第7話

 夫は私をベッドに座らせると、間隔を大きく開けて、腰掛けた。

 感情が落ち着くと、泣いていたことが馬鹿らしく、恥ずかしく感じて居心地が悪かった。

 私は黙っていた。

 夫も、無言だ。

 何をどう言えばいいのか。夫はきっと私以上に口を開きづらいだろう。

 時間ばかりが過ぎていく。

「離婚、しようよ」

 私が口火を切った。

 夫が両手で顔を覆い、背中を丸めてうつむいた。

「だから、それは、ないって」

「そんなに世間体が大事?」

「違う、誰がそんなこと言った?」

「じゃあ何? 私を愛してるから?」

「……うん」

「そのは何?」

 夫が指の隙間から私を見たのは一瞬だった。再び顔を完璧に覆い隠し、もごもごと口ごもる。

「俺は、そういうのは、面と向かって言えないんだよ。知ってるだろ」

 夫の耳が赤い。

 そうなのだ。この人は好きとか愛してるとか、口に出して言うことができない。まるで滅びの呪文のように、かたくなに、口にしない。

 そのかたくなさを可愛いとは思うが、今はそういう場合じゃない。本当に、状況がわかっているのだろうか。

「面と向かって言って欲しかった。言わないと伝わらない。目を見て、言葉で言わないとわからないよ」

「目を見て言ったら、信じてくれるのか? 言えば、離婚しない?」

 小学生みたいなことを言い出した。私は大きくため息をついた。

「健ちゃん、わかってない。私、他の男に抱かれたんだよ。このホテルで。この部屋で」

「……え? こ、この部屋?」

 夫が機敏に立ち上がり、ベッドから後ずさっていく。

「ラブホテルって、掃除が早いんだね」

 前の客の痕跡なんて、何一つ残っていない。ベッドに乱れはなく、シーツはノリが利いていて、部屋の中は清潔な香りしかしない。

「なあ、そもそも、本当なのか?」

「何が?」

「だから、本当に、他の男に……」

 言いよどむ夫を見据え、おもむろに服を脱いだ。

「み、美津、おい」

「体中にキスマーク、つけられた。ここも、ここも、こことか、こんなとこにも」

 下着姿になると、首、胸、脇腹、内腿を順番に指差した。

 よろめいた夫が壁に背中をぶつけ、そのままずるずると絨毯に尻をつけた。

「いやでしょ、こんな奥さん」

 夫は返事をしない。怒っていいのか、泣いていいのか、よくわからない複雑な表情をしている。

 この人が先に浮気をしたからこうなった。言い方を変えれば、夫が浮気さえしなければ、私は他の誰かに抱かれることはなかったのだ。

「どんな男?」

 夫が力ない声で訊いた。

「相手、どんな奴?」

「二十八歳のイケメン」

「……そいつ、よかった?」

「はあ? そういうこと訊くんだ」

「満足した? イッた?」

 どういう神経でそんな質問ができるのか。首を左右に振って、はあ、と溜息をついてからまくしたてる。

「気持ち良かった。すごく、上手だった。イカされたよ、何回も。私、健ちゃん以外知らないから、ビックリしちゃった。セックスってこんなだったんだって」

 夫がこの世の終わりのような顔で、私を見上げている。

「これで満足?」

 夫の頬が震えるのが見えた。唇も震えていて、何かブツブツと言っている。

「何?」

「俺だって、若い頃は」

 そう言ったきり黙ってしまった。

「私、不思議なんだけど」

 私は下着姿で、仁王立ちのまま、腕を組んで威圧的に夫を見下ろした。

「健ちゃんって、淡白なほうだよね。私から誘っても、乗ってくること全然ないし。それなのに、若い子相手は別なの? あ、そうか、やっぱり私に魅力がないからか。結婚したら飽きちゃった? もう抱く価値もない? たまに抱いてくれるの、あれ我慢してるの? 女として見られない?」

「その自虐的なのやめろって」

 イラついた口調で眉間にシワを寄せる夫に、こっちのほうがイラついた。歯ぎしりをしてから口を開く。

「うん、そうだね。自己評価低い自覚はあるよ。でも、そうだ、私、体すごいって褒められて、名器だって。だからちょっとだけ自信は出たかな。あれ、名前なんだっけ。さっき抱かれたばっかりなのに、何君だったか、もう忘れちゃった」

「美津……」

 夫が頭を抱えた。

「ごめん、俺が、全部俺が悪かった」

 それはそうだ。こっちに落ち度があるとしたら、浮気なんてしない宣言をまるっきり信じ切ったことだ。

 そう吐き捨ててやろうと、唇を舐めて臨戦態勢に入る私を差し置いて、夫は正座をした。

「説明させてくれ」

「説明って、何」

「俺は、その……、三十過ぎたあたりから、だんだん弱く……、なってきてて」

 途切れ途切れに夫が言うには、性欲はあるものの、性機能、つまり、持続性とか硬度とか、その辺のものが、年々衰えてきていると感じていたそうだ。

 それに、どんなにコントロールしようとしても、達してしまう。我慢が利かない、つまり、早い。情けなくて、知られたくなくて、私を抱くときにはアルコールを多く摂って、イキにくくして、長持ちさせている。

 だから、私から不意打ちで迫られると、準備不足で応えたくなかった。早漏だと思われたくなかった。

 夫は、プライドが高い。

 その夫に、内部事情を暴露させていると思うと、申し訳ない気持ちがよぎると同時に、恥をかなぐり捨てて真実を話す姿に、優越感のようなものを感じていた。

 絶対に、言いたくなかったはずだ。墓場まで持っていこうとしていた恥部をさらけ出してまで、そうまでして、私との離婚が嫌なのかと思うと、ほだされそうになる。

 すべて白状した夫が、燃え尽きて灰になったボクサーのようにうなだれている。

 私は右手で口を覆い、さらにその上を左手で塞いだ。

 笑い声が漏れてしまいそうだった。

 駄目だ、可愛い。

 許してしまう。

 そもそも、浮気の件で話し合っているはずなのに、どうしてこんな話になったのか。

 私は手のひらの下の笑いを消して、鼻から息を吐き出した。

「取引先の二十三歳に、早漏って思われてもよかったんだ?」

 早漏、という単語に夫は体を大きくびくつかせた。

「それは……、その……」

 途端に歯切れが悪くなる。

「好きなんじゃないの? その子のこと」

「好きじゃない」

 即答されて、安堵が半分、好きでもないのに抱くのかという呆れが半分。

「ただ、なんか、若い子に告られて、調子乗ったっていうか……、本当にすいませんでした」

 夫が土下座をする。

「元の関係には、戻れないよ」

 夫の前に屈み込み、土下座した頭の上から言った。

「たとえば、テレビ観てて、不倫の話をしてたらどうする? 気まずいでしょ? なじられても文句言えないんだよ? だから私は離婚するしかないって思う。だって健ちゃんのこと、もう信じられない。嘘つかれて騙されて、それで、私だって、他の男に抱かれちゃって……、バカみたい。こんなので、夫婦なんて続けられると思う?」

 私の声は、凛としていた。我ながら、強い意志を感じる。

 対照的に、夫は情けない顔で口をパクパクさせていた。

「あのね、大好きなの。今でも、健ちゃんが大好き。私だけが好きなの、すごい悲しいし、腹立つし、だからもういい」

「なんで」

 夫が口を挟んだ、声はかすれていた。咳払いをしてから、語気を荒げて言った。

「なんでお前は勝手に俺の気持ちを決め付けるんだよ? 自分だけが好きとか、なんでそうなる? 好きじゃなきゃ、結婚しない。俺だって美津が好きだ。わけわかんねえよ」

「もう一回」

「え?」

「もう一回言って」

 夫は戸惑っている。首をかしげながら、「わけわかんねえよ?」と最後のセリフを繰り返した。

「それじゃなくて」

「あ……、いや、今のは、勢いで」

 俺だって美津が好きだ。

 確かにそう言った。

 勢いでもなんでもいい。それが本音なら、何をためらうことがあるのか。

 わかっているのだ。

 夫は、この人は、異様に、私に弱みを見せたくない。

 とにかくプライドが高い。それに他人を見下す癖があり、毒舌で、でも多分その本性を知るのは私だけ。外面がいい。人から聞いた夫の評価は高いが、私の知る夫とは別人だと感じる。

 妻に好きだと伝えることは、おそらく彼のポリシーに反するのだ。

「帰るね」

 呟いて、腰を上げる。

 うつむいてモジモジしていた夫が慌てて私を見た。

「言ってくれないなら、帰る。目を見てちゃんと、言ってください」

 こんな、強制して言わせた言葉に意味があるのかはわからない。

 でも、私は、羞恥に耐える夫の姿を見たかった。

 夫は正座の格好で、絨毯に手をついて、私を見上げている。

 ぞく、とした。

 早く。

 子犬のような目で私を見ていないで、男らしく、言いなさい。

 怒鳴りたいのを堪え、歯を食いしばって、内心で、急かす。

 やがて夫が意を決した様子で、大きく息を吸った。

「す、好きだよ。俺は、美津が、好きだ」

「……ふふっ」

 ついに、言わせてやった。

 心が満たされたあとに、ふつふつと何かの感情が沸き起こる。

 体の芯が熱くなり、私はすっかり弱りきった夫の頭を、胸に掻き抱いた。

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