第3章5

 ミナカの去った方角を呆然と見つめていた綾の目に、奇妙なものが映った。敵軍の陣形が、のたくるように複雑なパターンをなしている。天守の翼にある文様と似た形だ。これは偶然などではない、意味を持っている。

 はっとした綾は周囲を見渡す。屋敷を中心として、敵部隊はその陣形で始原文字を描いていた。そのひとつひとつが集まり、巨大な円陣結界を作り上げている。

「結界!」

 妖精を遮断する結界が、屋敷を包囲している。これでは訳が来る訳もなかった。敵は月の巫女ルナルメイデンの戦い方を知り、それを封じてきているのだ。情報を持ち、敵と通じている者。それが、裏切り者のマツリなのだろうか。

 綾は屋根から屋上へと縄梯子を伝って降りた。飛び立つには、ここで火を起こせばよい。火は風を呼ぶことができるはず。

 まだ狼狽しているのかと綾を止めかけたホタルは、綾の目が生きているのに気付いた。この子はなにかに挑もうとしている。

 屋敷内に戻った綾は厨房に駆け込んでコンロの火を全開、真っ赤に焼けたコークスをスコップに載せた。部屋中、屋敷中の言霊に問いかける。

〈燃えるものよ 応えて!〉

 窓を開いて空気を入れ、カーテンに、コークス貯蔵室に、書庫に、赤熱したコークスをまいて火を点ける。

〈ごめん ごめんなさい! 風を呼ばないとみんなが死んじゃうの!〉

 優しく応えが返ってくる。

〈我らは姿を変えよう 火焔ほむらとなろう 愛する者たちのために〉

 彼らが教えてくれる炎の道に従ってコークスを置くと、あっという間に屋敷中へと燃え広がっていく。屋敷中が火に包まれ、窓からは炎が噴き出し始めた。

 天守の屋根では、作業員たちが文字通り手に汗を握っていた。

「ホタルさん、屋敷から火が! もう脱出できないですよ! ここで死ぬよりましです、天守を押し出して滑空しましょう!」

「――もう少しだ。もう少しだけ待て」

 ホタルは手をかざす。大気の身じろぐ気配がある。

 屋敷内を走る綾は胸元に熱い痛みを感じた。しまい込んでいた焔水晶のネックレスを取り出す。それは燃えるように激しく紅の光を発していた。握った綾の心に、ミナカの姿が映る。

 ミナカは右耳につけた焔水晶のピアスを輝かせながら、無数の敵と対峙していた。彼女の大鎌がうなるたびに連合軍兵士たちの首が飛び、胴体が泣き分かれた。

「おォォォォ!」

 ミナカは敵部隊の中央部へと突進していく。目指すは指揮系統の破壊。

 彼女が着ているマビノギオンは燃えるように光り、大鎌は赤熱して火の粉を散らす。大口径の銃弾が直撃するも運動エネルギーを転換されて失い、弾かれて地面に落ちる。巫女騎士メイデンナイトに銃弾は通用しない!

 その突撃を阻もうと大型ハンマーや手持ち式大口径火器で兵士たちが立ちふさがり、しかし大鎌で蹴散らされる。

 戦争の歴史は、火器の発展によって変革されてきた。銃が、大砲が、かつての一騎打ちを否定し、遠距離での集団射撃戦を推進した。

 しかしティターニアの巫女騎士メイデンナイトがその常識を破壊した。彼女たちのまとうマビノギオンは、元素妖精の加護によって火器による高速打撃を別エネルギーに変換、無効化してしまう。刃物もほとんど通さず、なんとか効力を発揮できるのは大型ハンマーなどによる連続的な大打撃だけ。いわゆる鎧の類は銃器に対応できず消え去っていったはずが、今再び、盾が矛に対抗しうる時代を迎えた。

 巫女騎士メイデンナイトが使う近接攻撃手段は、これもまた元素妖精の加護を得て重装甲をたやすく打ち破ることができる。彼女たちにとって近接格闘こそが最高の戦闘手段だ。

 マビノギオンの複製を試みた大陸連合国だったが、元素妖精は月の巫女ルナルメイデンにしか加護・祝福を与えず、形骸しか真似できなかった。

 巫女騎士メイデンナイトは戦場に無敵の専用ルールを強いた。それゆえに大陸連合国はティターニアの存在を恐怖し、禁忌を踏み越えてまで絶滅を誓ったのだ。そう、不可侵だった異神ペイガン・ゴッドの力を借りてまで。

 ミナカの前方に、黒い鎧騎士の一群が立ちふさがった。

告死騎士デュラハン!  異神ペイガン・ゴッドの下僕に堕ちてか!」

 大鎌が炎を発してうなり、打ち下ろされる。鎧騎士の首が飛び、周囲の兵士たちは飛び散る炎に逃げ惑った。

 鎧騎士は落ちた自分の首を拾い上げ、脇に抱える。首はぎろりとミナカをにらみつけて、

「ヨ…… 妖精王 ノ イナイ…… オマエタチ ゴトキガ…… 死ノ使者 ニ カナウト オモウテカ。カ、カ、カタハラ イタイ」

 首の穴から声が聞こえてくる。笑っているのか、頭部のほうは歯をかたかたと鳴らした。

「お前こそが死になさい!」

 ミナカの大鎌が旋回し、デュラハンの腕を切り飛ばす。デュラハンは胸の切り口から大量の血を噴出してミナカに浴びせかけた。他のデュラハンたちも自ら腕を切り落とし、ミナカに血を浴びせる。血のかかった草はどす黒く変色した。血は毒を持っているのだ。

「ミナカ、危ない!」

 綾の声が届くか届かなかったのか、ミナカは血しぶきを跳躍して避けた。

 綾は祈りながら、燃え盛る廊下をなんとか進んで屋上を目指す。

 天守の屋根では、ホタルが決断を迫られていた。頭上を大砲の砲弾が飛び交い、屋敷は火の手を上げ、綾は戻ってこない。万一にかけてでも、天守を屋上から押し出して滑空させてみるか。しかし疾風精シルヴェストルの加護がなくば、たちまち天守は落ちるだろう。

 屋上に、待ち焦がれた綾の姿が現れた。一同は声を呑む。綾の服は炎に包まれていた。

 綾は朦朧とした意識で屋上に出た。屋敷は全体を炎に包まれているが、風はまだ起こっていない。このままではダメだ。風がないのは、疾風精シルヴェストルが来てくれないからか。自分がしょせん妖精から嫌われ者だからか。でも、それがどうした。ミナカは、ホシミは、ツキミは。皆は不可能であろうと戦っている。

 月の巫女ルナルメイデンは倒れていない。文原綾はここにいる!

 綾は天守に両手をかけて、全力で押した。びくともしない。肩を当てて、体中で押す。肩に血がにじむ。綾のきゃしゃな体は痛みの悲鳴を上げようとするが、綾の魂には聞こえない。天守はかすかに反応する。

 ホタルは、天守の皆は声もなかった。綾は全身が炎に包まれている。彼女はそれに気付いてもいないようだ。火焔がドレスのように見える。月の巫女ルナルメイデンでもない、巫女騎士メイデンナイトでもないその姿。あの輝けるドレスは、翼のように広がる焔は。まさか、まさか?

 綾は詠っていた。疾風精シルヴェストルの歌を。風も共に詠った。

〈火と語り 風と舞いし日々〉

〈踊りは炎となりて 大地にその輪を刻む〉

〈我の去りし塚に 時の行きし丘に〉

〈また詠わん 愛する汝よ 汝 疾風精シルヴェストル

 綾と共に、風が優しく天守を押す。天守は帆布いっぱいに風を受けて、大空へと浮上した。波に乗るごとく風に舞って、急速に高度を上げていく。

 大空の天守からは綾の姿が小さくなっていった。

 もう、綾を助けられない。ホタルはがっくりと膝を着く。でも、もしかしたら。あの子ならば。いや、あのお方ならば。

 綾もまた、膝を着いていた。皆を助けることができた。よかった。輝くネックレスを握り締める。ミナカの心を感じた。

 ミナカは告死騎士デュラハンを切り倒して、連合軍の指揮所に肉薄していた。大鎌がテントを切り裂き、護衛に囲まれた将帥たちが姿を現す。

 全身血塗れのミナカは、翠色の瞳に司令官とおぼしき女を捉えた。それはマツリ、万塔祀だった。

「マツリィィィィ! 覚悟! なさい!」

「……ミナカか。わざわざよく来てくれました」

 万塔は手を高く掲げ、天を示した。万塔の額に第三の目、魔眼が現れる。開かれた目からは一条の光が天へと発された。

 それに呼応して空に割れ目が開き、その向こうにはまったく違う世界の景色が、そして巨大な存在が見えた。巨大な存在は身じろぎするように動き、割れ目から一部が這い出してくる。それは人の数千倍はありそうな腕の形を取った。

「見よ、巫女騎士メイデンナイト

 巨人の手は大きく開かれ、獲物を求めるように伸びていく。それの目指す先には、上昇中の天守がある。

「あれが、あなたたちの戦略目的なのでしょう」

 抑揚なく告げる、おかっぱ頭に小柄な体躯の万塔を前に、無敵の狂戦士たる凶刃のミナカが震えた。

「お姉様――!」

 ミナカは大鎌に全力を集中する。天を仰いで大きく振りかぶった。彼女のマビノギオンが、大鎌が、竜巻を逆転させたかのように激しく火の粉を渦巻かせ、噴き上げる。

「届きなさいッ!」

 大鎌は天空へと放たれた。火の粉を引き焔の輪となって回転しながら、高く、高く上昇していく。今にも天守を握りつぶそうとしてた巨人の手は、焔の輪に指を五断された。天空に呪わしき苦痛の声が響いた。指を失い、腕は狭間へと戻っていく。空の狭間もゆっくりと閉じ始める。

 万塔は恐るべき圧迫感を発した。周りの護衛すら後ずさる。

「あなたたちの戦略目的は達成。万塔の戦略目的は、あなたたち巫女騎士メイデンナイトを殲滅すること。いずれも達成される、めでたいことです」

「わたしが災厄の杖レーヴァテインを失ったからといって、たやすく倒せるなどと思うのですか!」

 ミナカは引かない。背筋を伸ばし、胸を張り、万塔を見据える。

「思いません。だから準備も怠りません。災厄の杖レーヴァテインを使えないあなたは、異神ペイガン・ゴッドの敵ではありません」

 万塔の後ろに控えていた男が立ち上がり、歩み出る。歩みながら、男の肉体は変容していく。男は生きた写本、人間製の精典リア・ファイル。肉体がめくれ上がり、無数のページに分かれて開いた。その一ページ一ページに文字が蠢いていた。

〈八百八貢 秋津洲あきつしま異神ペイガン・ゴッド倭建命やまとたけるのみこと』〉

 万塔の声で、ページの間から別の肢体がにじみ出てくる。ページから手が現れ、足が伸び、それまでの手足は代わりにページへと引き込まれていく。それが終わったとき、そこには異神ペイガン・ゴッド『倭建命』が依りついていた。

 倭建命は、女とみまがう美しい細身の体を古代の装束に包み、静かに目を閉じている。長剣を手にした姿は神話を描いた一幅の絵画のごとく神々しい。

 その倭建命を直視した周囲の将官たちが、金縛りにあって硬直する。異神ペイガン・ゴッドの神々しき威に、脆い魂と肉体を射抜かれたのだ。苦痛にうめきたくとも、体を動かすことすら許されない。それが異神ペイガン・ゴッドの前にある人間の宿命。

 ミナカはそれでも動く。宿命にも逆らう。焔を足にこめて、倭建命に回し蹴りで挑みかかる。それが凶刃のミナカたる証。

 倭建命は手にした剣、草薙を軽く振るだけでミナカの蹴りをなぎ払った。剣圧がミナカのマビノギオンから焔を吹き消す。紅のストッキングに一筋の傷が走った。

 万塔は悠々として、

「草薙は炎を鎮め風を治める剣。紅蓮の巫女騎士メイデンナイトであるあなたはチェックメイト」

「負けそうになったら! 盤はひっくり返せばいいんです!」

 ミナカは倒れていた兵士からハンマーを奪い取り、大きく振り回して倭建命に叩き込もうとする。

 倭建命は閉じていた目を開いた。爬虫類のような目が、まっすぐにミナカを見据えた。まるで暴風のような威圧を浴びてハンマーは砕け散り、ミナカの体も吹き飛ばされる。

 起き上がろうとするミナカは、銃を構えた兵士に囲まれていた。一斉射撃、三方からの銃弾がミナカを捉える。紅の光を失ったマビノギオンは満足な防弾効果を発揮できない。ミナカの口から血が流れる。

「い、痛くなんかないんです。そんなこと言ったら、お姉様から、わ、笑われます」

 燃え盛る屋敷の屋上で綾は焔水晶のネックレスを握り締め、ミナカが血まみれになっていく姿を脳裏に見ていた。

 ミナカは落ちていた剣を杖に、あえぎながら立ち上がろうとする。マビノギオンから焔の輝きは失せたが、代わりに彼女の熱い血潮が服を染めていく。

「お姉様はおっしゃいました…… ミナカは元気なところがよいと…… だから! わたしは!」

 だから、ミナカは立ち上がる。背筋を伸ばし、胸を張り、剣を構え。

 もう見ていられなかった。あそこまで行く。なんとしても助ける。命に代えても。自分に梢の上を走り抜ける力はないから、高台の階段を降りて地面を走るしかない。

 綾は崩れかけた屋敷への階段を降り、燃えるドアに手をかけた。力任せに引っ張って開くと、あふれる熱気が全身を包み込む。進めば確実に死が待つだろう。しかし綾は向こうも見ずに飛び込んだ。


「あれ、お帰り、綾。どうでした、かわいい女の子たちはたくさんいたかな?」

 悠理のアパート、その風呂場に、かつて布だった黒焦げの切れ端をまとった姿で綾は突っ込み、勢い余って悠理の入っている風呂桶に飛び込んだ。

 悠理は笑顔で迎えて、綾をなでる。

「綾ったらもう、積極的なんですから。あら、どうしました。ほら、ね、泣かないで。体を洗ったげますから。そう、そうなの、お話したいことがあるんですね」

 綾は声もなく慟哭した。

 なぜ私は戻される! 皆が、ミナカが死んでしまう! 私の命にかえても皆を救いたいというのに、朔月テイアが私を拒絶するというのか! どうして!

 焔水晶のネックレスからは輝きが失せていた。

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