第3章3

 食事が終わると、綾は精典装マビノギオン作りの作業場に回された。

 妖精に嫌われている自分が作業してよいのかと不安だったが、妖精を払ってしまうことは、むしろ正式な持ち主が着る前に変な癖がついたりしなくてよいらしい。

 作業場では、織機を使って布が作られていた。

 布の一枚一枚に、始原文字を使って精典リア・ファイルの物語が縫い込まれていく。縫っているのはホシミとツキミ。いろいろと器用な双子だ。

 精典リア・ファイルの一言一句を覚えているのか、ふたりは本を見たりすることもなく膨大な字句を縫い込んでいく。

 ふたりは表情がくるくると変わった。今作業しているところの物語が楽しければ笑顔、つらければ苦しい顔、ということらしい。

 綾の作業は、できあがっていく布の整理に、縫製された後の片付けといった雑用だ。その合間で、布に記された精典リア・ファイルの物語へと目を通してみる。

 様々な妖精の伝承がそこにはあった。これら伝承は、単なるお話ではない。妖精にとって、言霊が体、物語は魂。言霊による伝承こそが妖精の全存在を記述している。

 記された物語には、妖精の伝承があるかと思えば、叙事詩や小説、戯曲の類もあり、なかには織り込む作業中に考え付いた小話まで含まれている。作者名にはホシミ・ツキミとあった。

 作業しながら読み進めていた綾の目が止まった。

 〈吟遊詩人マビノグタリエシンの語りし妖精境と妖精王の章〉

 そこで断章となっている。

 綾は続きを知りたくて、できあがっているマビノギオンをめくってみた。

 マビノギオンに使われている布には、その全てに精典リア・ファイルの内容が記されている。着る本と俗称される由縁だ。この構造により、マビノギオンは妖精と呼ばれる存在が依りつく結界を生じさせる。

 めくっていくが、断章の続きは見当たらない。

 マビノギオンに使われている布は膨大な面積を持つ。アンダーウェア、ペティコートにワンピース、エプロンと幾層もの構造を成し、さらにフリルで結界の面積を増して効力を増加させているのだ。

 一休みに入ったホシミ・ツキミが、続きを探している綾に、

「アヤの分もご用意しましょうか」「お見立てしましょうか」

 返事も聞かずに綾のサイズを測りだした。

 マビノギオンは基本的にオーダーメイド。綾が今来ているのはとりあえずのお古だ。ホシミ・ツキミは綾用に仕立ててあげようというのだった。自分には使えないからと綾が断る間もなく、ふたりはてきぱきと測り終わって図面を引き始める。

 手持ち無沙汰となって、綾はまた妖精王の断章を探すことにした。

 妖精王はティターニアの王。月の巫女ルナルメイデンたちが仕える対象。しかし建国の始めから空位であり、その秘密が明かされたときに国全体が動揺、そこを攻められてティターニアは壊滅した。

 もっとも、その妖精王と精典に語られているそれとは違うようだった。断章は見つからないものの、わずかな記述を綾は発見した。

 精典リア・ファイルにある妖精王とは妖精境をしろしめす者のことらしい。妖精たちについてはあれほど詳述されているのに、それを支配している妖精王についてはこれだけしか分からない。もしや、単に書かれていないのではなく、禁忌なのではないだろうか。ティターニアという国の妖精王が秘密の空位であったこと、精典リア・ファイルの伝承に語られる妖精境の妖精王について断章となっていること。そこにはなにか関連があるように感じる。

 綾が考えにふけっていると、作業場にミナカが入ってきた。背中には大きな網籠を背負っている。

 ミナカは不機嫌そうな顔をして、

「お姉様。働きもせず暇そうにしていますね」

 うれしそうな声で言った。

「ごめん。やることがなくなっちゃって―― え、え?」

 ミナカは綾の手を取り、強引に腕を組んで、部屋の外へと引っ張っていく。密着してくるので歩きづらい。

「ミナカ、どこに行くの?」

「料理の材料を集めにです。ほっておくと一人で探しに行ってしまうでしょう。仕方ないですから、やむを得ずわたしが付き添います」

 ミナカは隠れ屋敷の正面扉を開いた。広大な森が眼下に広がる。

 この屋敷は生い茂る樹木群の上に建てられていた。樹木の数倍はある太い石柱が大きな屋敷を支えている。屋敷全体を加護する妖精結界の効果で、外部からはその姿が見えない。隠れ屋敷と言われる由縁だ。

 扉の先には、地面へのらせん階段がある。昨日はこの階段を登って屋敷に戻った。今度はその階段を降りようとする綾に、

「お姉様。しっかりつかまってください」

 お姫様抱っこで、ミナカは綾を軽々と抱えあげた。

「えええ? え~ッ!」

 扉からはるか下界へと、ミナカは綾を抱いたまま飛び降りる。綾は必死でミナカに抱きつく。

 大地が迫ってきた。綾は衝撃を覚悟して息を止め、目をつぶる。――なにも起きない。

 目を開けると、そこはもう地面だった。衝撃を感じることもなかった。これがマビノギオンの力なのだと綾は知る。

 ミナカは綾をお姫様抱っこのままで歩き出した。

「ミナカ! もういいから降ろして」

「……はい、お姉様」

 嫌々そうに、ミナカは綾を降ろしてくれた。ふたりで連れ立って歩き始める。

 ミナカが甘えた上目遣いで、

「こうして森にふたりっきりでいると、初めてのときを思い出しますね! お姉様」

「そ、そうね」

 とりあえず綾は相槌を打った。

「倉に閉じ込められていたお姉様を助け出して、ふたりで森に逃れて…… 追いかけてくるのは村の追手かと逃げ続けたのに、月の巫女ルナルメイデンの救いだと知ったときのお姉様ったらもう!」

 綾が返答に困っていると、ミナカは慌てて、

「愉快ではない思い出でした…… ごめんなさい」

 突然申し訳なさげな顔になってしまう。

 綾のほうこそ慌てて、

「そんなことないってば! ――それで、その後、私たちは……」

 水を向けてみると、また明るい表情に戻って、

「あのとき月の巫女ルナルメイデンからも逃げていたら、今もわたしたちは森の中でふたり暮らしていたのですね。それもまたよかったかしら、お姉様」

「そうね、ミナカ」

 お愛想ではなく、本当にそれもよかったのではなかろうか。むしろ、昔からそれを望んできたかのように綾は感じていた。

 やがてたどり着いた目的地は、近くを流れる川だった。静かな清流に、川魚が群れをなしている。

 ミナカは背中から大きな網籠を下ろし、手に持って構えた。川の岩場へと飛び移る。網籠の中には数尾の川魚が跳ねていた。飛び移る瞬間、網籠で川からすくい取ったのだ。

 それを数度繰り返すだけで、網籠はいっぱいになった。五十尾以上は固いだろう。

 もう十分と綾が告げたので、ふたりは川べりに座って休んだ。そろそろお昼時だ。

 ミナカは網籠から魚を二尾取り出して、手をかざす。マビノギオン腕部に赤い光のラインが走り、文様が浮かび上がる。手の先に焔が生じ、魚を焼き始めた。香ばしい匂いが広がっていく。

 火加減を綾が指示し、ちょうど良い具合に焼きあがった魚をふたりは分けて食べる。

 綾が近くで集めてきたハーブを散らすと、味は格段に良くなった。

「お姉様…… 夢みたいです」

 満腹したミナカが、綾に寄りかかる。

 そう、まるで夢のようだ。いつか見た夢の記憶が蘇ろうとしている。赤い髪に金色の瞳を持つ少女の夢。瞳の色を除けば、ミナカと瓜二つの少女。綾が描いてきた少女は赤い髪に翠色の瞳、そう、今目の前にいるミナカそのままの姿。絵の少女がミナカならば、夢の少女は誰なのか。しかし瞳の色は違えど、とても別人とは思えない。

 鳥が鳴き、ミナカが突然立ち上がった。綾を恐怖が襲う。反射的にミナカの手をつかんだ。

「お姉様、どうしました?」

 心配げにミナカが見下ろしている。動悸を抑えて、綾は、

「ミナカこそ、どうしたの?」

 ミナカは周囲を見回して、

「……そろそろ屋敷に戻りましょう、お姉様。嫌な感じがしました」

 網籠を提げて、ふたりは帰り道を急ぐ。大漁だというのに、綾の心は曇っている。根拠のない恐怖を、懸命に綾は打ち消していた。ミナカが去ってしまう。永遠に。

 頭の中で声が響いている。

 手を離したのはお前なのだと。


 綾の次なる仕事は天窓磨きだった。

 壁に梯子を掛けて登り、手を伸ばしてよく磨く。大きな屋敷らしく、天窓までの高さは軽く五メートルはある上に不安定な足場だ。

 ティターニアの首都が陥落した後、紅蓮組の把握している限りではこの隠れ屋敷が現在唯一の拠点なのだという。残党が集結して人数は百人ちょっと。敵である大陸連合国軍は約三十万人の動員力があるから、単純計算で一対三千の兵力比だ。冗談にもなっていない。

 他の組については残念ながら連絡が途絶えており、動向は不明だ。となれば、この屋敷は最後の拠点なのかもしれない。

 天窓からは眼下に広がる鬱蒼とした森が見渡せる。

 森は大陸連合国のジャガン州とティターニアの境に広がっている。かつて西ティターニアと呼ばれた地帯を、いまやジャガン鎮軍は東ジャガン森と呼称していた。

 綾は天窓から西方を仰ぎ見た。地平線の彼方に薄ぼんやりと、天まで届く白い柱のようなシルエットが浮かび上がっている。あれがもし本当にあるのならば、とてつもない高さの塔ということになりそうだ。

「手が止まっていましてよ」「隙ありですわよ」

 左右から突然声をかけられて、綾は危うくバランスを崩しかけた。いつの間にか、双剣のホシミ・ツキミが梯子の上まで音もなく登ってきている。二人は猫耳帽子を載せた頭で、綾のわき腹にすりすりした。まるで猫だ。

「あ、ごめんなさい。珍しい光景だったんで」

 綾の言葉に、ホシミ・ツキミはあらぬ方向へと視線を向けながら、

「珍しいですって」「ここに来てもう三日は過ぎてますのにね」

 首都メイデンポリスから森まで脱出してきた綾たちの一行がジャガン鎮軍に襲撃されていたところを、ミナカたち精鋭の巫女騎士メイデンナイトが救出してこの屋敷に連れてきたのが三日前、ということらしい。自分がここで料理をしたのは今日が始めてのようだ。

 ホシミ・ツキミはいったいどこを見ているのかまた別の方向に視線を向ける。猫があらぬ方向を見るのはそこに霊がいるからだという話を綾は思い出した。背筋に寒気が走ったが、深くは気にしないことにして、

「食事のとき、マツリって人の話をしてたよね」

「売国奴のことですわね。マビノギオンの秘密を売り渡し、隠れ屋敷の場所も知らせた…… 未来永劫、絶対の完璧に許しませんことよ。この紅蓮組隠れ屋敷だけはまだ場所を伝えていなくて本当に良かったですわ」

「どんな人だったの?」

「……妖精や言霊について誰にも負けないほどの深い知識があって、マビノギオンの改良にも協力していたのに…… まさか妖精と言霊を交わせるほどの人が連合国に力を貸して、あんな異神なんかを生み出すなんて…… あれ? そういえばアヤもあの裏切り者とお話したことはありましてよね?」

 慌てて綾は、

「う、うん。みんなにはどうだったのかと思って。ねえ、妖精王がいないことをばらしたのも、マツリなの?」

 ホシミ・ツキミが静止した。目を見開いて、

「正しい言い方ではありませんわ」「妖精王はいらっしゃらない、などと嘘をばらまいたのがマツリ。そうでしてよ」

 綾の知っている話と矛盾している。妖精王は空位であり、存在していなかったはずだ。宗教的な存在を信じているということなのだろうか。綾は慎重に言葉を選んで、

「どうしてマツリはそんな嘘をつけたのかな」

「妖精王がまだお還りではないのをいいことに」「失われし妖精境と共に妖精王は狭間へお隠れになった、などと虚言をばらまいたマツリ。今度会ったら双剣の錆にしてくれますわ」

 妖精王は空位なのに存在しているという。それはつまり、今はここにいないが、どこかからいずれ還って来るという意味なのだ。では、精典に章の名前のみはありながら、記述のない〈吟遊詩人マビノグタリエシンの語りし妖精境と妖精王の章〉とはなにか。妖精境が失われしこと、妖精王が去りしことを詠っているのではないのか。還って来るのを待っているのは、去ったからこそのはずだ。妖精境と妖精王の帰還を信じ、奉仕しながら待ち続ける存在。それが月の巫女ルナルメイデンということか。

 しかしゲーム『ペイガン・ゴッド』では妖精王など存在しないと明言されていたはず。ゲームのオチなのだから、設定資料集にざっと目を通した程度の綾だってそれぐらいはしっかり覚えている。だが、妖精王が還って来る、といった設定は記憶にない。ゲームの物語とこの世界は等しいのかと思っていたが、これは小さいようで大きい違いだ。このずれはどこから生じるのだろう。

 月の巫女ルナルメイデンは妖精王のお還りを信じ、ゲームのほうは不在を語る。月の巫女ルナルメイデンが妖精王の去りし物語を精典で断章にまでしているのは、言葉が形になるという、言霊の力を知っているからだろう。では、ゲームが反対に不在を語るのは? それはつまり?

 綾が答にたどり着こうとしていたときだった。

 ホシミ・ツキミの視線が鋭く動き、森の西方に向かう。

 きらりと光るものが一瞬見えた。

「あれは?」「敵!」「大軍!」

 ホシミ・ツキミがくるりと回転して床に着地した。音ひとつしないのが、どうにも猫科だ。

 二人は壁に備え付けられた伝声管のふたを開けて、

「西南西の方角に敵主力を確認ですわ」「斥候に出ますことよ」

 それだけを手早く伝えたことが、かえって事態の重大さを物語っていた。

 綾は既視感に襲われてびくりとする。学校で、アルバイト先で、綾が来ると妖精は去ってしまい、綾のせいで不幸がやってきたのだと皆は綾を責めた。ここでもそれは変わらないのか。

「アヤは避難の準備をなさって!」

 梯子を降りながら綾は、

「私が不幸を呼び込むんだ…… やっぱり……」

 その呟きに、ホシミ・ツキミの二人はきょとんとして、

「私たち、おいしいアヤの料理がいただけましてよ」「とっても幸運ですわよ」

 二人は綾の片手ずつをそれぞれの両手で握り締めた。

「アヤのおいしいご飯こそが祝福ですわ」「ご加護ですわ」

 綾は二人を両手で抱きしめる。

「……私にできることを教えて」

 ホシミ・ツキミは首をかしげて微笑んだ。

「お元気でね」「次にお会いできたときは、またおいしいご飯を」

 その言葉を残し、二人は駆け出していった。戦いが始まるのだ。

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