失せものを求めて。

 ───イリスの『運命』。

 それは他の伝承によくあるような、王子様に見初められてプリンセスになったり。壮大な旅をしたりといった内容ではない。

 それはよく言えば穏やか、悪く言えばとりとめのない。何でもない日常の一部のようなものだった。


 ある日イリスが森の中を歩いていると、一匹の熊と出会う。驚いたイリスはつい背を向けて逃げてしまうが、それでも熊はしつこく追いかけてくる。

 熊はイリスを呼び止めると、小さなイヤリングを彼女に差し出した。それは他ならない、イリスのイヤリングだった。

 熊が追いかけたのはイリスに襲い掛かろうとしていたのではなく、彼女が驚いたときに落としたイヤリングを拾ってあげただけだったのだ。

 イリスはイヤリングを受け取ると、お礼に熊へ感謝の歌を歌ってあげたのだった。───






「…以上が、私の運命、です…。」

「なんだか、すごく…可愛らしい『運命』ね…。」

「自分でも変わってるとは思います…。しかも、それ以外のことはそんなにこと細やかには書かれてなくて…。」


 思いの外朗らかなイリスの『運命』に、ルゼは何とも言い難い微妙な顔を浮かべる。説明をしているイリス本人も、困ったような笑みを浮かべていた。

 イノセも最初は微妙な反応をしていたが、すぐに気分を切り替えてイリスに質問する。


「イヤリングを落とすこと自体は、ストーリーテラーによって定められていたんですね。その熊には、出会ったんですか?」


 本来の『運命』通りであれば、今頃その熊がイヤリングを返すためにイリスを探しているはず。ならばその熊を探した方が早そうだ。イノセは彼女の『運命』が筋書き通りにいっていることを願いながら、彼女に問う。

 だが彼の問いに、イリスの表情はだんだんと暗くなっていく。


「出会うことは出会ったんです。…数日前に…。」

「数日前?」


 イリスは言いづらそうな様子でそれだけ答えたが、イノセは腑に落ちなかった。

 彼女の『運命』の内容を聞く限り、熊がイヤリングを届けてくれるのは彼女が逃げ出してすぐのはず。数日も期間が空くというのは、どう考えてもおかしい。

 彼の考えを察したのだろうか、イリスは再び口を開く。


「数日前、この森で『運命の書』の通りに、熊さんに出会ったんです。でも…なんだか様子が変で…。」


 イリスはたどたどしくゆっくりと、その時の状況を説明し始めた。


 ******


 数日前、まだ日の高い時間にイリスは森の中を散策していた。

 イヤリングを届けてくれる熊と出会う、森の中に。


「…この森の中で出会うのよね…?本当に熊さんがイヤリングを届けてくれるのかしら…?」


 辺りをしきりに見渡しながら歩き回る彼女は、おっかなびっくりといった様子である。足は恐怖で震え上がっており、その歩みは生まれたての小鹿のようにおぼつかない。


「うぅ…。怖いよぅ…。なんで私がこんな目に…。」


 恐怖で泣きそうなイリスが、震える声で愚痴をこぼす。これから出会う存在のことを考えれば、当然の反応であろう。

 なにせ相手は、数ある動物の中でも特に危険な「猛獣」なのだ。人間と意思疎通なんて出来るわけがない。本来なら断固遭遇を回避するべき相手だ。そんな猛獣にわざわざ出会わなければいけない彼女の心境は、察するに余りある。

 彼女は手にイヤリングを握りしめながら、休む間もなくキョロキョロと目を動かす。熊を見かけたら、すぐにでも逃げられるように。

 その時、近くの草むらがガサガサと音を立て始めた。


「…ひっ!」


 思わず上ずった声を漏らしてしまうイリス。草むらを真っすぐ見据えながら、ゆっくりと後ずさりをする。


「く…熊さん…?熊さんなの…?い…一応言っておくけど、私…おいしくないからね…?」


 揺れる草むらに向かって、震えた声をかける。動物に言葉が分からないとわかっていても、そう言わずにはいられなかった。

 だが無慈悲にも、草むらの揺れはだんだんと大きくなり、草同士がこすれる音は、ますます大きくなっていく。こちらに近づいている証拠だ・


(…もうこうなったらどうにでもなれよ!姿を見たらすぐに逃げてやるんだから!!)


 覚悟を決めたイリスは、今にも泣きそうな顔をしながら草むらをじっと睨みつける。

 そして、とうとう草むらを揺らした犯人が顔を出した。


「…え。」


 腹をくくったイリスの目の前に現れた、草むらを揺らした犯人。

 それは熊でもなければ、今まで見たことのない動物だった。


 クルルァァァァ…。


 全身真っ黒で頭は大きく、太い腕と爪を携えた二足歩行の生物。それがイリスの前に現れたのだ。


 その動物は大きな黄色い目をイリスに向け、見るからに痛そうな太い爪を構える。

 その目は、獲物を見つけた獣の目のそれだった。


「え…何…?何なの…?」


 イリスは目の前の未知の動物に理解が追い付かず、うわ言のようにつぶやくだけで精一杯だった。

 だが相手は彼女の心境など気にも留めず、むしろ好機と言わんばかりにじりじりと詰め寄る。


 クルル…。


「ちょ…、ちょっと待って…。こんなの…聞いてな──」


 目の前の状況を否定するように首を横に何度も振るイリス。だがそれでも、目の前の黒い生物は止まらない。


 クルルァァァァァ!!


「い…嫌ぁぁぁぁぁぁ!!」


 とうとう黒い生物がイリスにとびかかり、その爪を振り下ろす。

 イリスは思わず腕で顔を庇い固く目を瞑った。


「やめろ!!」


 突然どこからか、低い声がその場に響き渡った。


 クルルァァ!?


 後に続くように聞こえてきた、黒い生物の鳴き声。同時に聞こえてきた、何かを切り裂くような音。

 それを最後に、もう声は聞こえなくなった。


「お嬢さん!大丈夫かい!?」

「え…?」


 自分声をかけているのだろうか。その声に応えるようにイリスは恐る恐る目を開ける。

 再び光を取り入れた視界に、大きな「何か」が映る。


「大丈夫…と見ていいのかな?なら良かったのだが。」


 イリスの目の前に映された「何か」。それは大きな熊。だが、イリスの知る野生の熊とはだいぶ違っていた。

 本来野生の熊は衣服なんか着ない。しかし目のまえの熊は服を着用していた。それも貴族が着るような、見るからに高級そうな服だった。

 厚い布地の赤いマントに、豪華な装飾の肩当て。その手には剣が握られており、頭には王冠のような被り物を被っている。熊の見た目であることを除けば、どこかの王族としか思えない格好だった。


「く…熊…さん…?」

「あぁ、そうだよ。君がイヤリングを落とす女の子だね?」

「そ…そうです…。」

「やっぱり!君が僕の『運命の書』に記されてた人だね!僕がイヤリングを拾う熊さ!よろしく!」


 目の前の熊が、嬉しそうにはしゃいでいる。その姿はまるで、人間の子供のように無邪気なものだった。

 流暢に人間の言葉を話し、人と同じく喜ぶ熊。そんな彼の姿を観察していたイリスは、全身の力が抜けていくのを感じていた。

 今まで怯えていたのはなんだったのか。予想だにしなかった事態に拍子抜けしてしまう。


「まあ…、本来の『運命』とはだいぶかけはなれた出会いになっちゃったけどね…。立てるかい?」

「あ…はい…。」


 紹介が終わると熊がおもむろにイリスへ手を差し出す。戸惑いながらも、イリスは恐る恐るその手を取った。

 服を着て、言葉を喋り、無邪気ながらも気品を感じさせる佇まい。全てが常識外れの熊に、イリスは理解が追い付かなかった。

 だが熊の紳士的な佇まいは、少しずつ彼女に落ち着きを取り戻させた。


「あ…!」


 そして冷静になった彼女は、気づいた。その熊の毛皮のあちこちが、赤く染まっていることに。

 彼は体中に大きな傷を負っており、そこから尋常ではない血が流れていたのだ。


「熊さん!あなたこんなケガを──」


 あまりにも痛々しいその傷を見ていられず、イリスは心配そうに彼の体に触れようとする。


 クルルァァァァ!!


 だがイリスの言葉を遮るように、また聞きなれない動物の声が聞こえてきた。

 二人はその場であたりを見渡すと、先程の黒い生物が再び現れたのだ。


 今度は、何体もの群れを成して。


 その群れは揃って二人を睨みつけ、体を屈め始めた。明らかに襲い掛かるつもりだ。

 熊はその手の剣を目の前の群れに向け、睨み返した。


「淑女の心配りを邪魔するとは、本当に無粋な連中だね…!」


 それだけ言うと熊は威嚇するように、群れに向かって一歩踏み出した。

 恐怖でまたしても震え上がったイリスに向かって、熊は叫ぶ。


「ここは私に任せて、君は早く逃げろ!!」

「で…でも、熊さんは───」

「僕は熊だぞ!この程度の連中、なんてことはない!!さあ、早く!!」


 熊の決死の叫び。その声を聞き入れたイリスは、震える足で何とか立ち上がり、駆け出す。

 後ろ髪をひかれる思いをしながらも、熊の言う通りに。


「また会おう!!今度は、本来の『運命』の通りに!!」


 その言葉が、彼女が最後に聞いた熊の声だった。


 ******


「それから村に逃げ戻ったのですが、あの日の光景があまりにも恐ろしくて…しばらく家の中で震えながら引きこもっていたのです。何とか落ち着いたときに、イヤリングを落としたことに気が付いて…。それでまた戻ってきたのです。熊さんのことも、心配だったので…。」

「それで森の中を探し回っていたら、さっきの男に襲われた…と。」

「はい…。」


 話を締めくくると彼女は深く息を吸い、ふう…と大きく吐いた。長く語ったことで疲労したのだろう。

 参った様子の彼女をよそに、ルゼはイノセの方を向いて問いかける。


「ねえ、この子が言っていた黒い生き物って…。」

「うん。間違いない。ヴィランだ。」


 イノセが首を縦に振って肯定する。二人の考えてることは同じのようだ。

 やはりこの想区にカオステラーがいるのは間違いなさそうだ。ヴィランの存在と、イリスの『運命の書』に記述されてない出来事が、それを証明している。


「ん?とすると、もしかして…。」

「どしたの?」


 加えてイノセは、話の中で気になったことがある。

 イノセは、再びイリスに向き直った。


「村の方々が言っていた『歌姫』というのは、もしかして…あなたのことなんですか?」


 イノセからの質問を聞いたイリスは、突然顔を真っ赤にしてうろたえだす。


「えっ!?そそそそそんな歌姫だなんてとんでもないです!ただ暇を持て余して何気なく口ずさんだら、周りの人たちが勝手に囃し立てただけで…!!誰に習ったわけでもない自己流の歌ですし、ホントに人様に聞かせられるものでは…!!」

「…うっさい。」

「あうっ!?」


 半ば錯乱じみた慌て方をするイリスの頭を、ルゼが強めにひっぱたく。いきなり頭を叩かれたことで、たまらずイリスは頭を抱えて悶絶した。


「ちょっと姉様何してんの!?」

「うじうじした姿を見るのが、さすがに限界だったから。」

「やめてあげてよ!ただでさえあんな目に会っていっぱいいっぱいだろうに…。」


 イノセが注意をするも、多少の苛つきを隠すことなくルゼは吐き捨てるように言った。


「ご…ごめんなさい…。でも、本当にそんな大層なものではないんです。ご期待に添えられるようなものでは───」

「あ、いや…。村の人が、あなたのことを心配していたので、ちょっと気になっただけですから…。」

「あ…。すいません…。」


 イノセが真意を伝えたことで落ち着きを取り戻したようだ。取り乱したことを恥じているのか、先程よりもさらに顔を赤くして俯いてしまう。


「でもこんなにあっさり見つかるなんてね。村の人たちがあんたを探しに森に入ったって言ってたけど、一体何をしていたのかしら。」

「え…。村のみんなが…ですか?」

「はい。数日前からあなたを探しに行ったとのことです。誰も帰ってきていないらしいですが…。今まで誰とも会わなかったんですか?」

「は…はい…。森の中で出会ったのは…、さっきの人と、あなたたちだけです…。」


 キョトンとした顔で答えるイリス。

 嘘をついているようには見えないが、新たな疑問が生まれる。


(どのくらいの村人が探しに来たかはわからないけど、あの村の様子に、宿の主人の話…。相当な数の人たちが捜索していたはずだし、何日か前に探し始めているはず…。)


 しばらく散策はしてみたが、それなりの広さがある森だということは分かった。だがそれでも、村人の誰とも鉢合わせにならないのは少し不自然だ。少なくとも一度や二度は日を跨いでいるだろう。

 それだけの時間をかければ、村人の誰かの目には留まるはず。イノセはどうも腑に落ちなかった。


「…あなたは、いつからイヤリングを探しているんですか?」

「え…?えっと…、3日…いや、4日前くらい…でしょうか…?」


 急に真面目な顔で問いただすイノセに、イリスは怯えながらも答えた。

 それでもイノセの疑問は尽きない。


「3~4日も、ずっと探し続けてたんですか?」

「は…はい…。あのイヤリングは、決して高価なものではありませんが、とても大切なものなんです。なんでも、『森の熊と会う少女の運命』を担う家系に代々伝わる物、らしくて…。そう言われて母から受け取ったものなんです。あれだけは、失くすわけにはいかなくて…。」


 たどたどしくも少しずつイリスが答え、さらにイノセは問答を続ける。


「その間、ずっと探し続けていたんですか?水や食料も無しに?」

「え…。」


 次の質問を問われた時、イリスは途端に言葉を詰まらせてしまった。まるで豆鉄砲を食らった鳩のように目を丸くして、ポカンと口を開けるばかり。

 急に黙り込んだ彼女の反応は、イノセの疑心を深めた。

 いくらネガティブな性格とはいえ、ここまで露骨に黙りこむのはおかしい。ただこの数日の間に、自身に起こったことを聞いているだけだ。話すことになんの不都合なんてないはずだ。


 何か後ろめたいことでもなければ。


(まさか、この人…。)


 目の前の女性をますます怪しく感じるイノセ。半ば確信を持ちながら、イリスに一歩踏み込もうとする。


 グゥルルルルル……。


 その瞬間、森の中に低く鈍い音が響き渡った。

 耳を澄まさずとも聞こえるその間の抜けた音に、イノセの緊張の糸と張り詰めた神経がすっかり緩んでしまった。


「…。」


 その音に聞き覚えのあるイノセは、うんざりした顔でルゼの方へ振り返る。


「姉様…。真面目な話をしてるんだからさ…。」

「ち…違う!私じゃないわよ!?」


 イノセの予想とは裏腹に、ルゼは必死に首を横に振って否定する。だがイノセはため息をつきながら呆れ半分で対応する。


「あとでお昼ごはんにするから、もう少し待ってて。」

「だからっ!違うって言ってるでしょ!!」


 イノセの受け答えが的外れと言わんばかりに、彼女は真っ赤な顔で怒りながら否定する。彼女自身も恥じているのだろうが、今は構う暇はない。イノセは改めてイリスに向き直す。


「………。」


 視線の先のイリスは、なぜか顔を真っ赤にしながら俯いていた。恥ずかしがるような仕草の理由が分からず、イノセは反応に困ってしまう。

 するとイリスは俯いたまま、恐る恐る挙手して呟いた。


「………です………。」

「…え?」


 一瞬、何のことか分からなかった。その反応が気に障ったのか、イリスは大きな声でもう一度告げる。


「私のお腹の音なんです!!この数日ろくに何も食べてなかったので!!不躾ですみません!!!」

「え。」


 あまりの羞恥でやけくそになったイリスが大声で叫ぶ。眉間に皺を寄せ、青筋が浮き彫りになり、耳まで茹で上がり、今にも泣き出しそうな顔であった。

 そこでようやくイノセも己の過ちに気づいた。

 姉に濡れ衣を着せただけでなく、たった今会ったばかりの女の子に恥をかかせてしまったことを。


「え…っと…。」


 思いもしなかった返答に、イノセは思わず固まってしまった。

 イノセはおもむろにルゼの方を向いてみる。


「………。」


 視線の先にいたのは、批判的な目をイノセに向けたルゼの顔。彼女は溺愛する弟を、恨めしそうな目で睨み付けていた。空腹の濡れ衣を着せられていたのだから、当然であろう。

 不快感を隠さない二人に囲まれ、イノセはとうとう折れた。


「…二人とも、ごめんなさい…。」


 イノセは降参したかのように二人に頭を下げる。意図せずとはいえ、うら若き乙女二人に恥をかかせてしまったのだ。その罪は軽くはないだろう。


「…とりあえず村に戻らない?皆心配してるだろうし。」


 素直に謝った彼を見て機嫌を直したのか、ルゼはいつもの調子で話を続けた。彼女の提案に賛同したのか、イノセとイリスは首を縦に振る。


「そ…そうだね…。せっかく見つかったんだし、とりあえず村へ送り届けよう。イリスさんも、それでいいでしょうか?」

「はい…。ただ、私を探してくれている村の人たちを残して帰るのは、申し訳ないのですが…。」

「まずはあなたの身の安全が優先ですよ。村の人たちもそれを望んでいるはず。みんなに伝えるのは、あなたが無事に帰った後でいい。」


 イノセの進言に、イリスは後ろ髪引かれながらも頷いた。


「あ…。」


 それと同時に、イリスは膝から崩れ落ちた。


「え!?どうしたの!?」

「大丈夫ですか!?」


 いきなりのイリスの異変に、姉弟は慌てて寄り添う。

 手をついて体を支えるイリスが、しんどそうに口を開く。


「ご…ごめんなさい…。気が抜けたら、体が言うことを聞かなくて…。」


 そうこぼすとイリスは腕と足に力をいれ始めた。自力で立ち上がろうとしているのだろう。だがどれだけ力を入れようとも、彼女の体は多少ふらつくだけで、立ち上がる気配はない。

 今までずっと飲まず食わずで森をさ迷っていたのだ。栄養も足りないだろうし、疲労だって溜まっている。何よりも先ほどの男に追い回されていたばかりなのだ。体の疲労はピークを越えているだろう。そんな状態で、自力で動くなど無茶もいいところだ。


「キャッ!?」


 突然、イリスの足が地面を離れた。

 何が起こったか分からないイリスは、思わずキョロキョロと目を動かした。


「…ルゼさん?」


 頭上にルゼの顔が見えたことで、状況が飲み込めた。

 イリスは、ルゼに抱きかかえられたのだ。


「村までおぶってあげる。」


 理解が追い付かないイリスを他所に、ルゼはただそれだけ告げた。


「え!?そこまでお世話になるわけには───」

「そんな状態で村まで歩くなんて無茶よ。私の心配なら要らないから。」


 イリスは慌てて申し出を辞するも、ルゼは彼女の遠慮すらもはね除ける。


「で…ですが…!」


 困った様子のイリスは縋るようにイノセを一瞥するが、彼も首を横に振るだけだった。

 ルゼは、こうなったらとことんまで意地を張り通す人物だ。それが分かっていたイノセは、姉の好きにさせようと判断したのだ。

 彼の諦めにも似たような表情を見てようやく観念したイリスは、それ以上何も言わなかった。


「さぁ!そうと決まったら早速出発よ!二人ともあたしについてきなさい!!」


 彼女が黙ったのを見計らったように、ルゼが拳を振り上げて勇ましく歩きだした。

 今まで辿った道とは大きく外れた方向に。


「姉様!そっち違うから!!どっちから歩いて来たのかもう忘れたの!?」

「あの…そっちの道はお城の───」

「大丈夫よ!あたしの勘を信じなさい!」

「勘なんかで進まないでって何度言ったら分かるの!!…ってもう!!待って姉様!!」


 二人の制止も全く聞き入れずにどんどん森の奥に突き進むルゼ。人間一人抱えてるとは思えないほどのパワフルな走り方だ。イノセが声をかける頃には、彼女達は視界から離れそうな程に離れていった。


「もう…。」


 勝手にあらぬ方向に走っていったルゼを、イノセは急いで追いかける。


 正直なところ、イノセはイリスのことを疑っていた。

 なぜ村人と一人も会わなかったのか、3~4日も飲まず食わずでなぜ無事なのか、問い詰めたときに言葉をつまらせたのは、後ろめたい何かがあったのではないかと思ったのだ。


 例えば、彼女自身がカオステラーである、とか。


 だが実際には、疲れと空腹に気づいていなかったという何とも言えない落ちであった。飲食も忘れて必死に探していたところを、イノセに突っ込まれてようやく思い出した。そんなところだろう。

 顔を真っ赤にしたやけくそ気味な反応、どう見ても何かを企んでいる風には見えなかった。

 それに彼女からは、カオステラーの気配は感じられない。関係者という線も否定できないが、少なくとも彼女に後ろめたさは感じられなかった。あくまで今のところは、だが。


 カオステラー沈静のために必要なこととはいえ、彼女を疑い、あまつさえ恥をかかせてしまった。ここまで迷惑をかけて平然としていられるほど、イノセは無神経ではない。


(…後でもう一度、イリスに謝っておこう。)


 そんなことを思いながら、彼は先駆けて進んでいった二人に追い付こうと、走る速度を早めていった。


 ******


「あら?こんなに立派な村…って言うか、町じゃなかったわよね?」


 一人抱えながら森を走ったとは思えないほどに元気なルゼ。彼女が森を抜けた先に待っていたのは案の定、あの村ではなかった。

 石畳が敷かれた大通り、所狭しと建てられた木造の家、そして奥にはうっすらと巨大な石造りの建物が見えた。

 どう見ても道を間違えたとしか思えない。


「だから何度も言ったでしょ…!村のある方角とは違うって…!!」

「ここは、この国の王がおられるお城の城下町です…。村とは反対の方向に進んでます…。」

「………。」


 やっと追い付いて息切れを起こしたイノセは呆れ果て、イリスは気まずそうに説明する。この失態には、さすがのルゼも何も言えずに言葉を詰まらせてしまう。

 だが何を思ったのか、ルゼはすぐに笑顔を取り戻した。


「…まぁでも丁度いいんじゃない?どうせあなた、お腹空いてるし、疲れたんでしょ?今日はここで腹ごしらえして休んでいきましょうよ!」

「少しは反省してくれる…?」


 後ろから悪態をつくイノセをよそに、思い直したように元気を取り戻したルゼが勇ましく歩を進める。

 イリスをお姫様抱っこで持ったまま。


「あの…。私はもう大丈夫ですから、下ろしていただけませんか…?」


 抱えられたまま顔を真っ赤にしたイリスは、必死な形相で抗議をする。

 実際町に入ってからは、彼女達を不思議そうな目で見る人たちがちらほらと見受けられた。こんな公の場でお姫様抱っこをされているところを見られるなど、恥でしかなかろう。


「何言ってんの!自力で立てないんだから、親切に甘えときなさいよ!あたし鍛えてるから、このくらいじゃへばったりしないから!」

「恥ずかしいからやめてって言ってるんです~!!!」

「だから一人で勝手に進まないでってば!!」


 だがそんな彼女の気持ちなど露知らずと言わんばかりに、ルゼはそのまま走り出した。辺りにはイリスの悲痛な叫びと、苛立ちを含んだイノセの怒号が響き渡った。







 今日の宿を探すために、しばらく町を歩きまわる三人。

 しかし周囲を見渡すと、三人は妙な雰囲気に気づく。


「なんか、町中が落ち着かない雰囲気よね?」

「うん。催し物でもあるのかな?」


 姉弟が互いに感想を口に出し合う。

 町中の建物には花を繋げたような帯が弧を描きながら飾られ、所狭しと露店が並ぶ。道行く町民の様子も、皆が浮き足立っていて落ち着きがない。明らかに日常的な風景ではなかった。


「お?なんだアンタら。お姫様抱っこなんかして、王子様とお姫様の真似事かい?」


 辺りを観察する三人に、一人の男が声をかけた。おそらくは町民の一人のだろう。

 人をからかうような男の口調に、ルゼがムッとしながら怒鳴る。


「失礼ね!この子が森で迷子になって弱ってたから、休めるところを探していたのよ!!」

「あぁそうか、悪い悪い!あんたらも王子様達の婚儀を見に来た観光客かと思ったよ!」

「婚儀?」


 食らいつくように答えるルゼに、笑いながら謝る男。

 同時に興味深い言葉が彼らの耳に入った。


「…そういえばこの前、近日中に王子様とその弟君がご結婚なさるって知らせが…。」

「あぁ、だから街がやけに豪華なのね。」


 はっとしたように補足するイリス。それを聞いて町の非日常的な雰囲気に納得した。

 一国の王子が伴侶を決めるなど、町中が祝わない訳がない。

 だが男はすぐに肩を落とした。


「まあ残念なことに。数日前に、婚儀が急遽延期になっちまったんだがね…。」

「え?なぜです?」

「何でも、王子様の弟君が行方不明になっちまったそうだ。数日前に突然城から姿を消したんだとよ。今も兵士達が捜索中らしいぜ。」


 参ったと言わんばかりの困り顔で男はぼやいた。国の王族の失踪とは、確かに洒落にならない話だ。


「あとな、王子様も今、訳あって人前に出れないらしいぜ。」

「え?王子様までですか?」

「ああ。城からの知らせが町中に届いてな。町の人間が事情を聞いても、城の奴ら「今は詳しいことは言えない」とさ。こっちとしては、気が気じゃないぜ…。」


 なんと、王子の身にまでなにかあったというのか。国の王族の身に立て続けに災いがあったとなれば、国民の不安は相当なものに違いない。

 町民がソワソワしているのは婚儀を楽しみにしているというよりは、王子と弟君の身を案じているのだろう。それを考えれば、町中を彩る装飾や露店も、どこか寂しく見えてくる。


「…ここだけの話、その王子様のことで変な噂話が流れているんだよ。」

「噂…ですか?」


 男は周囲に聞こえないように、幾分か抑え目な声量でイノセ達に耳打ちする。


「何でも王子さまが、熊の姿に変えられちまったんだとか。」






「…え。」






 男の言葉を聞いた瞬間、イリスが目を丸くして呆然としていた。


「…熊の、姿…?」

「あくまで噂なんだがな。こっそり城に忍び込んで見たやつがいるらしくてな、城の中で豪華な服を着た熊が兵士や家臣に囲まれてたんだとよ。城の連中がこぞってその熊のことを「王子様」って言ってて、ひれ伏していたらしいぜ。ちょっと信じられないけどな。」


 男はイリスの様子に気づくことなく話を進める。肩をすくめながら喋るその様子からして、噂の真偽を疑っているのだろう。

 だがこの場の一人には、その噂が嘘ではないと確信ができた。


 出来てしまった。


「わっ…ちょっと!?暴れないでったら…うわっ!!」


 突然イリスは暴れだしてルゼの手から逃れ、そのまま地面へ落下した。


(まさか…まさか…まさか…!!)


 今までの人生でも経験したことのない胸騒ぎに突き動かされ、よろよろとイリスは立ち上がる。

 そしておぼつかない足取りで、城の方角へ走り始めた。


「あ!どこ行くのよ!ねぇ!」

「待ってください!イリスさん!」


 姉弟は慌ててイリスを呼び止めるが、彼女の足は止まらない。

 疲労とダメージで立つのもやっとなはずなのに、イリスは一心不乱に足を早める。


(まさか…あなたなの…?熊さん…!!)


 心身の限界すらも忘れ、己の中の何かに急かされるように、イリスはただひたすらに走り続けた。

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