想区の拒絶反応


(しまった!もう戻って来ちまいやがった!!)


ルゼの姿を捉えた痩せ男の顔に、冷や汗が一粒流れる。よりにもよって今一番出会いたくない相手と鉢合わせてしまった。間の悪さに頭を抱えたくなったが、今はそんな暇もない。


「きょ…今日はこの辺で引き上げさせていただきやす!例の件は何卒おねげぇしやす!」


すぐに玉座の間を出ようと、荷物をまとめてそそくさと扉に向かって走る。取り巻きの男達もそれに続いて走り出す。


だがもう遅かった。


逃げるように走った痩せ男の胸ぐらを目にも止まらぬ早さで掴まれ、男の足は易々と床から離される。


「答えなさい。どこでそれを手に入れた。」


女性のものとは思えない低いトーンと口調。広間に鈍く響く声と、男を切り裂かんばかりの鋭命の危機をい目。あまりの気迫に、睨み付けられた痩せ男はすっかり竦み上がった。

痩せ男は何とか抵抗を試みるも、持ち上げられているために、じたばたすることしかできない。


「てめぇら!!さっさと手ぇ貸さねぇか!!」


見の危険を感じた痩せ男は取り巻き達に怒鳴りつける。

ここはファラオの御前で、しかも相手は王妃。本来なら荒事などご法度だが、主の命令なら話は別なのだろう。取り巻き達はその声に答え、王妃に掴みかかる。


「そこまでですぜ。王妃様?」


取り巻きの一人がルゼの腕を掴み、痩せ男から無理やり引き離す。ボスと呼ばれた痩せ男は床へ落ちて尻餅をつき、今度はルゼが腕を持ち上げられた。男の握力により、ルゼの腕からはギリギリと締め付けられる悲痛な音が鳴る。


メリッ!!


突如、広間に鈍い打撃音が響く。


強く握りすぎて腕を手折ってしまったか?取り巻きの男はそんなことを思った。

だが王妃の腕はなんともない。では一体何の音なのか。


「…ぁ?」


次に男が気づいたのは、自身の脇腹にめり込んだ王妃の足。それと同時に、大きく吹き飛んだ自身の体。


いきなりの出来事に頭の処理が追い付かず、さらに腹を勢いよく蹴られたことでかすれた声しか出ない男。

そのまま広間の壁に激突する頃には、男の意識は既に途切れていた。


「…お、抑えろ!!」


それを合図にするかのように、他の取り巻き達がいきり立って次々とルゼに飛びかかる。


だが、彼女は止まらなかった。


取り巻きの一人が彼女に伸ばした手をかわして掴み、そのまま背負って投げ飛ばし、

別の一人が羽交い締めにしようとしたら脇腹に肘鉄砲を見舞い、悶絶した男の顔に裏拳を当てて沈め、

さらに別の一人が殴りかかろうとすれば、相手の脛を蹴り、体勢を崩したところへ顎を拳で打ち上げる。


他の取り巻き達も襲いかかるも、その全てを女性らしからぬ力で次々と倒していく。

結局、大の大人が複数人相手にも関わらず、たった一人であっという間に叩きのめしてしまった。


現実離れの光景に唖然とするしかない痩せ男。だが男の心情など気にも留めずにルゼは痩せ男に迫り、その胸ぐらを掴む。


王妃のただならぬ様子に男は顔をひきつらせるが、すぐに険しい顔つきになって王妃に向かって怒鳴る。


「な…何してくれやがるんです!うちの連中をのしちまって、どう責任を───」











「その荷物はあたしの弟のものだ!!!弟をどこへやった!!!!」










「ひいっ!!」


だが男の大声をたやすく上回る怒号が、玉座の間に響き渡る。

もはや猛獣の咆哮と変わらないその声に、痩せ男はおろか、ファラオを護衛する兵士すらも震え上がる。座したファラオですら、玉座から危うく滑り落ちそうになった。

だが男はその気迫に怯えつつも、王妃の言葉に耳を疑った。


(この荷物が、王妃の弟のものだと!?)


王妃が人助けのために国中を駆け回っている傍ら、人探しをしていたことは民たちの間でもちょっとした話題になっていた。当然それは痩せ男の耳にも入っていた。

だがその探し人がまさか、先日奴隷として売り飛ばしたあの青年のことだったとは。


現状を察した男の顔から一気に血の気が引いていく。知らなかったとはいえ、自分は王族の肉親に手を出してしまったのだ。罪深いなんてものではない。

それこそ牢屋行きを通り越して極刑も十分にあり得る。


何とかしてこの場を治めなければ…。


「い…いやぁ、他ならぬ王妃様のお願いですし、お話ししてもいいんですがねぇ。こちらとしてもお教えするのに色々としがらみがございまして、一度準備をさせていただきたいなと…。」


自身の危機を感じた男はすぐに笑顔を取り繕い、言い知れぬ恐怖をこらえながら王妃にへつらうように発言する。


「いいからさっさと答えろ!!!!!!」

「ごひゅ!!??」


だがその男の弁明が最後まで言い終わることはなかった。

ルゼが痩せ男の胸倉を掴んだまま、痩せ男を床に勢いよく叩きつけた。

そのあまりの衝撃につぶれたような声が男の口から漏れだす。そればかりではなく、その衝撃による振動と鈍い打撃音が広間中に響いた。

男は思わずせき込みそうになったが、それすらルゼは許さない。


「うっ…ぐえっ…!!」


大型のカエルが潰れたような汚い声が、男の口から漏れ出す。

仰向けに倒された瘦せ男の胸ぐらを未だ離さないルゼの手。強く握られたその拳を、彼女はそのまま痩せ男の胸にありったけの力で押し付けたのだ。

彼女の腕に少しずつ力がこもり、男の胸にどんどん沈んでいく。それにつれて男の顔色がどんどん悪くなる。

そこへ、いままで傍観に徹していたファラオが玉座から立ち上がり、声を荒げた。


「待て!玉座の間での狼藉など許さんぞ!」

「うるさい!これはあたしの身内の問題だ!!邪魔するな!!!」


だがルゼは彼の言葉に耳を貸そうともしない。それどころか、王であり夫でもある彼(現時点ではまだ仮初めではあるが。)に向けて暴言を吐き捨てる始末。短い期間とはいえ、今までにない程に荒ぶった彼女の気迫に、さすがのファラオも驚きを隠せない。

だがいくら王妃の親族に害を加えた不届きものとはいえ、神聖な玉座の間で荒事など許せるわけがない。

王妃を取り押さえさせるため、すぐに兵士たちの方向へ向き、命令を下す。その時───


「ま…町で捕まえて、お得意様の貴族に…売っちまいました…。今ごろは、貴族の旦那の屋敷に…。」


自身の胸を圧迫するルゼの拳に耐えられなかったのか、男が遂に口を開いた。彼女が最も求めていた情報。ルゼはその言葉の一節一節を逃さず耳に捉える。


それと同時に、ルゼの中で何かがブツリと弾けた。


───弟を、奴隷として売り飛ばしただと?


怒るよりも、嘆くよりも先に、彼女はもう片方の拳を反射的に男へ振り下ろす。


「ごぶぁ!!」


床にヒビが入りかねないほどの衝撃が走る。そんな拳を受けて、無事でいられるわけがない。痩せ男の顔はすでに原型を留めていなかった。


「すぐに案内しろ!!!!」

「わ…分ひゃりやした!!案内しましゅひゃら!もう勘弁ひへ…!」


顔が崩れてまともに呂律が回っていない痩せ男。命の危機を感じ取ったのか、呆気なく降参した。

それを聞いたルゼはさっさとイノセの荷物をまとめ、男の首根っこを掴んで引きずりながら玉座の間を去る。


「い、いひゃい、いひゃいへふから!あんまい引っ張らないれ!」

「あ?」

「ひいっ!!!」


ルゼの扱いの荒さにたまらず抗議する痩せ男だが、ルゼが一睨みすることで、すぐに押し黙った。男が静かになると、そのままルゼは玉座の間を後にする。


しばらくの間、先程の騒ぎが嘘のように静まり返るが、兵士達はハッと我に返り、すぐに王妃の後を追って駆け出す。


「俺達もすぐに王妃様を追うぞ!!王妃様の身に何かあったら…!!」

「王妃さま!!お待ちください!!」


慌てて玉座の間を出ようと出口へ駆けるの兵士達の後ろ姿を、ファラオはただ黙って見送る。

正直なところ、あれだけ破天荒な彼女に護衛など必要性を感じない(確かに単身城を抜け出すのは如何なものかとは思うが…。)。何よりも、他ならぬ王たる自分が好きなようにさせてやれと言ったはずなのに。それでも王族の身を案じて付いていこうとするのは、兵士としての運命を与えられたもの達の性なのか。


兵士達の後ろ姿を見守りながらそんなことを考えていた。

その時だった。


クルルァァァァ!!


「な…なんだ!?」


突如として広間に黒い人の形をした化け物が現れた。それも、何匹も。


クルルァァァ!クルルァァァ!!


「ひっ!!なんなんだこいつら!!」


見たこともない異形の化け物を前にして、兵士達が怯えだす。彼らはがむしゃらに武器を振り回すが、得体の知れない者への恐怖と驚きからか、いつもより及び腰だった。相手に尻込みするその様は、一国の兵士としては些か情けない姿だが、無理もないだろう。


ファラオ自身も何がなんだか全く分かりかねる。

だが、ここで自分に出きることはただひとつだった。


「狼狽えるな!!我が兵士達よ!!」


へっぴり腰になってしまった兵士達に、ファラオは喝を入れた。途端に兵士達の背筋が伸び、恐怖心が振り払われる。


「すぐにこの無礼者達を排除し、我が妃を追え!余も同行する!」

「えっ!?ファラオが直々に…ですか!?」

「そうだ!こ奴らは我が妃がこの場を去った後に現れた!ともすれば我が妃に害をなそうとして現れたのやも知れぬ!」


クルルアァァァァ!!


「うおっと!!」


王の話の途中で化け物達がその大きな爪を持って襲いかかるが、兵士の一人がそれを手に携えた槍を構えて受け止める。王の喝によって、へっぴり腰はすっかり直っていた。

それを見てファラオは微かに笑い、改めて兵士達に命令した。


「兵達よ!こ奴らを蹴散らせ!!!」

「「「「「はっ!!」」」」」


ファラオの命令と、威勢のいい兵士の返事が広間中に広がった。


******


「二人とも!早くこっちに!!」


ヴィランで溢れた孤島の屋敷。イノセはロードピスと旦那様の腕を引っ張り、ヴィランの群れから逃れようと躍起になっていた。


突如として屋敷のエントランスに出現した大量のヴィラン。外に出て逃げようとしたが、次々と生まれるヴィランに玄関を阻まれてしまったのだ。仕方なく外への脱出を諦めて、イノセ達は屋敷の奥へと駆け込み、今に至る。

イノセ達は、あちこちで現れたヴィランの群れから逃れるために、共に屋敷中を走り回る羽目になった。


クルルアァァ!!


「きゃあっ!!」

「ひぃっ!!こっちに来るなぁ!!」


クルルァァ!!クルルァ!!


「くそっ…!あっちにいけ!!」


ヴィランの凶爪が、ロードピスと旦那様に狙いを定める。イノセはロードピスと旦那様を庇いながら、近くにあった箒を振ってヴィランを牽制している。


クルルル…!!


その必死の抵抗によって多少ヴィラン達が怯んでくれたため、その隙にまた駆け出す。

だが逃げた先でもまた新たにヴィランが発生して、それを追い払って…。早朝からずっとこの作業を繰り返しているものの、拉致があかない。


「くっ…!やっぱり出てくるよな…!」


収まるどころか、どんどん数を増やしていくヴィラン達。だが先程から取り乱すロードピスと旦那様と違い、イノセは苦しい状況に顔を曇らせつつも極めて冷静だった。


「おっ…お前、あれが何か知っているのか?一体なんなのだあれは…!」


只事ではない事態にも関わらず冷静なイノセに、旦那様は半ば錯乱しながらイノセの胸ぐらに掴みかかる。


「旦那様!お止めください!こんなときに───」

「うるさい!!奴隷が私に指図するなぁ!!」

「きゃあっ!」


ロードピスが旦那様をなだめようとするが、旦那様は聞き入れない。それどころか、自らの奴隷に指摘されたことに腹を立てたのか、自らのお気に入りであるはずのロードピスを乱暴に振り払う。ロードピスが倒れても目もくれず、またイノセに掴みかかる旦那様にイノセは険しい顔で答える。


「あれは…ストーリーテラーが遣わした存在です。」

「な…なんだと…?」

「あの黒い小人は、この世界の運命が本来の道筋から離れたときに、ストーリーテラーが派遣するんです。彼らは、運命を変えた原因となるものに襲いかかり、排除する。言うならば彼らは、ストーリーテラーが怒った証とも言える。」


旦那様は、先程までわめき散らしていたのが嘘のように静かになった。信じられないのか、それとも理解出来ていないのか、旦那様はただ目を丸くしてイノセの話を聞き入るのみ。

暫く口をパクパクとさせていた旦那様だが、これで疑問が晴れたわけではない。恐怖で掠れた声を何とか絞り出して、またイノセに食いかかる。


「ストーリーテラー様が、お怒りになったのか…?なぜだ!なぜストーリーテラー様がお怒りになる!?一体、誰に怒っているというのだ!!」

「…それは…。」


正直なところ、これ以上のことを不用意に想区の住人に伝えてもいいのだろうか。旦那様の問いにイノセは迷う。だが誤魔化そうにも言い訳が思い付かないし、ここは黙っていてもしょうがない。

イノセが意を決して話そうとしたそのとき。


「そこの新入りに決まっているではありませんか。旦那様。」


突如として何処から聞こえてきた、耳に障る甲高い女性の声。三人の誰もがその声に聞き覚えがある。

イノセが声の主を探していると、ある一点を険しい顔で見つめるロードピスを捉える。


「…どういうことですか。奴隷長。」


彼女の視線の先には、複数人の戸惑い顔の奴隷たちを引き連れ、勝ち誇ったような笑みを浮かべた奴隷長の姿があった。


******


城下町の近くの港では、船乗りたちが慌ただしく出港の準備をしていた。ルゼはその喧騒を眺めながら、そわそわと落ち着かない様子で彼らの準備を見守っている。


「ねぇ!まだ出港できないの?」

「ムチャ言わんでください!でかい船を動かすのはそんな簡単じゃないんすよ!」


やがて見守るのにも飽きたのか、走り回る船員の一人を捕まえて、食いつくように突っかかり始める。


「こんなに大きな船じゃなくてよかったのに!急用だって言ったでしょ!」

「ダメですって!王族の方を乗せるんですし、これからその弟君も乗せるのでしょう!?そんなこぢんまりとした貧相な船なんて使えば、ファラオに何とお叱りを受けるか…!!」

「あぁ…もう!お姫様の立場ってホントにめんどくさいったら!」


王妃である自分が良いと言っているのに、ファラオの許可がないと船も出せないのか。船乗りが意見を曲げないと悟り、やり場のない苛立ちをますます募らせるルゼ。


イノセのいる場所へはあの痩せ男に案内させるつもりだ。あとは迎えに行くだけなのに、こんなところで足止めをくらうだなんて。ルゼの苛立ちはどんどん積もり、それが緊張感となって周りの船乗りたちにも伝わっていく。


「…おねえちゃん?」


機嫌が斜めのルゼの背後から幼い声が聞こえてきた。苛立っていたルゼは、険しく鋭い目付きのまま声の聞こえてきた方向へ向いてしまう。


そこにいたのは、ルゼが面倒を見ていた貧民街の子供たちだった。


「…え?みんな、どうしてここに!?」


予想だにしなかった来客達に、ルゼも思わず苛立ちを忘れて目を見開く。そしてすぐに自分の行いを後悔した。

自分の険しい顔を目の前の子供たちに向けてしまったことで、子供たちが恐怖で身をすくませていたからだ。


「ご…ごめんねみんな!!別にみんなに怒ってる訳じゃないからね!」

「…ホントに?」

「ホントホント!!なんでもないから!気にしないで!」

「…。」


平常心を装い、明るく振る舞ってみせるルゼ。

だが肝心の子供たちの反応はどうも複雑であった。


(う…。流石にわざとらしすぎたかな…?)


不安そうな顔で一同にルゼの顔を覗く子供たちの視線に、ルゼは気まずくてたまらなくなる。

そこでルゼは重い空気を誤魔化すように、また明るく振る舞って話を切り出す。


「あ!それよりも、みんなどうしてここにいるの?また遊んでほしいのかしら?今少し忙しいけれど、ちょっとだけなら遊んであげられるわよ?」


それでもなお子供たちを包む空気は重く、みんなが気まずそうにそわそわとしている。何とか元気付けてあげたいと明るく振る舞うルゼだが、逆にますます気まずい雰囲気になる。

ルゼが反応に困っていると、子供たちが意を決したような神妙な面持ちでルゼに問いかける。


「…おねえちゃん、どこかへいっちゃうの?」


その言葉に、ルゼは心臓がどくりと跳ねあがる感覚を覚えた。


「おふねにのって…どこかへいっちゃうの…?」


子供たちは、みんな不安そうな顔でルゼをじっと見つめている。まるで、どこかへ行こうとする母親に「行かないで」と言ってすがるように。


(子供の勘って…こんなに鋭いのね。)


子供たちの察知能力に、ルゼは感心を通り越して若干の戦慄すらおぼえる。


この子達は、ルゼが何をするのか察してここまでやってきたのだ。


これはもう、誤魔化しは効かないだろう。

そもそもこの想区に留まるつもりが無い以上、こうなることは分かりきっていたはずだ。

ならばせめて最後に、この子達に挨拶をするのが筋というもの。


ルゼは覚悟を決めた。


ルゼはしゃがんで子供たちに目線を合わせ、皆の潤んだ瞳を一つ一つ見つめる。


「おねえちゃんが探していた弟が、見つかったの。あたしは、これからその弟を迎えに行かなきゃならない。」

「…。」


子供たちは黙ってルゼの話を聞く。

一呼吸置いて、ルゼが子供たちに告げる。


「そうしたらもう、この国には戻らない。皆とは、ここでお別れしなきゃならない。」


子供たちに伝えられた、残酷な言葉。


「…ぐすっ、ひぐっ…。」

「うあぁぁぁぁ…。」


その言葉に、たまらず泣き出してしまう子供たち。

別れを告げたルゼ本人も、胸を締め付けられる思いだ。子供たちの涙を見て、こっちまで泣いてしまいそうである。


「いやだよぅ…いかないで…おねえちゃん…!」

「ずっと、いっしょにいてよ…おとうとさんも、いっしょに…くらそうよ…ひぐっ…ひぐっ…!」


子供たちが皆、ルゼにすがるように抱きつく。顔をぐしゃぐしゃにしながら、ルゼにしがみついてひたすらに泣きじゃくる。

ルゼは泣きそうな気持ちを必死に堪えながら、子供たち一人一人を抱き締める。子供をあやす母親のように、ただただ寄り添って気の済むまで泣かせてあげるしかなかった。


子供たちの涙は枯れ果てること無く、止めどなく各々の頬を伝ってこぼれ落ちる。

このままでは埒が明かないと思ったのか、ルゼは抱き締めていた子供たちを自身の体から離し、真剣な眼で話を続ける。


「だめ。あたしは、ここにいちゃいけないの。」

「なんで?なんでだめなの?わたしたちおねえちゃんのこと、だいすきなのに…。」


ルゼの言葉の意味が分からずに、戸惑いながらすがり付く子供達。ルゼは、子供達の潤んだ眼差しをまっすぐ見つめる。


「みんなには黙っていたけど、あたしは本物の王妃様じゃないの。」


ルゼは、子供たちに自分の正体を告げた。

だが子供たちはあまりピンときていないのか、キョトンとした顔でルゼの顔を見る。


「あの王様が勘違いをして、あたしをお妃様にしちゃったの。あたしは何度も違うって言ってたのよ?迷惑な話よね。みんなが本当に好きになるべき王妃様は、すぐに会いに来てくれるわ。偽物の王妃が、いつまでもこんなところにいたらダメなの。だから───」


「いやだ!」


子供の一人がルゼの説得を遮った。

顔がくしゃくしゃになるのも厭わずに、ルゼに訴える。


「ほんものとかにせものとかわかんないもん!ぼくたちはおねえちゃんがだいすきなんだもん!またいっしょにあそびたいもん!いかないでよ…おねえちゃぁぁぁぁぁ!!!」


最後まで言いきれずに大声で泣き出してしまった。

それにつられるように他の子供たちもまた大粒の涙を流して大声で泣き出してしまう。

子供たちから「いかないで」「いっしょにいて」「ずっとくらそうよ」と、必死にルゼにすがりつく。

遂には子供たち皆が泣き出し、港に子供たちの鳴き声が響き渡る。

泣き止まない子供たちに困り果ててしまうルゼ。しかしこのまま置いていく訳にもいかない。


「さっきから喚いてるのは誰だ!!うるさくて仕方がねぇ!!」


突然後ろから男の怒鳴り声が聞こえてきた。どうやら船乗りの一人が、騒ぎを聞きつけて様子を見にきたようだった。

船乗りは王妃の前で泣き腫らす子供たちを見るや否や、さらに青筋を立てて怒りを露にする。


「なんだこのガキ共は!てめぇらみたいな汚ぇガキ共が王妃様に近づくんじゃねぇ!!さっさと失せろ!!」

「ひっ!!」


船乗りの剣幕に怯えて体を震えさせる子供たち。大の大人に怒鳴られたのだから、当然の反応である。


それでも子供たちは大好きなルゼから離れようとせず、彼女にすがるように寄り添う。

だが子供たちの態度に船乗りはますます腹を立て、子供たちの一人に掴みかかる。


「離れろって言ってるのが聞こえねぇのか?この…!!」


バキッ!!


鈍くて重々しい打撃音が、その場に響き渡る。

それは船乗りの男が産み出した音だ。


「お…王妃様…何で…。」


ルゼが船乗りの顔面に蹴りを入れたことで、骨がきしむ音が船乗りの顔から鈍く響き渡った。

ルゼの蹴りをまともにくらった船乗りは、たまらずその場に倒れてしまう。


「何でもクソもない!!大の男がこんな幼気な子供たちに手を出すなんて!恥を知りなさいよ恥を!!」

「し…しかし、このガキ共、王妃様を困らせて───」

「変な勘違いしてんじゃないわよ!逆よ!この子達を泣かせちゃったのはあたしの方よ!この子達は何も悪くないの!!」


大の大人も思わず竦み上がるほどの剣幕でルゼが怒鳴り付ける。あまりの迫力に船乗りはそれ以上何も言えなくなってしまう。


「ところで、準備はもう終わったの?」

「あ…あともうすぐで終わります!!」

「じゃあまだ終わってないんじゃないの!さっさと準備を進めなさい!!こんなところで油売ってるんじゃないわよ!!」

「は…はいぃ!!失礼しましたぁ!!」


逃げるように船へと走り去っていく船乗りの男。作業場に戻ったのを見届け、子供たちの方を振り返る。


「………。」


ルゼの視線の先にいたのは、ポカンとした顔を浮かべる子供たち。さっきまで涙を流して大泣きしていたのが嘘のように皆絶句している。ルゼの態度の豹変ぶりに驚き、思考が停止してしまったのだろう。


(怖がらせちゃったかしら…。)


子供たちの前で他人を怒鳴り散らしたことを少しばかり反省するルゼ。だが幸いにも、子供たちは驚きのあまり、泣き止んで大人しくなった。


「驚かせちゃったね。もう怖いおじさんはいなくなったからね。」


ルゼは再びしゃがんで、子供たちに目線を合わせる。


「…皆は、大切な人は、いる?」


今度はルゼから子供たちへの問いかけ。


ルゼからの急な問いかけに、頭に一瞬ハテナを浮かべる子供たち。しばらく互いの顔を見合ったりして戸惑いを見せたが、その内の一人が口を開く。


「おれ、いもうとがいる。」


ルゼからの質問の意図が分からないなりに、正直に答える男の子。


「その子は、君にとって大事な子なのね。」

「うん。ケンカもするけど、たいせつないもうとだよ。」


男の子が元気良く答える。

その男の子につられるように、他の子供たちがぽつりぽつりと喋り始める。


「だいすきなおかあさんがいるよ。」

「とってもやさしいパパが、いる。」

「おともだちと、いつもいっしょなの。」

「…せわのやける、おとうとが…。」


皆がそれぞれ好きな人を思い、その名前を言葉にする。大切な人の姿を思い描いたためか、子供たちの顔は幾分か明るくなる。

子供たちの気持ちが落ちついてきたところで、ルゼは話を続ける。


「あたしもね、弟のことが大好きなの。その弟はね、今大切なお仕事をするために頑張っているんだ。」

「…おしごと?」

「そう。でもね、そのお仕事はとっても危険なお仕事なんだ。もしかしたら、死んじゃうこともあるかもしれない。」


まだ幼い子供たちではあるが、「死ぬ」ということがなんなのかは理解しているようだ。彼女の口から聞こえてきたその単語に、子供たちは怯えだす。だが身震いが止まらなくなっても、ルゼは真面目な顔で続ける。


「この国で暮らせばそんなことしなくても良いかもしれない。それでも、弟はお仕事をしたいって言ってる。『僕しかできないから。僕がやらなくちゃ。』って言ってる。だけど、危険なお仕事なのは変わらない。」


ルゼの顔から笑顔が抜け、段々と口調が暗くなっていく。

大切な家族を失ってしまうかも。無惨に死なせてしまうかも。彼女とて、そんな不安が無い訳ではない。だが彼女の不安な心が、語りを真に迫るものにして子供たちを夢中にさせる。


「だから、あたしがついていかなきゃいけないの。弟が危険な目に合わないように、弟を守れるように、あたしが側にいてあげたいの。」


ただ純粋に、家族が心配だから。弟を助けたいから。彼女が旅についていったのは、ただそれだけのこと。


「皆のことは勿論大好きよ。でも、あたしは家族を守らなきゃいけない。だから、皆といっしょにはいれない。」

「………。」


再び目に涙を溜め始める子供たち。

だが今度は無闇に泣きじゃくることはしなかった。


家族のために、大切な人のために国を出る。ルゼの思いが伝わったのだろう。

皆が泣きそうになるのを、服の裾をギュッと握りしめることで何とかこらえる。


そんな健気な子供たちに、ルゼは優しい包容で答える。


「一緒にいれなくてごめんね。でもあたしは、皆と一緒に過ごせて楽しかった。皆のこと、絶対に忘れないから…!」


優しく言い聞かせるルゼの言葉が、子供たちの心に深く刻み込まれる。


「…おねえちゃぁぁぁぁぁぁぁん…!!」


そして、今まで耐え抜いてきた子供たちの涙が、遂に限界に達した。


「おねえちゃん…げんきでね…!」

「おとうとさんのこと、まもってあげてね…!」

「わたし、おねえちゃんみたいに、つよくなるよ…!」


今まで泣くのを耐えていた皆が、一斉にわんわんと泣き出した。

だが今度はルゼを引き留めることは言わず、皆がルゼに涙ながらに別れの言葉を告げた。家族のために頑張ろうとしているルゼのことを、皆で応援してくれた。


子供たちの心優しさに胸を打たれ、ルゼの瞳からも一筋の涙がこぼれだす。


「王妃様!出港の準備が整いました!いつでも出れます!」


後ろから、船乗りの張り切った声が聞こえてくる。

それは子供たちとの、別れの合図でもあった。

ルゼは子供たちを抱き締める腕をほどくと、涙を拭いてそのままたちあがる。


「みんな…元気でね…!」


子供たちに別れを伝え、船の方へと歩み始める。

子供たちは未だに泣き止まないが、今度はルゼを引き留める者は一人としていなかった。

寂しさに打ちひしがれながらも、ルゼの邪魔をしてはいけないと、皆が子供心ながら理解できたのだ。

その代わりに皆が波止場に集まり、目一杯両手を降ってルゼに別れを告げる。


ルゼは、子供たちの大粒の涙を伴った暖かい声援をその身に受けながら船に乗り、海原へと旅立った。


もう戻ることのない砂漠の国に、思いを馳せながら。












陸から離れ、海原をひたすらに走る大型の船。その船の船首にルゼは立っていた。少し赤く腫れた目を凝らして、ただひたすらに水平線を見張る。

だがそれにも飽きたのか、傍らで待機させたボロボロの男に声をかける。


「本当にこの方角で間違い無いんでしょうね?」

「へ…へい…。間違いございません…。」


傍らの痩せ男は、怯えながら伝える。

これ以上聞いても無駄と分かったルゼは、また水平線へ視線を向けなおす。

どれだけ気持ちを急いても意味がないと分かっていながらも、逸る気持ちを抑えられない。

この水平線の向こうで、最愛の弟が待っているのだから。


(イノセ、すぐに助けるからね!待っててね!)


海原の向こうにいる弟に思いを馳せる。弟の救出を心に誓いながら、島が見えるその瞬間を今か今かと待ち続ける。


そのとき、彼女の瞳に何かが映る。


空と海の境に、ごつごつした物体がうっすらとぼやけて見える。

あれは、陸地だ!!


「あった!あんた!あそこで間違い───」


痩せ男に確認をとろうとしたそのときだった。


クルルルァァ!!


「…え。」


船の甲板のあちこちから突然紫色の霧が吹き出し、黒い人型の化け物───ヴィラン───が現れた。


「な…なんなんだこいつら!?」


突然の招かざれる客達に驚く船乗り達。彼らに目を付けたヴィラン達は、それぞれが思いのままに船乗り達を襲い出す。


「て…敵襲だ!!お前ら!!気ぃ付けろ!!」

「なんだよこいつら…!おい!誰か王妃様を…!」


慌てふためきながらも船中に聞こえるように叫んで危険を伝える船乗り達。だがそうはさせないと言わんばかりにヴィランが腕を振り上げて船乗りの一人に襲いかかる。


「や…やめろぉ!!」


その腕の先の鋭い爪が己に振り下ろされそうになり、船乗りは思わず目を固く瞑る。


「はぁっ!!」


すぐにルゼがヴィランに強烈な蹴りを見舞い、その黒い体を吹き飛ばす。そのままヴィランは船から追い出され、海の底へと沈んでいった。


(何でいきなりヴィランが…!まさか、カオステラーが出たの!?でも、今のところは何にも感じないし…。)


ルゼは神経を研ぎ澄ませてカオステラーの気配を探るが、それらしい気配は感じられない。イノセより鈍いとはいえ、本当に現れたのだとしたら、自分でも何か感じるはずなのに。


クルルルァァァ!!クルルルァ!!


次々と甲板に現れ続けるヴィラン達。どうやら考えてる暇もなさそうだ。


「あんた達!!聞きなさい!!」

「は…はいっ!!」


急いでルゼは辺りにいた船乗り達に激を飛ばす。王妃の号令に船乗り達は身を引き締めて彼女の言葉に耳を傾ける。


「こいつらはあたし達の敵よ!!何でもいいから武器になるものを振って、一人残らず海へ叩き落としなさい!!」

「し…しかし、俺たちは兵士でも何でもないんですぜ!?いくらなんでも戦うなんて…!」

「その鍛えた体は飾りじゃないでしょうが!!今頼れるのはあんた達だけよ!!船乗りのど根性、あたしに見せてみなさいよ!!」


無茶な要求に戸惑いを隠せない船乗り達。だがルゼはしり込みする彼らに叱責を浴びせ、更に船乗り達を鼓舞させる。


「が…ガッテンでさぁ!!」

「お前ら!王妃様の前だ!根性見せろぉ!!」


王妃からの激励を受けた船乗り達は瞬く間に奮い立ち、手頃な道具を振り回してヴィラン達を追い払う。


勇気付けられた彼らを見たルゼは、すぐに痩せ男のいる方へ向く。


「あんた!本当にあの島で間違いないで…あれ!?」


だがさっきまで男のいた場所には、誰もいなかった。





「へへっ…。なんだか知らねえが、ラッキーだったぜ…。今回ばかりは、神様に感謝だな。」


船尾に取り付けられた小型のボート。痩せ男はその目の前に立っていた。

その手には、革の袋に詰められたイノセの荷物を抱えている。

ヴィラン達の起こした騒ぎに乗じて逃げ出したのだ。


「もうこんなことに付き合ってられるか…!あの小娘のせいで何もかもメチャクチャだが、せめてこれさえ持ち帰れば、一財産は築けそうだぜ…!」


船首の方を見やり、独り言を吐き捨てる痩せ男。すぐに顔を向き直して、急いでボートに乗り込もうとする。


「そんじゃ、あばよ…!王妃様よ…!」


クルルァァ!!


「…へ?」


痩せ男が乗り込もうとしたその時、ボート内にヴィランが現れた。ヴィランの黄色い瞳が痩せ男を捉え、にじり寄る。


「お…おい!こっちじゃねぇよ!あっちで暴れてこいよ!!」


クルルルァァ!!


男の訴えも虚しく、ヴィランが飛びかかる。とっさに痩せ男は目をぎゅっと瞑り、思わず叫び出す。


「ひ…ひぃ!!やめろってんだよぉ!!」


ドスッ。


船尾に響いた鈍い音。それに気付き、痩せ男はゆっくりと目を開ける。


開いた瞳に映ったのは、ヴィランの腹に自身の拳を埋めたルゼの姿。

拳を見舞われたヴィランはその姿を霧へと変え、やがて完全になくなった。


ヴィランが消えたことを見届けると、ルゼはゆっくりと痩せ男へと視線を向ける。

その眼光は、もはやそれだけで人を殺せそうなくらいに、鋭く研ぎ澄まされていた。


「それ持ってどこへ行く気なのよ。あんた。」


ドスの効いたルゼの声。男は体を震えさせながらも、必死に言葉を絞り出す。


「い…いやぁ、あの変な奴らに弟君の荷物が荒らされると思いやして…私が守っておこうかと、ぐぇっ!!」


最後まで痩せ男の主張を聞くことなく、ルゼは男の胸ぐらを掴んで持ち上げる。不意を打たれた男は思わず荷物を落としてしまった。

男の足が床から離れ、足をジタバタと動かすが、なんの意味もない。


「あの島。」

「…へ?」

「あの島で間違いないのね。」


ルゼが聞いているのは、言うまでもない。船首から見えた陸地のことだ。

痩せ男は苦しみながら、ただ首を縦に振って答える。


「なら…もう用済みよ!!!」


ルゼは痩せ男の土手っ腹に渾身の蹴りを見舞った。


「ヴッ!!!」


潰れた嗚咽を吐き出し、男はそのまま船の外へ蹴り飛ばされる。そしてそのまま海面へと叩きつけられた。

ルゼは痩せ男に冷えきった目を一瞬だけ向け、すぐに足元の荷物を回収する。


「王妃様!どうかなさいましたか!?」


そこへ騒ぎを聞き付けた船乗りの一人が駆けつけてきた。船乗りはヴィランを警戒してるのか、デッキブラシを構えながらルゼに話しかける。


「なんでもない。それより、船は動かせる?」

「いや、あの黒い連中はだいぶ追い出せましたが、まだなんぼか残ってます。しばらくは無理ですね…。」

「そっか…。」


残念そうな顔つきでルゼに報告する船乗り。耳を澄ましてみると、確かにヴィランの声が僅かに聞こえてくる。

弟のところまであともう少しだって言うのに。どうしようもない状況に、ルゼは頭を抱えるしかなかった。


こうなったらあとは自力で泳いでいこうか、なんて考えが頭をよぎる。

だがいくらルゼでも、水平線の向こうに微かに見える陸地まで泳ぐなど、さすがに無理があった。気持ち的には全く問題はないが、体力が続くわけがない。そのくらいは彼女にも理解できた。

せめて泳ぎが得意な別の誰かに変身できたら良かったのだが…。


そう。例えば、魚とか…。


「…!」


その瞬間、ルゼの頭に閃きが生まれた。


「あんた達!あたしは先に行くわ!船は任せたわよ!!」

「え!?ちょっと、王妃様!?」


すっとんきょうな声をあげる船乗りに目もくれず、ルゼは船首へと駆け出す。


そうだ。あるではないか。魚になれる方法が。なんで今まで気が付かなかったんだろう。


ルゼは船首までたどり着くと荷物袋に手を突っ込む。しばらく袋の中を漁ると、目当てのものが見つかった。


イノセが父から託された、『導きの栞』。

それをすぐさま自分の『運命の書』に、栞を挟む。


(イノセ!ちょっと使うわね!)


水が入らないように袋の口をしっかりと塞ぎ、荷物を抱えてルゼは海の中へと身を投げ出す。


「はぁ!?王妃様何してるんですか!?」

「待ってください!危ないですって王妃様!!」


それを見た船乗り達が慌てて止めにかかろうとするが、もう既に遅い。ルゼの体は海の中へと消えていった。


ルゼが入水した地点を見つめ、呆然とする船乗り達。

だが彼らは、さらにあり得ない光景を目にすることになる。


ザバァ!!


「…へ?」


ルゼが沈んだ場所から、何かが飛び出してきた。

それは淡い紫の長髪の、袖の無い白いロングスカートに身を包んだあどけない少女。

だがその下半身は、完全に魚のそれだった。

人間にはないはずの鱗と尾びれをたなびかせ、少女は軽やかに海面を泳いで見せる。


その手には、ルゼが持っていた革の袋が握られていた。


その少女は猛スピードで水平線の島へと泳ぎ、あっという間に見えなくなってしまった。


後に残ったのは、男達とヴィランが乗る船だけだった。


「お前ら…見たか…?」

「あれ…人魚…ですよね…?」

「王妃様って…人魚だったのか…?」


立て続けに信じられない光景を見せられた船乗り達は、ただ目を白黒させるしかなかった。


******


「彼が原因だなんて、なぜそう思うのですか。」


どこからか現れて、いきなり突拍子も無いことを口にした奴隷長。その彼女に憤りを感じながらロードピスは食いかかる。

しかし奴隷長は、彼女の態度が気に入らないと言いたげに鼻で嗤う。


「あらあら、あたしにそんな態度をとるなんて、あんたはいつからそんなに偉くなったんだい?」

「…今はそんなこと言ってる場合じゃないでしょう。質問に答えてください。奴隷長。」


いつになく反抗的なロードピスに圧力をかける奴隷長。普段のロードピスなら押し黙るところだろうが、今のロードピスにそんなことを気にしている余地はなかった。


イノセがこの騒ぎの元凶?

あんなに誠実で心優しい彼が?


ロードピスは何一つ納得がいかないまま、奴隷長は話を進める。


「だってそうでしょう?本来の運命から外れる原因なんて、そこの坊や以外にあり得ないわ。あんた、そこの坊やにそそのかされたから、今こんなところにいるんだろう?」

「それは、私が勝手にやったことです!彼は悪くありません!」


奴隷長の証言に、ロードピスは懸命に抗議する。

イノセもまた驚きを隠せなかった。なぜ奴隷長が昨日の会話を知っているのか。


その刹那、イノセの脳裏に今朝の旦那様の言葉が甦る。


───証言はすでにあるのだよ…!お前が自室にロードピスを呼び出し、密会をしていたと…!───


確かに旦那様は、他の人が昨日の会話を見ていたと言っていた。おそらく、奴隷長のことなのだろう。


「はっ!哀れなもんだねぇロードピス?そんな坊やに目をつけられて本気にしちゃってさ!わざわざ踊り子の姿のまま坊やの部屋に行って色目まで使って、まぁはしたないったらありゃしなかったわ!あんた、よっぽどその坊やに惚れ込んでいるようね?」

「何を言って───!!」


まるでロードピスの意見など聞くつもりがないと言わんばかりに捲し立てる奴隷長。

その度を超えた傍若無人な態度に、イノセは苛立ちを覚えた。今はこんなところで言い争いをしている場合ではないろうに。


(ん?「惚れ込んでいる」…?)


「とぼけんじゃないよ!『運命の書』で定められた腐れ縁とはいえ、どれだけ長い付き合いだと思ってんのさ!あたしゃ全部察しているんだからね!」

「!!───やめて!!」


ロードピスの発言をまたもや遮り、より一層甲高い声で怒鳴る奴隷長。

先程から繰り広げているやり取りなのに、今回のロードピスは今までに無いほどの過剰な反応を見せた。


まるで、隠し事をばらされそうになるのを阻止するかのように。












「あんた、その坊やに気があるんだろう?」












「…は?」


奴隷長の突拍子も無い発言に、イノセは思わず言葉を失う。


(ロードピスが自分を好きになった?何を言ってるんだ?この人は…。)


響きだけならば大層ロマンチックではあるが、今、こんな状況で言うことだろうか。たとえ奴隷長が本気でそう推理してるとしても、端から聞いたらふざけてるとしか思えない。


半分呆れながらも、何気なく自分の視線をロードピスの方へと向けてみる。


「……………。」

「…え。」


視線の先にいたのは、目を見開き、俯いて、真っ赤に染まりきったロードピスの顔。


「あんたを拾ってくれたご主人様や今まで面倒を見てやったあたしへの恩を忘れるばかりか、将来結ばれる運命にあるファラオすらも捨てて、その坊やと一緒に島の外へと駆け落ちしようだなんてね!悲劇のヒロイン気取りかい?笑わせんじゃないよ!」

「………。」


まだまだ奴隷長の主張は終わらない。

まるで腹いせをするように捲し立てる嘲笑混じりの怒号を、ロードピスに浴びせ続ける。それでもロードピスは、ただワナワナと体を震えさせて俯くしかなかった。

見るに耐えない光景だが、それよりもずっとイノセの意識を引き寄せたのは───


(ロードピスが、僕を連れて、島の外へ?)


またもや突拍子もない奴隷長の主張。本来なら呆れて聞き流すところだ。

だがそう言われてみると、確かに心当たりがある。


今朝方、ロードピスがイノセを無理やり起こしたこと。異様にイノセを急かし、部屋から連れ出したこと。尚且つ、必要以上に警戒しながら屋敷の玄関を目指したこと。

そして玄関で会った旦那様が突きつけた推理。


──お客人の船に忍び込み、二人でここを抜け出すつもりだったのだろう?───


ヴィランの出現に気を取られて、頭からすっかり抜けていた。だがあの時も、ロードピスは旦那様の主張を聞いて真っ青になっていた。

まるで隠し事がばれた子供のような、気まずい顔に。


そして今のロードピスのこの反応。ここまで要素が揃えば、最早疑う余地はない。


───彼女は本当に、イノセと共にこの島を出ようとしていたのだ。


黙ったままのロードピスの反応に気を良くしたのか、奴隷長はどんどんヒートアップし、ますますロードピスを怒鳴り付ける。

すると奴隷長は、今度はイノセの方へと向いた。


「そこの坊やもなんと罪深いことか!拾ってくれた旦那様の大恩があるだろうに、よりにもよって旦那様の一番のお気に入りに手を出すなんてね!二人とも揃いも揃って恩知らずもいいところだよ!」


ロードピスのみならず、イノセに対しても当たり散らすように怒鳴り付ける。別にイノセはロードピスに何かした覚えもないのだが、奴隷長はイノセの事情などどうでもいいと言わんばかりに嘲笑い、喚く。


「あんたはさっき、本来の運命が変わったからこんな事態になったっていってたよねぇ?奴隷達の長たるこのあたしが逆らわれるのも、ロードピスが脱走を図るのも、全てが『運命の書』に無いことだ!ストーリーテラー様がお怒りになったのも、あんたのせいだと考えるのは自然なことだろ?」


奴隷長の主張の勢いは留まることを知らない。まるでイノセに全ての責任を擦り付けようとしてるかのようにしつこく責任を追及してくる。

彼女の言い分は、根拠と呼ぶには些か強引だ。


だが、間違いではない。




「…ええ。その通りですよ。僕の存在が、この世界に異変をもたらした。」




それはイノセ自身が一番良く分かっていた。


「…ほう?」

「はっ!!思った通りだよ!!あんたが全ての元凶かい!!」


イノセの自白に、旦那様の怒りが頂点に達し、奴隷長は勝ち誇ったように笑う。


「旦那様!この男は危険です!!今すぐに海へ突き落とし、始末してしまいましょう!!それで全て丸く収まるはず!!それであなたのお気に入りのロードピスも、あなたの元へ戻ることでしょう!!」


奴隷長が旦那様に対して、恐ろしいことを進言した。

彼女は、イノセのことを殺すつもりだ。

あまりにも突拍子もない提案に、イノセは理解が追い付かなかった。


「お前さえ…、お前さえいなければ…!」

「!?何を…ぐっ!!」


その隙を突かれ、旦那様がイノセに掴みかかり、そのまま彼を押し倒す。


「いっ…!?つっ…!!」


押し倒され、仰向けになったことで背中が地面にぶつかる。その瞬間、多少落ち着いてきた背中の痛みがぶり返してきた。


それだけでは飽き足らず、彼の首に手を掛けて、ありったけの力を込めはじめた。

イノセは自分の首を絞める旦那様の手を掴み、何とか引きはがそうとするが、背中の痛みのせいで集中できない。


「さあ、年貢の納め時だよ!この悪魔め!!あの日生意気にもこのあたしに逆らった報い、いまここで受けてもらおうかい!!」


イノセが悪戦苦闘してる姿を見てた奴隷長が、高らかに笑いながら宣言する。しかしイノセはその宣言に疑問を抱く。


(報い?何のことだ?)


自分は彼女に何かしただろうか?そんなに恨まれるようなことはした覚えはないが…。


そのとき、ハッと思い出した。


ここに来て間もない頃。ロードピスが奴隷長に仕事を押し付けられた時に、彼女の仕事を手伝うと言ったあの時だ。


───ただ激を飛ばすだけでなく、どうすれば早く終わらせられるかを考えた方がいいのでは?───


ひたすらに喚き散らす彼女に向かって、自分はそう反論した。奴隷長は苦い顔をしながら引き下がったため、そこで話は終わったと思っていたのだが…。


(あの時のことをずっと根に持っていたっていうのか!?子供じゃあるまいし…!!)


思い返すと、奴隷長へ反論した時にロードピスもイノセを叱責していた。

目をつけられたと。もう何事もなく過ごせないと。


それが今更、こんな形で響いてくるとは…。


「ええい!くそっ!」

「ぐほぁ!?」


イノセは押し倒されたまま、旦那様の腹を渾身の力で蹴り飛ばす。

腿をあげるため背中に体重が掛かり、半端ではない激痛が走るが、何とか自由になった。


咳き込みながらも何とか立ち上がったイノセを見て焦ったのか、奴隷長は背後の奴隷達に怒鳴り散らす。


「ほら!あんた達も何ボーッとしてんだい!!さっさとあのガキを取り囲みな!!早いとこ縛り上げて、とっとと海へ───」






パァン!!!!






何の予兆も無しに響き渡ったその乾いた音に、誰もがその場に固まった。

一瞬だけ思考が止まったイノセが次に気づいたのは、奴隷長のいたところの目の前に立つ、ロードピスの姿。


彼女は自らの手のひらを、目一杯の力を込めて奴隷長へと叩きつけたのだ。


少女の放った渾身の一撃は奴隷長の頬に直撃し、その身体を思いっきり殴り飛ばす。

あまりにも唐突な一撃に、奴隷長は目を丸くしてロードピスを見つめるしかできなかった。


「…あんた…いい加減にしなさいよ…。」


怒りに震えながらも透き通るような声が辺りに響き渡る。他ならぬロードピスの声だった。

彼女の声が届いたことで、やっと奴隷長も正気に戻った。自分が誰にやられたのかを理解した瞬間、また顔を真っ赤にして怒鳴り散らす。


「あ…あんた何様のつもりなのよ!!長であるあたしに向かって、こんなことしてただですむと思って───」










「そんなこと、知ったことか!!!!!!!」










奴隷長の怒声すらも上回るほどの、普段の彼女からは到底想像できない怒号が周囲を揺るがせた。

その声量もさることながら、気丈ながらも控えめな彼女との激しいギャップに、その場にいた誰もが身をすくませた。

他の奴隷達は勿論、イノセや奴隷長も。


「ひぃっ!?」


旦那様に至っては腰が抜けてしまい、まともに立てなくなってしまった。


だがロードピスは周囲の目など、意にも介さない。


「奴隷の長?主人?ストーリーテラーから与えられた役割がそんなにいいのか!!その役割を盾に人を踏みにじることがそんなに好きか!!気に入らないのは別にどうでもいいけど!!人の気持ちを面白半分で踏み荒らして、逆らったら子供みたいにギャーギャー喚いて、挙げ句の果てには八つ当たりで殺すなんて、どこまでも見下げた女よあんたは!!!」


今まで燻っていた爆弾が爆発するように不満をぶちまける。普段からロードピスに対して威張り散らす奴隷長も、まさかここまで強く反論するとは思わなかったのだろう。彼女にすっかり気圧されてしまっていた。


それでもロードピスの気持ちは収まらない。今度は旦那様の方へ向き、その鋭く冷たい視線を旦那様に突き立てる。


「あんただってそうだ!!私の容姿が気に入ったのかなんなのか知らないけど、一方的に愛でるばかりで私のことなんて何にも見ちゃいないじゃない!!」

「な…何を言う!!今まで私がどれだけお前に良くしてやったと───」

「じゃあ私が毎日苛められた時にあんたは何をした!!私の気持ちを少しでも察したか!!売り飛ばされた奴隷にさせられた人の気も知らないで鼻の下伸ばしてベタベタして!!そんなもの愛でも何でもないわ!!挙げ句の果てには自分で勝手につれてきたイノセに八つ当たりまでして!!今の事態が本来の運命から外れたことが原因なら、本来は来るはずのなかったイノセを連れてきたあんたにも原因はあるんじゃないの!!!」

「な…なっ…。」


自分の主人に向かって無礼極まりない物言い。旦那様はロードピスを怒鳴り付けようとするが、ロードピスの間髪入れない言い分に反論することも叶わず、絶句するしかなかった。


「拾ってやった恩?面倒みてやった恩?そんなもの糞食らえよ!!『運命の書』に記された役割だからって、勝手に人を奴隷に落としてこき使って、それのどこに恩を感じるんだ!!!」


やがて彼女の瞳から潤いが溢れ、頬を伝って滴り落ちる。


「それに比べたらイノセにはとても救われた!!彼は私が困ったときに手を差しのべてくれた!!上っ面だけじゃなくて、本心から私を心配してくれた!!『運命の書』になかった彼の存在に、私は救われた!!私に寄り添ってくれた彼を好きになって何が悪いの!!」


ロードピスは、涙ながらにイノセへの好意を周囲の人間に明かした。完全に頭に血が上っている彼女は、なりふり構わずに己の本心をぶちまけ続ける。


「もうあんた達みたいな最低な人間に振り回されるのはまっぴらだ!!これ以上───」


私の邪魔をするな───。

そう言いかけた時だ。


クルルァァァ!!


「危ない!!」

「…えっ。」


彼女の運命を否定する発言に反応したのだろうか。またヴィラン達がどこからともなく生まれた。

慌てて逃げ惑う奴隷達をよそに、ヴィランの一体が爪を立ててロードピスに飛びかかる。

イノセは彼女を庇うために急いで駆け寄る。


(こんなところで、彼女を死なせるわけには…!)


しかし振り下ろされたヴィランの腕が、彼女に届く方が早い。

もうヴィランの爪が彼女の目の前に差し掛かっていた。


(まずい!!間にあわな───)










「退けぇ!!!」


イノセが諦め掛けたそのとき、威勢のいい声と共にヴィランが吹き飛ばされる。壁に激突したヴィランはその体を霧に変え、そのまま霧散した。

周囲の人間達が、何がなんだかといった様子でポカンとした顔を浮かべる。

だがイノセだけはその姿に見覚えがあった。


団子に纏めた長い金髪。動きやすさ重視の露出の多い格好。そして何より、細い体からは予想もつかない切れのある体術。


見紛うはずがない。


「姉様!?」

「良かった!やっと見つけたわよ!イノセ!!」


驚くイノセに、突如現れたルゼは満面の笑顔で力一杯抱きついた。


「うわっ!ちょっと!!姉様!?」

「ごめんね!!あたしがついていながら、こんなところに拐われて…。辛かったよね!寂しかったよね!でももう大丈夫!!今度こそ、あなたを離さないんだから!!」


再会できて感極まったのだろう。イノセの頭を強く撫でながら、大粒の涙を流すルゼ。わんわんと泣き腫らすその姿は、まるで体の大きな子供のようだ。


「ちょっと、背中触らないで!傷!傷あるから…あいだだだだだ!!!」


ルゼの腕が背中の患部に触れて、イノセはたまらず絶叫する。すぐに痛みを訴えるが、今の彼女の耳には届いていない様子。力ずくでルゼを引き離そうとするも、彼女の腕力には到底敵わず、どうすることも出来ない。


しばらくイノセは、患部ごと抱き締められる激痛と、周囲から抱擁姿を注目される羞恥に耐える羽目になった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る