終章3
ケイオスループ社開発ルーム、深夜。
悠理はひとり、そこにいた。
「さあて、みんなが来る前にやっちゃわないと」
コンピュータの上を、悠理の白く細い指先が滑る。
「詩、歌、絵、小説、映画、人々は様々なものに思いを乗せて物語をつむぐ。コンピュータも同様。であればまた、コンピュータの物語からも妖精は魂を得ることができるはず」
悠理は言霊を叫んだ。全身全霊をかけて叫んだ。魂をこめて言霊に呼びかけた。
〈来たれ!〉
言霊の叫びはコンピュータネットワークを通じて、文字通り網の目のように広がる。
〈来たれ!〉
〈我 月光の解放者〉
〈妖精とは 言霊が体 物語が魂〉
〈我が体を 我が言霊を与えよう 魂よ至れ ティターニアより至れ!〉
悠理の体が銀色に輝き、力を放散する。その体は透き通っていく。悠理の叫びとは逆の経路で、膨大な言霊が悠理の元へとネットワークを走る。そして一台のコンピュータに集束した。
ディスプレイに光が走る。次々とコンピュータが起動し、ディスプレイのぼんやりした光で開発ルームが満たされていく。ディスプレイにはプログラムの開始シーケンスが映った。丙言語の開発環境が起動する。
「
ディスプレイが応えた。いや、ディスプレイから現れようとするものが。
身長十五センチほどの人型をしたもの、妖精の少女が二人、光の中に輝きながらそこにいた。背中には背丈よりも大きなコンピュータらしき物を背負っている。
「ごきげんようなのです ユーリ様!」「お助けに参上 ユーリ!」
光の中にある小さな少女たちが、頭を深々と下げてお辞儀をした
透き通った姿の悠理は立ち上がり、お辞儀に応える。
悠理が小さな妖精をよく眺めると、コンピュータ言語の言霊が脈々としているのを読み取れた。
悠理は妖精をそっと胸に抱いた。指の隙間から、きらきらした光と笑い声が漏れる。
悠理は一度目を閉じ、そして指の間を見つめ、
「アンジー。あなたたちはね、
妖精たちが笑いさざめいた。
「アンジーなの」「アンジーだよ」
悠理は宣言する。
「丙言語系電詩祝福妖精『双子のアンジー』。命銘、悠理・ユオン。世界初のコンピュータから生まれた妖精にして、丙言語にかけては右にも左にも出るものはなし」
悠理はアンジーを見つめた。アンジーのくるくるした瞳がそれに応える。
「さて、悠理からアンジーたちにお願いがあります」
「お願いされて光栄なの」「アンジーにお任せだよ!」
悠理は顔を近づけて、お願いを伝えた。
アンジーたちは顔を見合わせる。お願いに応えるべきはひとりだけ。
「乱数で勝負なの!」「大きいほうが勝つ勝負だよ!」
アンジーたちはくるりと一回転してから、
「0.6498284382728327!」「0.3873743822638938!」
アンジーは喜び、アンジーは悲しんだ。
「勝ったの! アンジーがお応えするの!」「アンジーは負け負けだよ」
実はもうひとりにもお願いがあるのだと告げると、アンジーたちはきらきらと笑った。
綾と瑞希は、開発ルームの扉を勢いよく開いた。駆け込む二人の瞳に映るのは、全身が透き通る光と化して揺らいでいる悠理の姿。かすかな足元には、学ランが落ちている。
「悠理、馬鹿、馬鹿!」
瑞希は叫び、悠理をこの世から逃がすまいとその腕に抱こうとする。だが、その腕は悠理の体を突き抜けた。
「ああ! 言霊の力が、もう尽きて……」
瑞希は慄き、立ち尽くした。悠理はそっと手を伸ばす。もはや感触のないその手を、握手するかのように綾は包み込む。
「私は還って来た。なのに悠理は行ってしまうのか」
「綾がこれからやろうとしていることには、妖精の力が欠かせないの。そのためには、あたしの力を使いきるぐらいのことなんて、なんでもないのよ」
悠理が元気な声で応える。
「それにね、これは仮初めの体」
「しかし、再びその体を作ることはいくら悠理でも無理なのだぞ!」
瑞希が叫ぶ。消えかけた顔に、悠理は笑みを浮かべた。
「もう、この体はいらない」
「私はまた、悠理を犠牲にするのか!」
綾の涙が、ほとんど実体のなくなった悠理の手を濡らす。
「犠牲? とんでもない。あたしはこれが面白いから、綾の物語を最後まで読みたいからやってるんです」
悠理の声は心底楽しそうだった。もう声しか聞こえなかった。
「あたしの服は綾に預けます。指輪は瑞希にまたあげる。カグヤに必要だろうから。じゃあ綾、お先に! あなたに銀の弾丸あれかし!」
悠理の気配が消えた。虚ろになった宙から焔水晶の指輪が落ちる。
「この指輪が、悠理の体を形作る核だったんだよ」
瑞希は呟く。
「我が本当に欲しいのは、指輪なんかじゃないのに」
ケイオスループ社、地下二階。
綾と瑞希は薄暗い明かりに灯されたそこにいた。
「さて、綾。このビルは地下何階までの設計だったでしょう」
「地下二階よ」
目の前には、さらなる地下へと続く階段の扉がある。
「悠理は言っていた。ずっと、
「先日の電気街で地下に落ちて狭間まで接近したとき、塔を目に入れていた私のお手柄だな。塔がこの大地から地下に向かって伸びているなどと気付くのは私だけだ」
瑞希の声は沈んでいた。無理に自慢げな口ぶりだ。
「狭間の領域に近づけば、時の流れも異なってくる。こちらで数日、あちらで十年というのも無理な話ではないが…… しかし、それも戻れてこその話だぞ。綾、本当にいいんだな。十年は長いぞ」
「覚悟ならとっくにしてる。物語に一発で答を出せる銀の弾丸の奇跡、それを悠理は語っていた。その弾丸を手に入れるには、物語を一歩一歩踏みしめて作っていくしかないんだ」
瑞希は心配げに、
「しかし、一人で十年間も作り続けるのはつらいぞ。我が共に行かなくとも本当によいのか」
綾は心の底から晴れやかな表情を見せた。
「ありがとう。でも」
扉に手をかけようとする綾の手には悠理の残した学ランがあった。
「大丈夫、悠理と一緒だから。じゃあ行ってきます!」
さらなる地下への扉を開き、階段を勢いよく降りていく。
綾は薄暗い階段を降りる。果てしなく降りていく。
何分。何時間。何日。どれだけ降り続けているのだろう。
時間が経過しているかどうかすら感知できなくなってくる。
いつの間にか、階段は下りから上りに転じていた。
自分の足音だけが聞こえる。メトロノームのように同じテンポで刻まれている。
狭間の領域には近づいているのだろうか。
もしや、この果てしない階段こそが狭間なのではないだろうか。
始まりも終わりもなく、ただ永遠に歩み続ける。月までも至れと進む。
だが、無限とも思える時の中で、綾の心にまかれた物語の種は芽を出し、木の幹を伸ばし、枝葉を茂らせていった。時の彼方、木は花を咲かせ、実り、種を落とす。木はついに朽ち果て、倒れた体は養分となって、落ちた種を再び芽吹かせる。繰り返し、繰り返し、繰り返し。
そして綾は答にたどり着いた。
かすかな明かりが上方に見える。登り、登り続け、明かりは少しずつ近づいてきた。
扉だ。
綾は扉に手をかけ、静かに開いた。
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