こえた。

 僕は目を開けて――すっかり油断していた。

 僕は冷凍室の中の女と見つめ合ってしまった。

 その女の口のあたりに僕の手が突き刺さっている!

 待て待て待て。突き刺さってるって?

 手を抜いてみる。

 なんの抵抗もなく抜ける。

 僕の手はなんともなっていないし、女の顔もそこにあるままで――あれ、ちょっとずつぼんやりと薄くなって、消えた。

 とりあえず扉を閉める。


 生首じゃなく、幽霊?

 僕はそれに触れた?

 呪われたりしないよね?

 うん、きっとしない――なぜか自然にそう思えた。

 不思議ともう怖くはなくなっていたから。

 だってその女の人は嬉しそうな顔をしていたんだ。

 アイスを入れたせい?

 とにかく僕は不覚にも、その嬉しそうな顔を可愛いって思ってしまった。




 それから、僕とレイとの奇妙な共同生活が始まった。


 レイってのは僕が勝手につけた名前。

 冷凍室のレイ。冷蔵庫のレイ。どっちでもいいんだけど。

 とにかく彼女は冷凍室を空けた時、暗ければしばらくだけ見える。

 見えている時でも触れることはできない。

 アイスが好きで、一番好きなのはチョコ系。

 それから、冷凍室にしまったアイスは甘さが減っている気がする。

 ということは、レイはアイスを食べているんだろうか。

 冷凍室にアイスを入れると、レイがにっこりと微笑むから喜んでいるのは間違いないと思うんだけど。

 

 毎朝、あんまり甘くないアイスを食べてから大学へと行き、バイト帰りにアイスを買って帰る。

 そんな日々。

 レイは全然しゃべらないまま。

 でもそれはそれで悪くなかった。

 部屋を真っ暗にしてから冷凍室を開けてアイスを入れると、レイの笑顔をいつもより長く見ることができた。

 こうやって静かに過ごす夜が増えてゆく。

 あれから洗濯機は買ったけれど、テレビも音楽もないままの生活は続いた。

 だけどある日バイトから戻ったら、部屋の前にモトカノが居た。


「何で鍵変えたの?」


 そんなの自分が勝手に物を運び出したからだろ、と咽まで出かかった言葉を呑み込む。


「何の用?」


 扉を開けないまま聞き返す。


「んー。やっぱりさ、やり直せない?」


 モトカノは思いっきり部屋着。

 こんな格好で外へ出るなんてモトカノらしくない。

 ゴミ捨てに出るのですら着替えないと嫌がるくらいだったから、何かワケアリなのは察した。

 そうだった。

 ゴミ捨て一つすらもめてたんだよな。

 今の生活が静かな理由はテレビや音楽がないからだと思っていたけれど、多分こっちの方だ。

 一日に何回も繰り返していた、ちっぽけな小競り合いがなくなったからだ。

 それに今は――レイの笑顔を思い出しながら僕は静かに首を振った。


「謝ってきなよ。どうせまたなんかわがまま言ったんだろ?」


 僕は財布から五千円札を取り出すと、タクシー代だと言ってモトカノに押し付けた。


「……ありがと」


 モトカノは複雑な表情をする。

 いつも感情をむき出しにしていたモトカノの、初めて見た表情だったかもしれない。


「私たち、本当はもっとうまくやれたのかもね。私、ダメだって思うの早すぎなのかもね」


 モトカノはもう、あの頃の奔放な笑顔に戻っていた。

 僕の手首をつかんで高く上げさせるとその手にハイタッチして、笑顔のまま走り去る。

 しばらくその後姿を見送っていた。

 違う違う。

 見とれてたわけじゃない。

 懐かしんでたのとも違う。

 モトカノは過去なんだ。

 モトカノの残り香を振り払うかのようにドアを大きく開けて、閉めて、僕はいつもの静かな世界へと戻る。

 ドアのこちら側で立ちすくみ、靴も脱がずに深呼吸する。

 戻ろう。

 モトカノはモトカノの生活へ、僕は僕の生活へ。


 なのに目を閉じると、久々に見たモトカノのあの笑顔。

 心の底のわずかな未練がずくずくと小さく疼く。

 漏れ出るため息は大きくて。

 ダメだ。

 気分を変えよう。


 僕は部屋へと上がり、まっすぐに冷蔵庫へと向かう。

 もう一つ、小さく深呼吸をする。

 それから冷蔵庫を開けた。

 レイと目が合う。

 その表情を見てアイスのことを思い出す――まだ溶けてないといいけど。

 慌ててコンビニ袋の中のアイスをしまうと、レイはいつもの笑顔。


 これだ。

 これが今の僕の生活なんだ。

 遮光カーテンを閉めていたせいかレイの笑顔はまだ消えない。

 その笑顔が、今日はとても愛おしくて、僕はレイの唇にそっと口付けた。


 パチンと静電気のようなものがはじける。


 慌てて顔を離してレイを見つめる。

 レイは驚いて、それから哀しそうな嬉しそうな表情をして――あ、さっきのモトカノの表情に似ているなって思ったら、消えていた。


 唇だけ妙に冷たくて、それ以外は何が何だかわからなくて、ぼーっとして。

 冷たさの余韻だけが僕の中を支配する。

 僕自身がカラッポの冷蔵庫みたいだななんて思ったとき、目と頬だけが妙に温かくなって、これじゃ冷蔵庫じゃないよなって思ってしまったらもうダメだった。

 僕の中からも冷蔵庫が消えてしまった――ふと浮かんだその表現に、自分でも驚くくらいに凹んだ。

 モトカノの時にはなかった喪失感。



 

 それからはもう、二度とレイには逢えなかった。

 僕はいまだにレイへの想いを引きずったまま、時々つい買ってしまうチョコアイスを、甘い甘いって言いながら食べている。

 でも、いつかまたレイが戻ってきてくれるんじゃないかなって思うと、もう冷えなくなったこの冷蔵庫を捨てられなくて。

 ああ、あのあんまり甘くないアイスが懐かしい。




<終>

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